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6話 僕のことなんて
どうしたらいいのか、本当に分からない。僕はどうしようと、モジモジしてしまった。
仕事を探すのも、不景気だから難しい。すると柔らかな笑みを浮かべた社長に、とある提案をされた。
「では、こうしましょう。私の秘書になってくれませんか?」
「秘書……ですか」
「はい。ちょうどもう一人、欲しかったところなんですよ」
そう言って優しい笑みを浮かべて、突飛なことを言い始める。距離が近くて、急に恥ずかしくなった。
そのため少し距離を取ると、少し残念そうな表情を浮かべていた。その表情が、捨てられた子犬みたいで可愛く思えた。
思わず社長の頭を撫でてしまう。思ったよりも金髪って硬いんだな……そう思っていると、手を握られた。
彼よりも大きくて暖かい手が、心強くてドキドキしてしまう。そしてそのまま、手を舐められた。
「ひゃっ……」
「感度がいいですね」
思わず変な声が出て、口を自分の手で抑えてしまう。この人といると、可笑しくなってしまう。
僕は蒼介が一番好きなのに、浮気されてショックを受けていた。確かに……運命の番の効力は、僕が思っているよりも強いのだろう。
僕の幼なじみにも、運命の番に出会って結婚した人がいる。最初は強く反発していたけど、今では只のバカ夫夫だから。
だからきっとそれだけ、強い運命で導かれるものなんだろう。でも僕と蒼介はそうじゃなかった……。
ただ、それだけのことなのだろう……。頭では分かっていても、どうしても蒼介の影をどこかで探してしまう。
今目の前にいて心配してくれているのは、社長なのに……。やっぱ、僕って最低なのかもしれない。
もう少し頑張ってみてもいいのかも……そう思って、社長の提案を飲むことにした。
どの道、会社を辞めるにしても引っ越すにしても手続きが必要だ。その準備が整う間だけでも、お世話になろうと思った。
「秘書の件、お願いいたします」
「はい、ありがとうございます」
「でも……あ、あの……経験がないので」
「大丈夫ですよ。人は誰しも、初心者です」
そう言ってもらえて、少し肩の荷が軽くなったような気がした。優しい笑みを浮かべてくれて、それが嬉しかった。
それから社長に言われて暫く、休むことになった。年末だし出社しても、直ぐに長期の休みに入る。
秘書になるための、勉強もしないといけないし……それより、彼と顔を合わせるのは辛いから。
社長は会社に電話していて、僕は自分の鞄の中にある仕事用のノートを取り出していた。
僕の担当している業務を他の人たちに、回さないといけないし。やることがたくさんあって、息つく暇もないだろう。
スマホ見たくないな……彼からの連絡来てるかな。僕のスマホを見ると、一件も彼からの連絡がなかった。
「期待してたのは、僕だけだったのかな?」
あれだけ、流しても無くならないんだな。止めようと思っても、ずっと永遠に流れてくる。
時間は夜の八時を指していて、こんな時間に取引先には電話できない。良かったのかもしれない。
今電話なんて出来そうにないから……リビングのソファに座って、声を押し殺して泣いてしまっている。
社長に聞こえると更に、心配をかけて迷惑になってしまうから。それでもどうしても、止まってくれない。
それどころか、止めどなく溢れていく。どうしても声も出てしまって、自分でも驚くくらいに我慢できない。
「……もう、蒼介は僕のことなんて」
どうでもいいと、思ってしまったのかも……あの家を出たら、他に行くとこなんてないのに。
普通心配して、電話なりしてくるだろう。それなのに、一件も連絡が来ていない。落胆してしまうのと同時に、少し安堵している自分がいる。
今話してしまえば、頭の中にあるぐちゃぐちゃな感情を全てぶつけてしまいそうだから。
僕が涙を堪えきれずにいると、いつの間にか来ていた社長に抱きしめられた。優しくて、暖かい匂いがして安心してしまう。
「広瀬さん、泣きたい時は無理しないで下さいね」
「う……うぐっ……」
「大丈夫ですよ……私は、いなくならないですよ」
頭を撫でてくれて背中を摩ってくれて、僕は溜まった不安を流すことができた。怖くて気がつくと、社長にしっかりと抱きついていた。
それはそれとして、いつまで抱き合っていればいいのだろうか。恥ずかしいけど、この熱を離すことが出来なかった。
「広瀬さん、落ち着きましたか? お腹、空きませんか?」
「そういえば……あっ」
「クスッ……素直ですね」
社長に聞かれた途端に、僕のお腹はぐうと主張した。僕のお腹の音を聞いて、優しく微笑むと僕から離れた。
そして柔らかな笑みを浮かべて、頭を撫でてその場を後にする。キッチンの方に行って、何やら作り始めた。
鼻歌なんかも聞こえてきて、上機嫌なのは明白だった。何か仕事でいいことでも、あったのかな……。
ほんと社長って変な人だと思う。それから社長が、作ってくれた食事を口に運ぶ。イケメンな上に仕事もできて、料理も美味いとか完璧でした。
「美味しいですか」
「は、はい。美味しいです」
「それは良かったです。味噌汁のおかわりは」
「では、お願いします」
お椀を渡すと嬉しそうに、立ち上がって味噌汁を注いでくれた。そして、またダイニングテーブルの僕の前の席に座る。
ニコニコ笑顔で僕のことを、見つめている。その笑顔が眩し過ぎて、直視できずに目を逸らしてしまう。
食事を全て平らげて、僕は満足していた。そんな僕をもっと満足げに、見つめている社長に気になったから聞いてみる。
「社長は、食べないんですか」
「私は広瀬さんが、満足なら満足ですよ」
「……つっ」
「なんて、嘘ですよ。作っている時に、つまみ食いしたので」
そんな風に言って口元に手を持ってきて、ウインクをしていた。その時の仕草がまるで、映画のワンシーンみたいに見えた。
それはそれとして、また揶揄われてしまった。意外と人をいじるのが、好きなのだろうか。
意外な一面を見れて嬉しいのと、少し恥ずかしくなってしまった。そのため少し、話題を変えることにする。
「あの、このままの格好でいるわけにもいかないので……明日にでも、家に帰って荷物持って来たいんですが」
「あー……それもそうですね。分かりました。私も同行します」
「しゃ……ちょうもですか」
「はい。もし鉢合わせしたら、お互いに冷静ではいられないと思うので」
優しい笑みを浮かべながら、そう言ってくれた。確かにそうかも……会いたいようで、会いたくないから。
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