第一話

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第一話

 東京は東部、築五十年ほどのじめついた雑居ビルの二階で、男の太い怒声が響いた。 「お前の代わりなんて、いくらでもいるんだからな!」  脂ぎった頭に薄く残った髪を張りつけている小太りの男は、ガン、と安いスチールデスクを蹴り上げた。四十そこそこに見える男は、自分の立てた音にもいらだったようで、続けざまにデスクを蹴った。  男の目の前では、針金のように痩せた青年が何度も頭を下げている。彼が腰を折る度に、大きなスーツの中で彼の身体が泳ぐ。  三十に手が届くとは思えない童顔に、怯えを滲ませた大きな黒目がちの瞳。平均よりもやや小柄で華奢な体型も相まって、まるでライオンを前にした子ウサギのようだった。柔らかそうな細い黒髪は、自分の存在感を隠すように目元近くまで長く伸ばされている。不健康なほど白い肌は、蛍光灯の無機質な光のもとで、青ざめて見えた。  痩せた青年──只野 新は、古いオフィスチェアにふんぞり返って座る男に再度頭を下げる。 「すみません、今すぐ修正します」 「二十時までにやれ。お前のミスだから残業申請はするなよ」  男は新に顎でしゃくると、これみよがしに大きな舌打ちをして自分のパソコンに向き直った。  新は小走りで自分の机へ戻ると、男に指摘された、契約書のいくつかの箇所を修正しはじめる。 「只野さん、これ後よろしくお願いしますねー」 「議事録、お願いしまぁす」  どさ、どさ、と、新の狭い机に書類やUSBが無造作に置かれていく。困惑する新など目に入らないように、同僚たちはつまらなさげにパソコンをいじったり、楽しげに世間話をしている。  同じ事務所内にいるのに、自分と同僚たちの間には決定的な隔たりがあった。新は「奴隷のように扱っていい人間」で、同僚たちは「そうでない人間」なのだ。  どうして自分だけがこんな扱いを受けるのだろう。新はぎゅう、と喉を絞めあげられたような息苦しさを覚えた。  しかし、面倒な仕事を押しつけられるのも、誰も助けてくれないのも、今日に始まったことではない。  新は苦い気持ちを飲み下し、黙って仕事に取りかかった。  一つ仕事が片付いたと思えば、二つ増え、二つ片付いたと思えば三つ増え……と、次から次へと降ってくる雑務を片付けていると、知らぬ間に、とっぷりと夜は更けていた。  集中して片付けていた仕事が一段落つき、一息つこうと小さな事務所を見回すと、もう自分しか残っていない。終電まで仕事をするのも、慣れたものだった。  今の状況を、嫌だとは思っている。同僚から人並みに扱われたいと思うし、上司の理不尽な要求にノーと言いたい。 (でも、俺の代わりはいくらでもいるんだ)  上司は何かにつけてそう言った。お前の代わりなんていくらでもいるし、お前は何の取り柄もないクズだ、雇ってやった恩を返せ、と。  代わりがきいて、何の取り柄もない自分は、他の事務所に行ってもきっと同じように扱われるだけだ。ならば、この事務所のこの待遇で我慢するしかない。  生きていくには、金がいる。金を稼ぐには、こうするしかないのだ。  自分の周りだけを煌々と照らす蛍光灯の電源を落とすと、新は重い足取りで事務所を後にした。 (今日で十八、九……二十連勤だ。そろそろ休みたい。でも、まだ今日振られた仕事が終わってない)  最寄り駅でホームへ向かう階段を降りていると、段を降りるごとに、疲れが身体全体にのしかかるのを感じた。理不尽な人間関係の疲れが、背や足にどんよりと溜まっている。  ホームは意外と混んでいて、金曜の夜だからか、酒の臭いをさせている男女で溢れていた。  黄色い線の内側に立ち、ふーっと長くため息を吐くと、梅雨特有のねばつくような湿気が肺に入ってくる。じっとりと重い空気は不快で、息がしづらかった。  大学を卒業して以来、来る日も来る日も仕事漬けだった。けれどそのおかげで、蒸発した両親が作った莫大な借金は、社会人七年目にしてようやく返済し終えられそうだ。 (今日振り込まれた給料で、全額返済し終わるはずだ)  借金は給料の振り込まれる口座から毎月引き落とされることになっている。長い間つけられていた重い足かせが、ようやく外れたような気持ちになった。これからやっと、自分の本当の人生が始まる。  