1 夜桜に誘われて

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1 夜桜に誘われて

 川原でライトアップされた夜桜が並び咲いているのを見て、ふっと引き寄せられるようにして足を止める。  近くにポツンと設置された自動販売機では缶ビールが売られていて、何気なく購入すれば、すぐに売り切れの表示が出た。  俺のように花見酒を堪能する人間が多いのだろう。  夜桜を振り仰げば、中でも一際大きな木が俺を手招きするように枝先を揺らしており、招かれるままに歩み寄った。  スーツであるのにも構わずにその場に座り、プルタブを開けて缶ビールを一口含む。  川面には満月が映り込んでいて、とてつもなく贅沢な時間を味わいつつも、頭の中の大半は別のことで占めていた。  恋人になるはずだった男との、最後の瞬間を。   「早瀬、お別れだな」  そう告げられ、片手を差し出されたのは、ほんの1週間前のことだった。  後から周囲に聞くところによれば、水守奏(みずもりかなで)の栄転が決まったのは、もう一月以上も前になるらしい。  それをなぜか、水守は俺にだけ直前になるまで明かさなかった。  理由を問えば、 「別れが余計に辛くなるから」  とそれらしいことを言われたが、本当だったかは怪しい。  なぜなら、水守はいつも口元に淡い笑みを浮かべながら、本心を決して悟らせないように隠しているところがあったからだ。  いつも、何かしら影を背負っている。そういう印象を抱いたのは俺だけではなく、周囲の数名の女性社員も同様の印象を抱いており、ミステリアスで魅力的だと思う人も一定数いた。  だからこそ、俺はつまらない感情を抱き、最悪なかたちで水守にぶつけた。 「本当は、女がいたんだろ」  数刻前、送別会の会場から半ば強引に水守を連れ出し、人気のない路地裏に行って詰問した。 「女?」  水守は俺に問い返しながら、内ポケットから煙草を取り出しかけ、やめる。  かなりのヘビースモーカーだと聞いたことがあるが、水守からは煙草の香りがしたことはない。  代わりにいつも漂うのは、とてつもなく甘い、理性を狂わせるような匂いだ。 「俺に、女がいるって?」  水守は、また口元に笑みを浮かべながら感情を覆い隠す。  出会った時はその謎めいた笑みに見惚れたものだったが、今はただ、無闇に苛立たせるだけだった。 「そうだ。だから、俺には栄転のことを言わなかった。女がいるとバレたら、俺が捨てないでくれとしつこく追い縋ると思ったから」 「早瀬」  水守が、なぜか笑みを深くする。 「ほら、そうして笑う。俺のこと、心の中では馬鹿にしてるんだろ」 「馬鹿にしたことは」 「だったら、俺を連れて行ってくれよ」 「……」  水守は黙り、俺を値踏みするような目で見る。いや、その目には何の感情も浮かんでいないのかもしれなかった。  俺はもう、水守を信じられない。  そもそも、最初から信じていなかったのかもしれないけれど。  そう気がついた瞬間、俺の感情は黒く塗りつぶされた。 「水守、お前は最低だ。中途半端に優しくして、お前なしじゃいられない体にしておきながら、あっさり捨てる。……でも、いい思い出をくれたことは」  感謝してる?  そう続けることは躊躇われた。心の中が荒れ狂っているのに、それを綺麗な言葉で着飾って隠すことは、水守がいつも浮かべる笑みと同じ意味合いを持つ気がして。  躊躇い、唇を噛み締めるうちに、会場から同僚の一人がやって来て、俺と水守を見つけ、水守を引っ張っていく。  水守が俺を振り返ったかどうかは確かめていない。  俺はそのまま会場を後にし、気がつけば電車を乗り継いで見知らぬ川原に来ていた。  ビールを飲みながら、水守のことを思い浮かべる。  忘れるためにここに来たのに、結局彼のことを思い出しては、猛烈な虚無感、寂しさ、悲しさに襲われ、知らぬ間に溢れ出た涙が頬を伝う。  声を殺して泣く俺の頭上で、風が吹き、桜の木がさわさわと鳴る。  慰めるように鳴るその音に、いっそう悲しみが深くなった。
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