桜の木で、会いましょう。

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 ずっと、会いたかったよ。  鼓膜を揺さぶる程の笑い声に、思わず耳を塞ぎたくなる。お花見という儚げな桜を背に、どんちゃん酒盛りを行っている上司らは、正直言って花より団子という言葉がピッタリだ。一人だけ赤いレジャーシートを敷いて、花見の場所取りをしていた時の方が、まだ良かった。  匠はため息を吐く。今年から晴れて社会人となったが、正直言って今すぐにでも家に帰りたい。基礎的な仕事を覚える事はもちろん、花見の場所取り含め、無駄な雑用を押しつけられて日常的に作業量が多いのだ。今日は場所取りの前にも、上司に課せられたプレゼン資料をギリギリまで仕事場で切り詰めていた。そして匠はよれたスーツのまま、背丈を優に超えるレジャーシートを抱え、満開の桜が咲き誇る公園へと駆け込んだ。幸いにも、上司含めた買い出し班が遅れていたから、罵声を浴びせられずに済んだが、匠の心臓は随時銃口でも向けられたかのように萎縮している。 「新人は、まず社内の空気に慣れないとな」 酒を多量に煽って真っ赤になった顔を躊躇なく晒している上司は、場所取りや雑用を押し付ける度そう言っていたが……。その時は至極真面目そうな雰囲気を保っていたのに、今や一つの片鱗も見当たらない。  こうまで人は変わるのか。大学の飲み会の方がもう少し節度を保っていた気はするが……まあ、どちらにせよ、俺は飲まない。  匠はいつの間にか隣に置かれていた缶ビールを、振り払うように視界から外す。鬱陶しくまとわりつく雰囲気を醸し出す宴会は、匠を早急に帰路の道へと進むよう囃し立てた。だが、ここで素直に引き下がろうとしたら、上司や同僚が引き留める事は、目に見えている。楽しげな雰囲気の一部には絶対になっていないだろうに、何故引き留めるのかは匠は分からない。ただ、飲み会でひと足先に帰ろうとした時に上司等々に言われたのは、「空気を読め」だった。  ……よく分からない。  匠は、スッと上を向いた。せめて自分だけでも花を見ようと、あえて宴会優先な雰囲気に逆らった。視界に広がる淡い桃色に、荒み気味だった心が和らいだ。騒がしい酒盛りとは打って変わって、桜は幾らあっても、大人しく風にのって静かにたなびいていた。  この空間に、行きたい……。  匠は桜に触れた風を目一杯吸い込み、目を閉じる。真っ暗に染まった視界に、一人漂うのは心地が良い。丁度、風にさらわれた桜のように……。 「こちらに、いらっしゃい」 歪みに歪みを重ねた不協和音のような声が、匠の背中を一気に逆撫でた。先程まで、安寧の時を噛み締めていたにもかかわらず。  匠は、思わず目を見開いた。黒くて、丸い、瞳孔とかち合った。 ……何だ、これ。  ふと思った言葉を匠は形にする前に、搾り取られる感覚に陥る。あらゆる臓器が締め上げられ、呼吸をする事も困難になった。声を上げようにも、ギリギリと迫る圧迫感が邪魔をする。怖くなった匠は、目だけをぐるりと見渡した。  無数の手が、匠の身体や喉を締め付けゆっくりと桜の中へと招き入れていた。  いらっしゃい、ここに来たいのならいらっしゃい。私達は、いつでも大歓迎よ。  桜の中は、暖かいわ。 「匠〜……あれ、あいつ、どこ行ったんだ?」 赤ら顔を晒した匠の上司が、匠の座った跡と緩い缶ビールを見ながらぼんやりと言った言葉を、桜の花びらが攫って行った。
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