2 煙管の男

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2 煙管の男

 どれくらいそうしていただろう。  スマートフォンで時刻を見て、さすがに帰らないとまずいなと思った時だった。  ふわりと優しく頬を撫でるような風が吹き、脳が痺れるほどの甘い香りが漂う。 「水守……?」  名を呼び、振り返った先には一人の男がいた。  ただしその男は、水守ではなかった。  唇に咥えられた血のように紅い煙管がまず目についた。時代劇や漫画で見たことはあるが、実用している人を見たのは初めてだ。  煙管の柄の部分には、何か細かい彫刻が施されているが、その模様の正体に気づく前に、その人物の外見の方に意識が奪われた。  闇よりも深い漆黒の中に、艶やかな紅い彼岸花が散らされた着物を着て、目元だけ仮面舞踏会のようなマスクで覆い隠している。  男の姿は上品で、全く下品な要素はないというのに、なぜだか扇情的な装いに思えて、あらぬところが疼く。  いや、見た目だけではなく、この匂いのせいか。  首を振り、靄がかかった思考をはっきりとさせようとしたが、男がゆっくりと近づいてきたことで再びまともな思考が鈍る。 「桜が、綺麗ですね」  男が口元に笑みを浮かべながら、俺の隣に座る。  なぜかマスクの下では心底楽しげにしているような気がして、俺も自然と笑みを浮かべていた。 「ええ……」  本当は桜を鑑賞するどころではなかったが、男が桜を見上げるのに釣られて、上を見上げる。  満開に咲き誇る桜ももちろん美しいが、桜の花々の隙間から顔を覗かせる満月と合わさると、いっそう美しさが増し、心を奪われるものがある。  だが、それよりも目を引くのは。  俺は隣に座る男の横顔を見やり、心がざわつくような感覚を覚えた。  周囲に設置されたライトは桜を美しく見せるためのものだが、桜はむしろ飾りで、この男の方が主役みたいだ、と思う。  俺は、何を考えているのだろう。  さっきまで水守のことを考えていたというのに。  自嘲を浮かべた俺に気づいたのかどうかは分からないが、男は桜を見上げたまま口を開く。 「もし、何か一つ願いが叶うなら、あなたは何を願いますか」 「え……と、俺は……」  操られたように素直に口を開いた時、一瞬だけ水守の姿が浮かんだが、この男の怪しさに惑わされ、まともな思考が掻き消されかける。 「俺は、あなたと……」  桜を見ていた男が、俺の方に顔を向ける。マスクの下の表情ははっきりとは分からないが、先ほどの笑みが嘘のように消え、代わりになぜか悲しげに見えた。  どうして……?  疑問が浮かんだ時、男はすっと顔に手を当て、マスクを取り去る。  下から現れたのは、想像を超える美貌だった。  長い睫毛、すっと伸びた眉、切れ長の目、高い鼻梁に薄い唇。  雰囲気からして美しさが滲み出ていたが、その下はまともに視線を合わせることもできないほどで、俺は思わずすっと視線を逸らし、男が長い指先に挟む煙管に目を向ける。  煙管の模様が光に照らされ、ぼんやりと浮かび上がっている気がして、手を伸ばそうとする。  だが、男は煙管を俺の手が届かないように着物の裾に隠し、俺の腕を掴んだ。 「っ……」  息を呑み、男を見上げれば、その目に囚われる。  深い悲しみを称えた目は、どうしてか薄れかけていた思考の底にある、彼の目を連想させた。  全く似ていない。けれど、いつも表面で取り繕っている笑みの底に隠された感情の色はきっとよく似ていて、不思議なほど綺麗に重なり合う。  それに気がついた時、俺は言葉を発していた。 「俺は、あなたと共にいたい。水守」
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