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綾瀬さんの病状は、些細なことをきっかけに変化する。
時折、幻聴が出る。いつも音楽が聴こえるそうだ。「なんの音楽なの?」と私が訊くと、「色々、ロック、ピアノソロ、雅楽。。。そんなところです。
匂いもするという。「白檀かな。」目を閉じてウットリとした表情をする。
「あとね、先生。離人感があるんです。なんだろう。身体と中身が微妙にずれている。不思議な感じ。」
「匂いか。。。医学的に言うと“幻臭“で片付くんだけど、それだけじゃないのは分かるよ。」
「この世界は本物なんでしょうか。
私は…私の周りには…以前の私の世界には、沢山の人がいた。私は仕事として時に応じて100人、500人10,000人を指揮していた。
春闘に向かってスケジュールを立てて、労使共に根回しをして「満額回答」のストーリーを作り上げる仕事ですよ。オリジナルの脚本家みたいなもんです。
私の世界には、あんなに沢山の人がいたのに、今は誰もいないんですよ。
私は、今ひたすら周りを見回すけれど「私が書記長だった世界」の住人は1人もいません。
それは、私があの世界の中心にいたからなのかな…………とか思うんです。
360°見えていた気でいたけれど、何も見えていなかったのかも。
今ね、自分の中の世界に私は住んでいるんですよ。誰もいなくて「私」がいる。
私は社会的には透明人間ですよ。でも、私の世界は透明なだけで光が当たると何色にでもなる。
最近は、死にたいって思わないんですよ。だって、お仲間は、さっさと退場しちゃった人たちが多いでしょ。
私も何回も何回も死のうとして、でも本当は死にたくないんです。
なんかね、何かに引きずられるんです。すごい力です。抗えないほど。電車に飛び込もうとした時、飛び降りようとした時、本当に引っ張られる感じがしたんです。
先生、私が言いたいことは、目に見える世界は偽物かもしれないと言うことなんですよ。頭が病気だからかな……こんな事ばかり考えちゃう。
すみません。取り止めのない話をして。」
この綾瀬さんの呟きを聞いて私は、陽と翔の事が頭に浮かんだ。
陽は立ち上がろうとして仰向けのまま死んだ。
翔は、海斗のお嫁さんと神器の手入れをしていて、立ち上がってうつ伏せに倒れて死んという。
2人とも原因不明の突然死。
2人の母親も突然死。
綾瀬さんが言ったように、まるで「退場」したかのように全員が亡くなっている。
私たちが生きる世界は、共有認識の世界にはなり得ない。
ひょっとしたら、個々の思い込みで世界は成り立っていて、共存しているのにも関わらず誰も認識出来ない別世界が存在しているのかも知れない。
そもそも量子科学の方向から見れば、真空は無とイコールではない。
屁理屈捏ねなくても、陽が生きている世界だってあるかもしれない。
だったら、私が彼女を待ち続けるのは至極自然な行動だ。
夢で見る景色と同じように、私と陽がずっと一緒にいられる世界が本当は存在しているのかも知れない。
患者さん達は、時々物事の核心を突くような発言をする。
医者という立場を横に置くと、神から天啓を受けているようだと思うことがある。
水彩画、油絵、ファインアート、学術研究、文筆………綾瀬Mと同じ病気の患者は、上手く波に乗れれば、優秀なスタッフが付けば、世界的に成功する人もいる。それも見てきた。
語学に堪能な患者も珍しくない。
「聞かれたくない話は英語。」と綾瀬さんが言うので、「英語で面談しようか?」とふざけたら睨まれた。
自我が崩壊したとさえ見える患者さんが細密な刺子をする。
綾瀬さんは、独り言が多い。
「今は何やってるの?」
「漫画描いてます。」
「見せてくれた、あんな感じ?」
「セリフがね、せんせい。キャラクターのセリフと表情が吹き出してくる感じなんです。涙を溢しながら描いてるんです。私の頭の中の人なのに、気持ちが分かる。辛い、悲しいって叫んでる。会いたい。会いたいって泣いています。だから、私も泣きながら描くんです。
私はその彼女に共鳴しているんです。」
話しながら綾瀬Mは、A4のファイルを出した。
その絵は、制服の女の子が倒れている絵。
顔も陽に似ていた。髪型も陽と同じだった。制服もあの日と同じデザインだった。
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