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――四月二日午前九時。海岸通り。
「キツいです、カノンさん。もう無理。帰りましょう」
「もう少しよ、ユキちゃん。砂浜が見えてきたら折り返し。ほらほら頑張れー!」
取り付く島もない態度に、ユキは絶望感を味わった。
自転車通学で脚力にはそこそこ自信があったものの、ガチで走り込んでいるカノンにはかなわない。ついていくだけで精一杯である。
青い空。白い雲。そしてジョギングをしている女子高生二人組。どこにでもありそうな、のどかな春の風景だった。
(もう帰りたい……)
朦朧とする意識の中で、昨日カノンと約束を交わした自分を呪いたくなった。
一日だけカノンの日課に付き合う――たったそれだけのことなのに、廃人になりかねない勢いで体力が消耗していく。
それでも何とか持ちこたえ、最後まで走り抜いた。一本桜に手をつき、肩で息をする。それからずるずるとフルマラソンを完走したランナーのようにへたり込んだ。
桜の花びらが、ゴールしたパーカー姿の少女を祝福しているようだった。
ただ、当の本人にそんな風情を感じる余裕はなさそうである。
「カノンさんの体力、ハンパないですね」
「明日もどうかしら。気分転換にもなって気持ちいいでしょ?」
一足早く戻っていたカノンから、冷たいペットボトルを受け取った。すぐに喉を潤す。水をこんなに美味しく感じたのは生まれて初めての経験だった。全身に鳥肌が立った。
「午前中はここまでにして、午後からは……ね?」
「温泉は久しぶりだなぁ。普段行きませんからね」
「私は美人の湯派なの。でも山寺温泉の露天風呂も捨てがたいと思わない?」
「迷いますね。どうしましょう」
「コンビニで待ち合わせて、そこで決めましょう。まずは身体の手入れを済ませなくちゃ」
ユキは頷いた。
水分補給により身体の隅々にまで元気が染み渡り、女の充実感が心にも侵入してきた。
走っただけで充実感を得られる。その心地良さと手軽さは麻薬めいた危うさを含んでおり、ユキは自覚がないままランナーズハイの状態を体験していた。
「では午後一で待ってまーす」
カノンにそう告げて自転車へと向かい、サドルに跨がった。
あとに残されたのは、春風に舞う桜の花びらと黒髪を掻き上げる女。
木の根元で佇む女は、薄い笑顔を浮かべていた。
ユキの姿が見えなくなったところで、カノンは携帯電話を操作した。
「プロジェクトY(ユキ)進行中。今、そっちに向かっているところ」
「了解。まずは生活習慣の改善からだ。妹に気づかれないよう、慎重に事を進めなければならない」
「私達があの子の面倒を見れるのも残りわずかね。そう考えると、少し寂しいわ」
「仕方がないだろう。僕は東京に、君は京都に進学を希望しているわけだし」
「分かってるわよ」
「これから先、妹一人でもやっていける自信と実力を与えてやる責任が僕達にはある」
「だから打ち合わせしたとおりよ。と言ってもほとんどが行き当たりばったりなんだけど。とにかく、私が体力面を全面的にサポートするから、ミノルは学業の方をお願いするわ」
「承知している。では打ち合わせどおりに進めるとしよう。千里の道も一歩から、だ」
こうして、ユキの苦難に満ちた日常が始まった。
今はまだ、本人は知らない。
〈おわり〉
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