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今日は推し活の日。待ちに待っただけに晴れてほしい、とベッドから飛び出した乙女は落胆した。じめっとした湿気と薄暗さに窓を開けたが、降りしきる雨は出かける準備を終えても止まないどころか、勢いを増してきた。こんな天候の朝はおしゃれと防寒を天秤にかけてせめぎ合いになる。
「うーん、どっちも大事なのよ、ソロ活なら防寒一択だけどねぇ」
還暦を過ぎてからは防寒がだんぜん有利になったのは仕方ない。パールブルーのロングコートを手に取り、しばらく悩んだ末に白いダウンに身を包み、合皮の黒いレースアップ靴に足を入れた。
その代わりと言ってはなんだけど、大きなナイロンバッグとベレー帽、揺れるイヤリングは推し色のピンクでキメた。
初めて降りたJRの各駅停車駅が待ち合わせの場所だ。あいにくエレベーターが点検中だったので階段を降りることになる。ヒールの低いシニア向けの紐靴を履いてきて良かったと思う。滑らないように気を配り、滑ったとしても掴めるように手すりのすぐ側を確保してゆっくり降りた。
どうやらお相手はまだ来ていないようだ。改札を出た所で待っていると上りの電車が到着し、数人の客の中に待ち人はいた。
乙女が目印の推しぬいを掲げるとさっそく近寄り、声を掛けられた。
「こんにちは、乙女さんですか?」
「そうです、ナオさんですね、はじめまして」
「はじめましてー」
初愛のFFさん、五十代前半のナオと挨拶を交わした。
ナオは目を見開いて推しぬいを見ている。
「そのニット帽、かわいいですね、ピンクと白のシマシマで」
「かわいいでしょ、ネットショップで買ったんですよ」
「えっ、手編みかと思いました」
「わたし不器用なんで」
「わたしもですよ」
二人はふふふ、と笑い合い、乙女の緊張の糸がほどけた。
「じゃ、行きましょうか」
「はい」
足は目的地の喫茶店に向かう。推し友と初愛した後は、聖地巡礼がもっともポピュラーな推し活なのだ。
閑静な住宅街の中にある工場を抜けて、さらに住宅地が広がる一角に『喫茶サブリナ』があった。古い壁に幾重にもツタが絡まったいかにも昭和レトロな喫茶店だ。
「ここですよ」
「ここでしたかー」
「探し出すのに、だいぶ時間が掛かりました」
「ありがとうございます、乙女さんの捜査力に感謝します」
「そんなそんな、ただ暇だから検索しまくっただけですよー」
その店は乙女とナオの共通の推し光陽(ひかる)ゆかりの店だった。光陽はデビュー前のアイドルグループSAKURAのドラマーだった。ローカルテレビの情報バラエティ番組に光陽は月一回程度出演していた。観光やグルメのリポートが主で、乙女は放送されると翌週にはソロ活で聖地巡礼していた。
だが、『サブリナ』は店名も場所もシークレットで紹介された。なんでも店主がワケありな人とか……? というのは根拠のないネットの噂だった。
乙女が怖々ドアを押すと、ドアベルがからんからんと昔懐かしい音色で鳴った。誰もいない店の奥から口ひげをたくわえた老齢の店主が出てきた。
「いらっしゃいませ、お二人様ですね。お好きな席にどうぞ」
乙女は頷いて奥に進んだ。
「ここよ、光陽が座った席」
「わっ、ほんとですか、感激」
一番奥の四人掛けのテーブル席に二人は並んで座った。
メニューを見なくてもオーダーは決めていた。
「オムライスセットお願いします」
「わたしも同じで」
「かしこまりました、オムライスセットツーですね」
店主が下がるとさっそくカウンターの中で調理をする音が聞えて来た。
一人で切り盛りしているのだろうか。
お昼時だというのに客がいないのも解せない。
乙女が思案していると、ナオが口を開いた。
「わたし、あの日から泣きどおしですよ」
「たまにぶり返しがくるのよね、夜になると」
「それですよ、ほんとしんどいですけど、今日は誘っていただいてうれしいです」
「同担でないとわかりあえないこともあるよね」
「ですよ、ですです」
話をしている内に料理ができ、テーブルにオムライスとサラダ、コンソメスープが運ばれてきた。
「んーっ、美味しい」
「このデミグラスソース、コクがありますね」
「開店当時から継ぎ足して作ってるんだって」
「すごいですねー、わたしまだ『さくらん』になって三ヵ月の新規だから勉強になります」
「そっか……、新規でいきなりの洗礼、きついよね」
「はい……、玉子もふわっふわっですね」
「そうなの、光陽もそう言って感動して踊り出したのよ」
乙女がきらきらアイドルだった光陽を思い出して微笑んだ。
「今、どこでどうしてるんでしょうね」
「そうだね」
SNSに一ヵ月前に目撃情報が出たことを思い出した。大晦日に男友だちと神社にいたというものだった。
今はもう一般人になった彼だ。週刊誌もデビュー前ということもあり、静かなもので、大物芸人や代表選手のスキャンダルを追うのに忙しいらしい。
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