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向日葵は見ている
巡り来る春の陽気さがその情景を和らげる事は無かった。粗末な造りの木造校舎の隣、改修工事が行われ周りと調和の取れていない新品の体育館の裏、その人目の付かぬ夕闇で秘密の公開は淡々と行われたのである。放課後の藍は星々を人の居る所まで連れてきてくれているが、生憎二人の少女は互いを感じ取るのに必死だった。
痛みを得るまでの時間稼ぎの為にも二人は何か言葉を発するべきであったが、言葉を紡ぐ声帯の製糸場は稼働停止となり、遂には店仕舞いを始めてしまった。驟雨、猫の喘ぎ声等、兎に角環境の何かが著しく変化してしまえば会話の糸口は開かれたであろう。或いは気の置けぬ友人の間柄であれば、無から調和を生成するのも容易かったのかもしれない。
一人の少女はブレザーの下の柔肌を見せていた。その中心に、生々しい火傷跡が遺っていた。喩えるなら鍛冶屋の溶鉱炉で錬成されるあの高温の液体を一滴零したような、もっと端的に言えば向日葵の花のような火傷が咲いていたのである。太陽の方角を決して見ない、太陽からも見放された向日葵が刺青として少女の腹に傲慢にも根を張っていた。
「もう治らんらしいわ」
「……誰が、やったの?」
当然問われるべき問に対して、向日葵の少女は曖昧に言葉を濁すばかりで応えようとはしなかった。無垢の少女は人一倍正義感がある訳でも、ましてや面倒事に首を突っ込む性質の人間では決して無かった。美醜のプライドの為に動く訳でも無い。もしかすれば純粋な好奇心が香水の一滴程だけあったから聞いただけかもしれない。
「伽藍堂に祈るタイプなん? どうでもええやろ」
今まで無垢の少女が選択したと思い込んでいた理想の幸せは、唯の偽りだった。兄妹仲も悪くない、虐められない、母に己の方向性を針金の如くねじ曲げられない、向日葵の少女に言わせればまともである安価な壁は二人の間では大きすぎる溝でしか無かった。極端な話、気狂いの方がまだ向日葵の少女と心を通わせられたであろう。無垢である事は罪ではない。ただ、不条理に抗う剣には、決して至らぬのである。
火傷痕は服の下に隠れるので、誰かに見せるまで秘密のままでいられた。それを惜しげ無く無垢の少女に見せられたのは、偏に隠し事に不向きな性格だったからだ。この痛みを見て目を背けない人ならば誰でも良かった。噂として吹聴されようが、その噂が家族の耳に届きまたアイロンを打ち付けられようが、どうでも良かった。共感すら真に必要では無かったのだ。気持ち悪い物を見て気持ち悪いと言うのは至極当然なのだから。
「感想聞かせてや。何でもいいからさあ」
「……絶対怒るから、言えないよ!」
「怒らんよ。怒る位なら掲示板で毒づくわ」
黒瞳は無垢を見据えて冗句を宣った。春を告げる桜は命日を知らぬ少女を見下ろして花弁を散らしている。永遠すら裸足で逃げ出す濃密な無言は、甘い蜜柑を啜る芋虫の様に嫋やかにはいられない。気まずさからか頭がふやけたからか、無垢の少女は遂に心の奥を晒してしまった。
「綺麗だと、おもったよ」
「……綺麗?」
「今まで海賊版の傷口しか知らなかったから、本物を見れてちょっと感動してるっていうか、文化祭の舐めた演劇の後に東京の歌劇団が出てきたみたいな、そんな感覚がしてる」
早口で捲し立てる無垢の少女は、頬を僅かに赤に染めていた。それは屋上で想い人に告白する様な重々しさと瑞々しさを兼ね備えていて、喜びも怒りも超越した何かが静かに横たわっていた。香水の一滴は、強烈な匂いを放つのは十分過ぎるのだ。
三角の底辺を求める計算式を学び、作品の意図を考える無益も等しく学び、木造校舎の中で勉学に励行してきた二人は、その中では決して学べぬ歓びを確かに見出していた。堕ちた小鳥を包む優しい繭には成り得ない、か細い白糸が繋がっている。目を離せば溜息で切り裂かれる程の脆弱さは、その熱情を希う為の唯一の道具だった。
霧雨が降ってきた。だが二人はその天からの恵みを会話に用いようとはしなかった。仲が好転した訳でも無く、無言は未だ二人の間に蜃気楼として全てをぼやかしている。だが一つだけ、真実を述べられるとするなら。
腹部に咲いた向日葵は、無垢の少女に向かって凛と咲き誇り始めたという事だけだろう。
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