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京子〜上海〜
目尻が冷たい…。
まだ朦朧とした意識の中で京子は薄く目を開けた。
真上には真っ白な天井、部屋には冷蔵庫のモーター音だけが低く響いている。
小さなため息にも似た吐息をつく。
「…また…夢…」
無意識に流れていた涙を指で雑にぬぐい、京子はベッドから起きた。
***
「トゥルルル トゥルルル…」
「はいはい。こちら上海商会」
メイン通りから離れた雑居ビルの3階にそれはある。
上海の繁華街の喧騒は聞こえない。
男は電話口の相手に時間と場所を告げる。
「ではよろしくお願いしますね。あ、
お客さん今日はラッキーですよ。
すごい美人が来ますよ。
えぇ、そうなんですよ〜
最近入った子でちょっと見は育ちがよさそうな子です。少し話せば賢いのもわかります。
最近はこんな時代でしょうみんな孤独ですからね。会話を楽しむお客さんも多いんですよ。頭がカラカラいう子が好きなお客さんもまだまだ多いですけ…ん?
あぁはい、茶髪じゃないです黒髪です。」
電話を切って男は言う。
「京子もういけるか?仕事だ」
「うん、いつでもいいよ。」
まっすぐつややかに伸びた黒髪に軽く
手ぐしを入れながら京子は返事をした。
「ねぇてっちゃーん、今日はお店忙しい?あたし今夜ちょっとはやくあがらせてくれないかな。」
顧客名簿に目を下ろしていたテツは視線は下におろしたままで軽く首をひねるしぐさをした。
「…なに?おとこ…?」
「んー。そんなとこー。」
京子がうちの店で働き始めてから初めて聞く頼み事だった。
「…なぁ、たんまり稼げる子はなかなかいねぇからさ、そりゃいてくれたらありがたいよ。でもうちは前から言ってるけどレディファーストなわけ。汗水流して働いてくる子のおかげで俺らも生かされてるわけで、最初に伝えたとおもうけど早退でも休みでもそれは全然いいんだけどさ…」
「てっちゃん!」
呼ばれてはじめてテツは首だけ真後ろに振り返る。
「ん?」
「はなし長いよ?」
「…だから、つまりはお前次第で予定なんてどうとでもなると言いたかったんだな。」
そう言ったあとテツは、ひとつ呼吸をした。
「で…誰と会うの?…」
「うん、京子のお兄ちゃん。」
「ひぇ?!にいちゃん?いやそれおとこじゃねーよ!びびったぁ」
「血は繋がってないからおとこだよー」
京子はランバンの黒いサングラスをかけながら言った。
「なにお前んとこ複雑な家庭?まぁこの界隈で複雑じゃねぇやつなんかいねぇかー。おっとやっべ京子はやく出るぞ遅れるとまずい」
ビルの下に駐車してあるバンに二人は乗り込んでテツがナビをつける。
「今日の客は新規で京子の指名じゃないから気合いれていけよな。骨抜きにしてこいよナンバーワンさんよー」
テツは狭い繁華街の道をバンで泳ぐように走った。
「どけみんなどけー!上海きっての美人様の花魁道中だぜー!」
「何言ってんのテツあはは!笑わせないでよねばかみたいだよあたし達」
テツの車は上海広場にでた。大きい緑の木を目印として毎回待ち合わせに使っていた。テツは周りを見渡して言った。
「んじゃ俺事務所帰るから。なんかあったらすぐ呼べよ。じゃまたな。」
京子が車のドアを開けて外に出て歩き出すと通行人が一人、また二人と京子にふりかえる。
「謝謝。てっちゃん、好きだよー!あはは」
そう言うと踵を返し待ち合わせのある木のほうに歩いていった。
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