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3 きっと二人なら
水守と関係を持ったのは、ただの一度きりだった。
けれど、その一度で俺の中では水守の存在でいっぱいになり、他は考えられなくなった。
水守はそんな俺の気持ちに気づいたのだろう。優しくしてくれたし、多少は好きな気持ちもあったのではないかと思う。
何度も恋人らしいデートをしてくれたから。
それなのに。
「栄転のこと言わなかったのは、どうして?」
その男、水守は寂しげに笑う。
「こんなに変わったのに、よく俺だと分かったな」
「最初は分からなかったけど、目と表情が、水守だから」
「……そうか」
水守が、嬉しげに微笑む。マスクをつけていた時もそういう表情をしていた気がしたが、心の底から笑うのは初めて見た。
ドキドキしながら水守をじっと見つめると、水守は俺の頬に手を伸ばし、そっと触れる。
「いつからこうなったか分からないが、俺はいつの間にか、人ではない存在になった。栄転というのも、上司を操り、そういうことにしてもらっただけで、実際はその間にどこか遠くに行って人に戻る方法がないか探しに行こうと思っていた」
「そ……う、なんだ」
「お前にこんな姿、見せたくなかった」
「でも、とても綺麗だし……」
「だからだよ」
「え?」
見つめる時間が長くなるほど、今度は目が離せなくなる。そんな俺に気づいたのか、水守は手を離し、また桜と、空の月を見上げた。
「この姿になると、簡単に人を夢中にさせ、操ってしまう。お前をそういうふうにはしたくなかった。最初は人の姿を保つ間が長く、誤魔化せていたが、次第にこの体に変わる時間が長くなると、人の姿になっている間もその効果が出るようになってしまった。本当はもっと早くこうするべきだったのに、お前が」
「お前が?」
俺は強引に自分の霞がかった思考を晴らそうと首を振り、水守の手を握る。
水守が手を引こうとしたが、強く握って離さず、今度は自ら自分の頬に当てた。
「お前が……」
水守の顔が近づいてきて、俺の唇にそっと触れるような口付けを落とす。
「みず……」
ぱっと離れ、どこかへ行こうとする水守を追いかけようとすれば、いきなり強い風が吹く。
咄嗟に目を閉じてしまえば、風の中、水守の声がした。
「続きは、俺が自分の力をコントロールできるようになったら、言いに来る。だから、お前は一人で待っていてくれ」
一人で。それは恋人をつくらずに、という意味に違いなかった。
風が吹き止み、目を開けた時にはもう、水守の姿はない。
けれど、俺は寂しさよりもまた会える日を心待ちにする気持ちの方が強かった。
「待っているからな」
もうここにはいないと知りながら呟けば、返事のように桜の花びらがひらりと舞い、俺の唇に触れて落ちていく。
俺はその花びらを掴むと、空を見上げた。
今度こそ、心から景色を楽しむ余裕ができ、残ったビールを飲み干しながら、しばらく花見を楽しんだ。
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