少し前向きな気持ちになって足元から目線を上げると、線路沿いに立てられた大きな看板が見えた。新しく始まる恋愛ドラマらしい。美しい男女が楽しげに絡み合っているカラフルな写真は、まるで異世界の話のようだった。 「恋、か……」  自分には縁遠い話だと思う。  学生時代は、勉強とバイトで忙しくて、友達を作ったり仲を深める余裕はなかった。新は、学校でも会社でもいつも遠巻きにされていて、一人ぼっちだった。  そんな新にとっては、恋愛など夢のまた夢だ。  けれど、もし奇跡が起こって、自分にもそんな相手ができたなら。誰かを愛おしいと思ったり、思われたりすることができたなら。きっと一生忘れられない経験になるだろうと新は思った。  電車がホーム内に入ってくるのが見えた。  腕時計を確認して、五時間ほどは眠れるだろう、と計算する。明日は、今日振られた仕事を片付けて、それから……。  そう思った瞬間だった。  新の背後にいた女が、甲高い笑い声をあげた。と同時に、女が男を思いきり突き飛ばし、男は足をもつれさせ、背中で新を線路に押し出した。  新が気づいた時には、足元にホームがなかった。  宙に浮いていた。  どこからか悲鳴が聞こえた。  運転手の引きつった表情が、目の端に見えた。  宙を舞った一瞬のうちに、新は自分の両目が、まばゆすぎる前照灯に焼かれたように痛むのを感じた。 (──死ぬのか、俺)  「うぐっ!」  腹部に殴られたような鈍い痛みがあり、新は薄く目を開けた。  死んだと思った。  間違いなく、電車に轢かれて即死だと。  けれど、どうやら命は助かったらしい。  目を開ければ、そこには夜の闇と線路が広がっている。はずだった。 「──お前──にきた?」 「どこ──入って──、誰の──だ?」  体を覆えるほどの大きな羽根を背負った男と、黒光りするくちばしを口元につけた男二人が、鼻を押さえながら紅潮した顔で新を蹴っていた。  二人とも日本人ではないようで、よく言葉が聞き取れない。ごわごわとした茶色っぽい粗末な服を着込んでいるが、コスプレか何かだろうか。  しかし、男たちの異様な出で立ち以前に、新は肌を突き刺すような寒さに震え上がった。  見回してみると、あたり一面、雪景色だ。  遠くにはごつごつとした黒い岩肌の山々と大きな木造の家屋が見えたが、それらへと繋がる道以外、周りには何もない。空からはぼたん雪がちらちらと降っており、薄っぺらい夏用スーツ姿の新は、吹きつける風の冷たさに、がちがちと奥歯を鳴らした。 「ここはどこですか? 今は何時です?」  どういうことだ、と、新は混乱する頭で必死に考えた。  つい数秒前まで、新は東京の端で夏のうだる暑さにうんざりしていたはずだった。  しかし、周辺の気候はどう見ても冬だ。  何か事件が起こって、北海道の僻地にでも連れてこられたのだろうか。働きすぎて、移動している間の記憶をなくしたとか。馬鹿みたいな妄想だと思ったが、そうとしか考えられない。  とにかく、今どこにいるのか、何時なのかが気になる。明日も仕事をしなくてはいけない。東京にいつ帰れるのかが知りたかった。  しかし男たちは、目配せし合うと、気味が悪いほど熱っぽい目つきで新にじりじりと近づいてくる。 「お金、お金はこれだけしか持ってません。ほら」  中学時代にクラスの不良に絡まれた時のことを思い出した。  あの時は、財布を出せば何発か殴られる程度で解放してもらえた。今日も同じように済むといい。  慌てて鞄の中を引っ掻き回し、財布から札を全て出して雪の上に置いた。これ以上は持っていない、と財布を開けて懇願するように見上げた途端、男は新の胸ぐらを掴みあげた。新より一回りは大きい男に持ち上げられ、新は宙吊りになる。 「ぐっ」  乱暴に襟元を締め上げられて、息ができない。  ぎらぎらと目を光らせる男は、舌を出すと、べろりと新のそげた頬を舐め上げた。 「ひいっ」  喉から、か細い悲鳴が出た。  助けを求めるようにもう一人の男を見たが、男は乱暴に新のベルトを抜くと、無理やりスラックスを脱がせた。下着までむしり取ると、男ははあはあと息を荒く乱しながら新の薄い尻を揉みしだいた。尻の孔の周りを何本もの太い指が這って、新の脳内は恐慌状態に陥る。  なぜ服を脱がされるのか、尻の孔を触られるのか、意味が分からない。  