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一木は事前にクリニックに電話をした。
さて、何をどうやって話すか……と考え込んだ。約10年前の5分にも満たないやり取りを覚えているだろうか。電話の向こうから、事務員の声が聞こえてくる。「ご用件は?ご予約ですか?」
「院長先生に会いたいのですが……。」
「申し訳ありません。今、院長は外に出ております。」
「じゃあ、言付けをお願いします………太陽の陽が先生を必要としています。」そして、名前を名乗り、一木の携帯番号を言った。
これで、電話がかかって来なかったら、それだけの縁しかなかったと女王には諦めてもらおう。
その日の夜、一木の元に早川から電話があった。
「あかりが、どうしたんですか?」
「あの時、私と娘は貴方を待っていたんです。ほぼ1年、月に1度か2度。最初はクリニックの前、次にマンションの前に移動しました。」
「これから、私の自宅にいらっしゃいますか?一木さん。」
「いいんですか?」
「はい。」
一木は自分のマンションから出ると赤坂に向かった。早川は、ドアを開けて迎えてくれた。一木が部屋に入ると沢山の写真が壁という壁にフレームに入って飾られているのを診た。
女王だ!それと男の子が二人。一木が写真に見入っていると早川がニコニコして「私の家族です。」と言った。
「上の子は光、下の子は海斗。妻は陽です。」
一木と早川は向かい合ってダイニングテーブルに座った。
一木が先に話し出した。
「あの時連れていた女の子は私の雇い主のお嬢さんです。名前を「よう」と言います。漢字は太陽の陽です。今、多分精神的に健康ではありません。で、先生に診てもらいたいというお願いに参上したわけです。それも往診で。神澤工業の会長のお嬢さんです。」
葵は聞きたいことが山のようにあったが控えた。
「そのお嬢さんは、今、どんな感じですか?」
「元々痩せていたのに、食事を全く摂らなくなってしまいました。泣いてばかりいます。学校にも行けません。お母様がお亡くなりになってから。」
「わかりました。伺いましょう。一つ質問していいですか?」
「陽さんは、私のことを覚えていますか?」
「いいえ。初めて私とお嬢さんが先生にお会いした時には覚えておいででした。それから、直ぐに仕事に入ったので今は覚えておりません。私事より仕事が優先なのです。あの方は。先生もそうではありませんか?」
「そうですね。私もそうやって生きてきました。」
「あの方は、先生のことを“我妻“とおっしゃっておいででした。先生の姿を一目見たいと私と二人で赤坂の道端に立っていました。帰りはいつも泣いていました。」
葵は目を閉じて「そうですか。」と言った。しばらく沈黙が流れた後、葵は目を開けてニッコリ笑った。
「帰ってきました。本当に。嘘でも夢でもなかった。23年、待った甲斐がありました。」
一木は目の前の年寄りの表情に目を見張った。この人間は、なんと優しい表情をするのだろうと。
「くれぐれもお願いいたします。お嬢さんは何も覚えておりません。あくまでも神澤陽として接してください。」と一木は頭を下げた。
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