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私が小学二年生のときまで生きていたお父さんは優しい人で、その瞳にはいつも強さを秘めていた。ちょっと仕事をし過ぎて家族に心配かけたり、料理のバリエーションが少なくて美味しくなかったり、遊びに連れて行ってくれるときの段取りが悪くて皆をイライラさせたりすることもよくあった。
でも、あの頃、私も拓哉も安心して笑って過ごしていられた。お母さんも今よりもずっと大らかだった。それはお父さんが私達三人のことを心から愛して守ってくれていたからなんだ、といなくなった今になって思う。生きていた頃はそんなこと考えもしなかった。その日常が普通で当たり前だと思っていたから。
お父さんがいなくなってから家の温度が夏は三度上がり、冬は五度下がった気がする。
「香澄。本当にその大学に行きたいのか?」
きっとお父さんなら今の私にそう聞いてくれると思う。そんなに自分を追い込んでまで行きたい大学なのか? と。そして私はこう答えるだろう。
「お父さん。私、自分が大学で何を勉強したいかもわからないんだよ。どうしたら良い?」
でも、その問にお父さんがどう答えるのかがわからない。お母さんが一生懸命働いたお金で、やりたいかどうかもわからない勉強をするために大学に行く。それってそもそも正しいことなのだろうか? 別にレベルの高い大学に行きたいわけでもない。けれども、お母さんは少しでも上の大学に行くよう迫って来る。そして、私はただ皆から取り残されたくないだけなのだ。とても将来が不安で心細いだけ。
お母さんは先のことは大学に入ってから考えれば良いと言う。その意見は正しいのかもしれない。だって私には夢がないから。でも、取返しのつかないミスを毎日重ねている気がどうしてこんなにも強くするのだろう。
蝉しぐれの中、私は入道雲の沸き立つ空を思い切りにらみつけた。
今日は拓哉のためにもはっきり自分の気持ちを伝えよう。テスト結果の報告をするときに、このままお母さんの言いなりになって勉強したくないって言うんだ。
――勇気……出さなきゃ。
鉛のような心を抱えて駅からの道を歩いていると、制服のスカートのポケットでスマホが振動した。
――里香かな?
そう思って取り出したスマホに表示されているのは知らない番号だ。恐る恐る出て、私は凍りついた。そうして、元来た道を慌てて駅に向かって走り出す。
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