金目当てではない、ならば、何なのか。  まさか、と新は感じたことのない恐怖に身体を震わせた。  自分は、レイプされるのではないか。 「や、めろ、やめ、ろ!」  男に気道を締められて気が遠くなりかけていたが、新は大声をあげ、無我夢中で足を蹴り上げた。  もし警察が来れば下半身を露出している自分こそ逮捕されるのではと思わないでもなかったが、それ以上に「犯される」という恐怖が身体を支配した。 (誰か、誰か来てくれ)  周囲に男たち以外に人は見当たらなかったが、生まれて初めて腹の底から声を出した。  こんな極寒の中、外で裸に剥かれて打ち捨てられたら、死んでしまう。  両親の借金を、やっと返し終えた。これから初めて、自分の人生を歩めるのだ。こんなところで死ぬのなんて、嫌だった。  死にたくない!  死にたくない! 「助けて! 誰か!」  大声で叫んだ途端、首を掴んでいた男に左頬を思いきり殴られた。  口の中に鉄の味が広がる。頬か舌かを噛んだようだった。  それでも、犯されるのはもっと怖かった。 「た、す、けて……!」  顔が充血していくのを感じる。  酸素が脳に回らない。  下半身が凍るように寒いと感じていたはずなのに、だんだんと感覚が麻痺してきた。暑いのか寒いのか、もう分からない。  死ぬ、と思った時、新の下半身を撫でていた男が、首を締めている男に何事か話しかけた。 「──たら、金になる」 「脚を──れば、いいな」  男は新の首から手を離すと、後頭部の髪を掴み直し、雪の上に押しつけた。もう一人の男が、抵抗する新のふくらはぎを縄のようなもので縛り上げる。叫ぼうとすると口にも縄をかけられた。  男の一人がにやりと笑い、腰にぶらさげていた何かを取り出した。  新の目が限界まで見開かれる。  それは、小ぶりな鉈(なた)だった。 「んん──!!」  新の額を、冷たい汗が伝っていった。  男の鉈が勢いよく振り上げられ、空を切る。  ダン!という音とともに、腱がぶつりと切れる音がした。  新の悲鳴は雪の中に吸い込まれ、その後、あたりは何事もなかったかのように静かになった。  そこには、ただ真新しい鮮血の染みだけが残った。    新が次に目を覚ました時、そこは家屋の中だった。  ログハウスのような部屋の中にはツルハシや、針金で編まれたかご、カンテラが無造作に置かれている。小さなドアと窓が一つずつあるだけで、外の様子はよく分からない。  新は自分の身体を見下ろした。  スラックスがおざなりに着せられており、両手と両脚、口は縄で縛られていて、毛虫のように横になったまま、動けない。身体の芯まで凍りつきそうなほど寒かったが、身体を温められそうなものは見当たらなかった。 「う……」  両脚の腱に、垢だらけの汚い布がきつく巻かれていた。布はどす黒い血で染まっており、異臭がする。  身体を少し動かすだけで、傷口から切り裂かれるような痛みが走った。  もはや仕事のことは、頭から消え去っていた。こんな極寒の山奥から東京まで、一体どれくらいの日数で戻れるのか分からない。ならば、考えても仕方ない。  このままだと、きっと遅かれ早かれ、犯されるか、殺される。  なぜここに放置されているのか不思議に思ったが、出会ってすぐに鉈で斬りつけてくるような男たちの考えることなど、分かるはずもない。ひとまず、死なないために何ができるかを考えようと思った。  まず、ここは雪国だ。日本かどこかの国の冬の季節なのだろう。大きな家屋があったところからして、男たち以外にも人間がいる可能性は高い。しかし、彼らが自分の味方になってくれるかどうかは、未知数だ。  新は唇を噛み締めた。  一日でも長く生き延びること。男たちに襲われた時に、身を守れる道具を探すこと。  今の自分にできることはそれくらいだろう。  脚の痛みをこらえながら、縛られた手でほふく前進をして、部屋じゅうをくまなく探索して回る。ドアには鍵がかかっていたが、針金のかごを解いて鍵代わりにすれば、もしかしたら解錠できるかもしれない。  風でドアや窓ががたがたと揺れるたびに、男たちがまた襲ってくるのではと身体をびくつかせていたが、その日はついぞ誰もやってこなかった。  監禁されてから、一日、二日、と数えられていた時はまだ余裕があった。しかし四日目を数えた頃、新の身体は限界を迎えた。  