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シャワーを浴びて、タオルで髪を拭きながら、リビングに行くと、藍佳がソファーに座っていた。
賢吾を見上げて、微笑む。そして、リビングの時計を指差し、
「さあ、12時になったわ。答え合わせよ」
と言った。
やれやれ、と言った感じで、賢吾も向かい側に座った。
「いい?チャンスは3回だけね。それで当たらなかったら、ペナルティよ」
「当たったら、プレゼントだろ?」
「そう…。当たるといいわね」
クスッと笑う。
賢吾は、仕方なく、今日の会話を思い出した。おそらく食事の時だろう。
(…どんな事を、言ってたっけ?)
「うーんと…、あれかな?課長が部長に向かって、お辞儀をしたら、課長の髪の毛が、部長の袖のボタンに絡まって、課長のカツラが外れちゃったってやつ」
「残念、ハズレよ」
…ハズレか。でも、そんなコントみたいな話、現実にある方がおかしいだろ、と思う。
「分かった。お義母さんが、配達されたチキンカツ丼を食べちゃった後、頼んでなかったことに気がついたって話?」
「違うわよ。ちなみに、それ、お隣さんのだったんだけどね」
こんなに、長く向かい合って話したのは、久しぶりだった。今日の藍佳は、何だか活発で、よく笑う。笑顔がいいな…なんて、今更思う自分が、賢吾は不思議だった。何年も一緒にいるのに。
「ほら、ラストチャンスよ」
「うーん、後は…、そうだ。あれだ。『月がきれいだね』が『Ilove you』ってやつ」
「それは、本当よ」
「じゃあ、それを言ったのは、夏目漱石じゃなくて、芥川龍之介だった、とか」
藍佳は、満面の笑みを浮かべて、
「はい。残念でした。チャレンジ失敗。ペナルティね」
と言って、何やら取り出した。
「…何、これ?」
「見て分からない?離婚届よ」
賢吾は、口を半開きにしたまま、藍佳を見た。
藍佳はもう、笑ってはいなかった。
「正解を教えてあげる。あなたを『愛してる』って言ったこと。あれが嘘よ。愛してないの。だから、離婚しましょう。私はもうサインしてあるから」
いつの間にか、傍らに大きなキャリーバッグが置いてあった。それを手に立ち上がる。
「藍佳!待てよ!…まさか、お前、気づいて…」
賢吾の言葉を遮るように、
「じゃあね」
と言って、玄関に向かった。
引き止めようと、立ち上がった時、スマホが震えた。メッセージがあった事を伝えてくる。見てみると、
『ケンちゃん、お花見は絶対だよ 一泊で温泉ってのもイイ!露天風呂から桜を見たいなー』
と、舞美からの埋め合わせ要求だった。
「えっ?」
賢吾は目を疑った。内容ではない。そんなものは、もうどうでもいい。
「23時59分…」
リビングの時計を見る。
0時9分。
「10分、進めてある…」
『嘘は一つだけ』
藍佳の言葉が蘇る。
「嘘は『愛してる』じゃなかったんだ…」
まだ、4月1日だ。日付は変わっていない。
…藍佳は、心変わりに気づいていたんだ。考えてみれば、そんな鈍感な女じゃない。俺が、夢中になって、周りが見えなくなってたんだ。藍佳の気持ちも。辛さも。決心も。
弾かれたように、玄関に向かった。
漆黒に染まる春の空に、櫛のような半月が浮かんでいる。
藍佳は、腕時計を見ながら、
「0時。明日になった…」
と、呟いた。
エイプリルフールの昨日、藍佳は一つだけ嘘をついた。
『愛してないの。だから、離婚しましょう』
…嘘だ。だから、こんなにも心が重い。キャリーバッグも重い。まるで超合金で加工してあるみたい。
愛してなければ、どんなによかっただろう。きっと、羽が生えたように、軽く飛んで行けたに違いない。
…明日から、いや、今日から、どうやって忘れていこうか。賢吾の声、仕草、笑い顔。一つ一つ消し去って、何も残らなくなるまでに、どのくらいかかるのだろう。誰か、時計を早回しして、一気に10年くらい進めてくれないだろうか。
(あ、時計といえば、10分進めたままだった)
賭けだった。
結婚一年目の記念日に、二人で選んだ時計だった。これからの二人の時を刻んでいくようにと。
賢吾は、この頃スマホばかり気にして、時計を見ることも無くなった。もし、気付いてくれたら、もう一度やり直せると思ってた。
ダメだったけど…。
よく考えてみると、賢吾がリビングに入って来た時、時計を指差して『12時になった』と言ったけど、厳密に言うと、あれも嘘だ。
「そうなると、二つ嘘をついたことになるな。…まあ、今更、どうでもいいか…」
大通りに出た。信号で足を止める。
藍佳は、空に浮かぶ半月を見上げる。
「満月じゃないってとこが、奥ゆかしいじゃない。…月がきれいだね。…賢吾」
そこにいない相手に、そっと呟く。月が滲んで見える。
信号が変わった。
歩き出そうとする藍佳に、後ろから来た足音が追い付いた。
了
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