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帰りたくなる場所
テラスヒューマニティに勤める黒木は慌ただしく資料を捲っていた。大型プロジェクトのリーダーを立ち上げ当初から任されていた。
テラスヒューマニティは中堅の人材派遣会社である。事業の柱である派遣事業に加え、新たに再就職支援事業部を立ち上げ新規参入するための大事なプロジェクトだった。
正確には黒木は代理リーダーである。本当のリーダーは今、ここにはいない。このプロジェクトが始まってまだ一度もそのデスクに本当のリーダーが鎮座したことはない。
「これはどうだったかな……確か……」
新しい資料を取りだし勢い良く捲る。頭に叩き込む日。記憶は日追うごとにまた曖昧になる。黒木の頭はパニックになり、仕入れた情報はすべて真っ白に書き換えられ、日々ご覧の通りとなる。
今だ姿を見せない本来のリーダーからは大丈夫、お前ならやれると背中を押されたが、こんな調子で思いの他うまく話を進められなかった。頭を掻き毟り苛立ちから勢い良く席を立った。黒木は隣に座る川村にタバコを吸う格好をして見せた。
「またですか?」
「燃料切れだ」
川村に呆れらながらも、気にせず喫煙所に向かった。黒木はここ数ヵ月でタバコの本数が増えた。いけないとは思いつつも燃料切れと言い訳し本数を増やしていった。
喫煙所には誰もいなかったが安っぽい灰皿には何本か吸い殻が潰されていた。百円ライターをポケットから取り出し、回転ヤスリを何度も回す。火花が飛び散るばかりで点きもしない。
「こっちも燃料切れかよ」
ライターを空に掲げ覗き込み残りわずかのガスを確認し、意味なくライターを振った。今度こそと再度ヤスリを回す。パチパチと火花を何度か散らした後ようやく炎が灯り、咥えたタバコに近づけた。赤く色が点き、ふわっと灰色の煙がまい上がる。黒木は一気に煙を吸い込み肺に送りこんだ。余韻を感じた後、口から煙を吐き出す。プロジェクトの重圧に耐えるのがこんなに大変だとは煙に混じらせ溜め息を吐いた。
「よう、代理そんなに溜め息ついたら、運が逃げちまうぞ」
黒木は振り向いた。そこには黒木をリーダーに押した人物、桜井が立っていた。相変わらず背筋がピンと立ち年齢よりも若く見える。運が逃げちまうは桜井の口癖だ。
「専務……お疲れさまです」
短く言葉を吐いて目を逸らし、気まずそうにした。桜井は遠慮するなと手を左右に軽く振った。
「その調子じゃ旨くいってないみたいだな」
桜井もポケットからタバコを取り出した火を点けた。ジリジリとタバコを焦がし煙をくゆらせた。
「まぁ、お前に仕事を押し付けた張本人は長期療養中だが」
「そうですね。本部長はお元気なんですか?」
黒木は尋ねた。
「この前、見舞いに行った時は元気だったがな。少しやつれていたけど。なぁ、黒木お前も見舞いに行ったらどうだ? あいつ今回のプロジェクトのこと以上にお前を心配してたぞ」
黒木は目を伏せ一口、二口タバコをふかし灰皿にタバコを投げ入れた。ジュッと音がした。
「でも、こんな状況でどんな顔していいか、電話だけで精一杯で……」
黒木は躊躇いの表情を見せた。プロジェクトを旨く回せない歯痒さから申し訳なく、心配でも会いに行けずにいた。
「おい、あいつが倒れてから顔も合わせないなんて薄情な部下だな。電話だけ? きっとあいつ寂しい思いしてるぜ。あいつはお前なら切り抜けられると思って任せたんだ。もし旨くいってないと思うんだったら、その悩み打ち明けてみろよ。あいつなりにアドバイスをくれるはずだ。あいつのお節介はお前が一番知ってるはずだ」
桜井は最後に一度だけタバコを吸って灰皿に押しあて火を揉み消した。
「でも長居だけはするな。わかってると思うがあいつ熱が入ったらとことこん向き合う性分だからな」
黒木は頷いた。確かに自分の身体の辛さなど忘れてしまう人だなと想像した。桜井は袖をまくり時計を見た。
「もうこんな時間か。今からあいつの自宅へ行ってみろ。後のことは俺が川村に指示する。あいつに任せてみろ。部下の成長を促すのも大事な仕事だぜ」
元部下の容態は桜井も心配なのだ。部下を思う気持ちはきっと、この桜井の元で働いた本部長に受け継がれたのだろう。
「ありがとうございます。本部長の元に行ってみます」
頭を下げ本部長の元へ向かう準備をするため、踵を返しその場を離れた。
桜井は目を細め、黒木の背中を見送った。
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