脚の傷口が膿みはじめ、身体じゅうが熱っぽい。指先も足先も黒ずんで、腫れてきていた。  見たことのない身体の変化に、新は怯えた。死ぬのかもしれない、と思う。  人生の最期を想像したことはあったが、こんなふうに終わるなんて思ってもみなかった。  お前の代わりなどいくらでもいると言われ、無能だと馬鹿にされ、金の工面に駆けずり回された人生。  そして最期は、言葉の通じない男たちにゴミのように扱われて、死ぬ。  俺は何のために生まれてきたんだろう、と、目を閉じて思う。声の限り泣き喚きたかったが、もう涙の一滴も出はしなかった。  一旦目を閉じると、開けるのがひどく億劫だった。まぶただけが意思を持ったかのように、動かない。 (もう、終わりだ)  はあ、はあ、と荒く息をする自分の声が、薄い膜を通したかのように、遠くから聞こえる。手脚の感覚は、もうない。何十分、何時間、そうしていたのか分からない。  新の意識がいよいよ飛びかけた時、バン!と大きな音とともにドアが開けられた。  ドアの向こうからは吹雪が吹き込んできて、熱っぽかった新の身体が急速に冷やされる。  外はもう一寸先も見えないほど、暗かった。 (何だろう)  ぼんやり目を開けると、家屋の入り口に入り切らないほど大きな男が、カンテラを手に提げて立っていた。彼の後ろには、ずらりと軍服を着た男たちが並んでいる。  濁った意識の中でも、男の美貌ははっきり分かった。  まるで内側から発光しているような白い肌に、彫りの深い顔立ち、男らしくまっすぐな黒々とした眉と涼しげな目元は俳優のようだった。毛皮の帽子の下から見える琥珀色の瞳が宝石のようにきらめいていて、ただただ、美しい、と思う。  帽子と同じ毛皮で縁取られた真っ赤なマントを翻し、男は脇に立っていた軍服の男に二、三言話しかけると、ドアを後ろ手に閉めてしまった。  狭い家屋の中には、男と新だけが取り残された。 「みう(みず)」  男が何者なのかは分からないが、もしかしたら言葉が通じるかもしれないと願い、新は水がほしいと懇願する。  男は部屋に入るなり、顔を歪め、息苦しそうにしていた。しかしすぐさま新に駆け寄ると、口にかけられた縄を手早く解き、金や宝石で装飾された水筒のようなものを差し出してくれる。  新は蓋の開けられたそれを無我夢中で奪い取ると、勢いよく中身を飲み込んだ。花のような香りのする温かい液体が、新の胃の中に落ちていく。新が水筒の中身を飲み干すまで、男はじっと待っていた。  そして、ゆっくりと言い聞かせるように新に話しかけた。 「お前──何者ー、鳥人なのか? 傷──ために──私のーを与えよう」  言葉は分からなくても、男がとても美しい声をしているということだけは分かった。  低い声には華やかな色気があって、よく響く。こんな時でもなければ、うっとりと聞き入っていただろう。  それにしても、鳥人?と、新は目を瞬かせた。  どういう意味の言葉だろうか。  「お前は何者なのか」という問いだけはかろうじて聞き取れたので、自分の身の上を説明したかったが、身体が重くて力が出ない。  声を出そうと胸をあえがせると、男は眉間にぐっと深いしわを寄せ、新のそばににじり寄った。 「痛くはしない」  男は新の小さな顎を掴むと、目を見てはっきりそう言った。  ──つまり、犯されるのか。  新は絶望が押し寄せてくるのを感じた。飲み物を与えた代償ということか。この男も、結局最初の男たちと同じだったのだ。  自分が男たちの性の対象になるなど、生まれてこの方考えたこともなかった。しかしいざなってみると、どんな乱暴をされるのかと恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。  逃げ出したかったが、家屋の周りには大勢の男たちがいる。逃げても結局捕まるだろう。そうすれば、もっと酷い目に遭うかもしれない。  新は目を閉じ、抵抗を諦めた。  男は自分のマントを外すと、新の細い身体を包み込んだ。男なりに気を遣っているのだろうか、と居心地悪く思ったが、その後の行動に驚かされた。  男は、突然新にキスしたのだ。  最初は唇の表面を食むような動きをしたが、すぐに薄く開いている新の唇の間に舌が割り入ってきた。唾液を舌で器用に送り込まれ、拒否したかったが、思わず飲んでしまった。  