嘘を一つだけ

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「主任、先週の案件の資料です。確認をお願いします」  舞美が、バインダーに綴じた資料を手渡す。わざと、指が触れるように人差し指を、賢吾の右手に伸ばす。そして、意味ありげな一瞥をくれる。 「わ、分かった」  賢吾は、慌てて手を引っ込めて、辺りに目を配る。舞美の大胆さは、時折賢吾の心臓を搾り上げる。  舞美が席に戻るなり、スマホが震える。 『今日、デートしたいな』  派手なスタンプと共に、メッセージが送られて来た。 『すまない 今日は予定がある』  舞美からは、怒りのスタンプが返される。 (後で、埋め合わせをしなければ…)  機嫌を損ねて、まずい行動に出られたら後が大変だ。  10歳も年下の舞美と付き合って、その若さに魅せられた。夢中になった。しかし、社会人として、常識から逸脱しているという自覚はある。バレたら、会社も黙ってはいないだろう。こんな大きなリスクと、舞美の魅力は果たして釣り合っているのだろうか?と、冷静になる瞬間がある。  けれども、簡単には精算できないのが、不倫である。 (…舞美のヤツ、職場の誰かに相談とかしてないよな)  あまり放っておくと、やりかねないと思う。 「それでね…。ねえ、聞いてる?」  藍佳の問い掛けで、我に返った。 「…ああ。ごめん。ぼーっとしてた。今日、忙しかったから…」 「もう!ちゃんと聞いててくれないと、どこに嘘が隠れてるか、わからないでしょ!」 (そうだった。朝、そんな事を言ってたな…)  だから、今日の藍佳は饒舌なのか。いつもの倍くらい、おしゃべりだ。テンションも高い。  冷静な彼女には、珍しいことだ。 (子供みたいに、自分の仕掛けたゲームにワクワクしているんだな)  少し気を惹かれた。いつになく、丁寧に化粧している。職場を出る時、きちんと化粧直ししたことが窺われる。  ワインの酔いのせいか、瞳が潤んでいる。こんな風に、藍佳をちゃんと見た事が、最近なかった、と気付かされた。  店を出て、酔いざましに少し歩くことにした。  春の宵に吹く少し冷たい風が、火照った頬に心地よかった。  雲間から、半分の月が覗いている。 「月が出てる。きれいだな」  賢吾の言葉に、少し前を歩く藍佳が振り返った。 「ねえ、知ってる?『月がきれいだね』って、『Ilove you』っていう意味なんだって」 「えっ?」 「明治の文豪、夏目漱石が『Ilove you』を『月がきれいですね』って和訳したんですって。当時は『愛』って概念が、日本にはなかったらしいの」  唐突な藍佳の言葉に面食らう。そういえば、藍佳は文学部だったと言っていたっけ、と思い出す。 「だから、今、賢吾は私に『愛してる』って言ったことになるのよ」  ふわっと微笑む。その不思議な笑みを、賢吾は黙って見つめていた。 「私もあなたを愛してるわ」  すーっと真顔になる。 「だから、賢吾。『月がきれいね』」  
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