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9話 ウザかった
年末を暗い気持ちで、過ごしていた。それでも花楓さんがいてくれるから、少しずつ前向きになれた。
僕が担当していた取引先は、同僚や先輩が引き継いでくれた。僕たちが、別れたことを知っていたようだった。
詳しくは知らないようだったが、程よい距離感で接してくれた。ほんと今になって、いい人たちに囲まれて仕事してたんだなと思った。
曜日の関係で五日が、仕事始めだった。朝起きてご飯を食べて、スーツを着て車に乗せてもらう。
「あの、社長って呼んでいいですか」
「? もちろんですよ」
「いや、あの……どのタイミングから、花楓さんから社長呼びにするべきかと……」
「ふむ……」
僕がしどろもどろになって、気になったことを伝える。正直、そんなタイミングなんてどうでもいいと思う。
だけど、仕事以外で社長呼びをするとキスされるし。最初冗談かと思ったけど、僕を揶揄うのが好きみたいだから……。
本当にされそうで、困るから……嫌じゃないけど、恥ずかしいし……彼に対する気持ちもあるし。
それにキスされると、体がフワッとしてしまうから。僕がそんなことを考えていると、何かを考えていた花楓さんが口を開く。
「あー、そう言うことですね。ではこうしましょう。車に乗った時点でということで」
「わ、分かりました」
「では帰りは、車に乗った時点で花楓呼びでお願いします」
「はい! 分かりました」
僕が返事をすると、ニコッと笑って車が発進する。ドキドキしてきた……久しぶりの出社なのもあるし、秘書の仕事が自分に務まるのか……。
心配になってきたのもあるし、単純に彼に会うのが怖い。会いたい気持ちも勿論あって、でも同時にとてつもなく怖い。
そんな風に思っていると、会社の駐車場に着いたようだった。正直早く車から、降りなくてはいけない。
分かっているけど、どうしても怖気付いてしまう。そんな時に、社長に手を握られた。その瞬間、驚くくらいに怖くなくなった。
驚いて横を見ると、ニコッと微笑んでくれた。その表情を見ただけで、心がフワッと軽くなったような気がした。
「行きましょうか」
「はい、ありがとうございます」
この人はやっぱ、凄いや……重くなっている僕の心を、簡単に軽くしてくれる。車の助手席のドアを開けてくれた。
そこで普通に差し伸べてくれる手が、必要以上にカッコよくてドキドキしてしまう。
思わず手を握ってしまうと、何故か手を握ったまま出社することになった。案の定、周りから好奇な目で見られてしまう。
「み……なと」
「……そう、すけ」
会社に入った瞬間に一番会いたいようで、一番会いたくない人に声をかけられた。彼の顔を見た瞬間に、あの日のことがフラッシュバックした。
気持ち悪くなってしまって、口元を抑えてしまう。蒼介が心配して駆け寄ってくれたが、社長が手で静止して睨んでいるように見えた。
「広瀬さんは、私が面倒を見ますので」
「……はい。お願いします」
直ぐに社長が、気を遣って腰を支えてくれた。社長の匂いがフワッと香って、少し落ち着いてしまった。
心配してくれている蒼介の顔を見たくなくて、直ぐに目を逸らしてしまった。社長の言葉に傷ついた様子の彼は、トボトボと肩を落として歩いていく。
その様子と少しやつれた様子の、彼の姿を見て胸が締め付けられた。そのせいかまた、気持ち悪くなってしまった。
周りからの好奇な目と、冷ややかな目線で更に気持ち悪くなってしまう。それはそうだよね。
今までずっと一緒にいたこんや……元婚約者と別れて、今は社長の秘書になっている。事情を知らない人から見たら、変に思って当然のことだと思う。
僕がそんな風に悩んでいると、急に社長が両手を叩いた。そして大きな声で嫌味なことを言う。
「皆さん、お仕事の時間です。無駄口を叩く暇があるなら、給料減らしますよ」
「しゃ、ちょう」
社長がそう言うとその場にいた社員全員が、全員蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。
少し怒った様子の社長だったけど、僕を見て微笑んでくれていた。僕のために怒ってくれたのが、嬉しくて心が直ぐに晴れていく。
腰を支えてくれて、そのまま社長室の方に案内される。僕のこと考えてくれているのは、正直嬉しいけど恥ずかしいからやめてほしい。
社長室に到着すると、秘書の方かな? どちらも僕と同じぐらいの年齢の、優しそうな女性の方とメガネの男性がいた。
「社長、おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます。咲良さん、佐々木さん」
咲良さんと呼ばれた女性は、僕を見てニコリと微笑む。佐々木さんは何度も何度も、頭を下げている。
それにしても咲良さん、綺麗な人だな……社長と何やら、話し込んでいるけど……とてもお似合いだな。
僕がそう思っていると、佐々木さんが嬉しそうに話しかけてきた。ほんとに人が良さそうな人だった。
「初めまして、僕は佐々木総士といいます。βですので、普通に接してください。去年から新卒で秘書として、働いています。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。今日からお世話になる広瀬湊です。秘書の仕事は右も左も分からないので、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ! お願いいたします!」
二人してそんな感じに、頭を下げて挨拶をする。優しそうでいい人そうで、よかったなと思っていた。
すると咲良さんと社長が、話し終えたようだった。咲良さんが僕を見て、微笑みながら自己紹介をしてくれる。
「初めまして、私は帝咲良と申します。αですが、番がいるので何かあった時は頼ってください。広瀬さんとは、同い年なので気楽に接してください。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。広瀬湊です。あの、すみません。帝って、もしかして」
「はい。お察しの通り、花楓とは従姉です」
なるほど、だから下の名前で呼んでいたのか……ほっ、とした自分がいて不思議に思う。
嬉しそうにこっちを見ている社長を見て、少しホッとしたのかな? と思って、それからは仕事を少しずつ教えてもらった。
覚えることが多くて、頭がパンクしてしまいそうだ。秘書ってこんなに、やることあるの?
昔から暗記だけは得意だから、何とかなりそうかな……それにしても、疲れたと思って一足早く休憩に入っていた。
社食でナポリタンを注文して、テーブルに突っ伏していた。休んでいる時に、仕事の内容を軽くまとめた資料を見ていた。
そのおかげで何とか、ついていけたけど……マジで大変すぎて、世の中の秘書さんを尊敬するよ。
そう思っていると、左隣に誰かが座ったようだった。僕の隣に座るのは、一人しかいない。
次の瞬間、いきなり抱きつかれた。そしていつものようにハイテンションな、絡みをされてウザかった。
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