唾液は蜜のように甘かった。水分に飢えていた新は、思わず男の舌に自分のものをきつく絡め、すすってしまう。  すると、新の身体に異変が起きた。  どくん、と心臓がひときわ大きく脈打った。  きつく巻かれた布の下で、細胞一つ一つがぐねぐねと活発に動いているのが分かる。肉が露出し、焼きごてでも押されたように熱く痛かった傷口が、今や全く痛みを感じなくなっていた。 「な、に……」  何が起こっているのか分からない。とにかく、身体がおかしかった。  真っ白に変色し、感覚がなかった手と脚の先にも、じんわりと普段どおりの熱が戻ってくる。喉の渇きも随分ましになっていて、身体の隅々にまで力がみなぎってくるのを感じた。  どう考えても、男にキスされたことが自分の身体を変化させたとしか思えない。  男は、乾ききった新の口の中を舐め回した。 「ん、ふ……」  こんなことに夢中になっている場合ではない、と思うのに、身体は自然と目の前の快感を追ってしまう。  拙く男の舌を追うと、男はなだめるように優しく舌を絡ませてきた。  その後、頬の内側の柔らかい肉を舌先で舐め上げられ、口の天井から舌の裏、喉奥の近くまで、あますところなく暴かれた。  ぐちゃぐちゃと鳴る唾液の音が、ひどく淫らなことをしているようで恥ずかしかった。  生まれてから一度も、キスなどしたことがない。こんなに隅々まで舐め回すのがキスだなんて、知らなかった。  細かく刺繍が施された男の純白のブラウスの胸元を、いつの間にか縋りつくように掴んでいた。 「んっ、んっ」  男が舌を動かすたびに、身体にびりびりと淡い電流が走るようだった。下半身に自然と熱が集まり、ささやかな花芯が薄いスラックスと下着を押し上げる。  甘ったるい嬌声がつい鼻から漏れたが、恥ずかしいと思う暇もなかった。男の舌に翻弄されて、快感を貪ることしかできない。今はただ、目の前の気持ちよさだけを追っていたかった。  ようやく二人が唇を放した時、新はすっかり骨抜きで、身体の芯まで脱力しきっていた。 「はあ、はあ……」 「どうだ? 楽になったか?」  いつの間にか新は、男の逞しい両腕に全体重をぐったりともたれかけさせていた。  男は、新の手脚を縛っていた縄も解いてくれる。 「は、はい。水も、ありがとうございます」  言葉が通じるかは分からなかったが、一応礼を言う。  これからレイプするには随分優しい触れ方だ。  一体どんなひどいことをされるのかと新は身体を固くしていたが、男は新を抱きしめたまま、のんきに会話を続けた。赤子をあやすように、ゆらゆらと揺らされる。 「お前はどこの──だ? 言葉は、どの程度──るんだ?」  男の言葉は、ところどころ聞き取れない。新は耳に全神経を集中させて、身振り手振りを加えて話した。 「言葉は、日本語なら分かります。英語は少しだけなら」  一言一言分かりやすいようにはっきり発音するが、男は「ニホンゴ? エイゴ?」と復唱し、首を傾げた。  新は自分の脚を見た。なぜか傷は治ったようだが、力を入れても動かせない。  これから一体どうしたらいいのだろう。両脚が使えないのでは、ここからどこにも逃げ出せない。新は途方に暮れた。 「王宮に、行こう。道化──寝床がある」  男は新の脚の傷を見ていたましげに眉をひそめると、新を抱きしめたまま立ち上がった。 「王宮? どうして? あなたは誰なんですか?」 「私は、この国の王だ」  新は、驚きのあまり目を見開いた。  新は、自称国王の男、ペラジカス・勇仁から、王宮に戻る道中、今置かれている状況について説明された。  新がいたのは、勇仁が統治する国「バーランド」の最北端に置かれた流刑地、ムツガル。  受刑者たちは日中炭鉱の採掘を行うらしく、新はその採掘所と刑務所の間の道にぽつんと倒れていたそうだ。  受刑者たちいわく、倒れていた新からは「異様なほど惹きつけられる香りがした」ためその場で犯そうと思ったが、刑務官に賄賂として渡そうと思いなおし、一時的に監禁していたらしい。しかしちょうど勇仁が視察に来たため、刑務官は新の存在を報告。勇仁が新を助けるに至ったというわけだ。  香り?と新は自分の腕を持ち上げ、襟元や脇を嗅いだ。  数日間風呂に入っていないので多少体臭はしたが、そんなに強くは感じない。それに、勇仁も「今はそんな香りはしないが」と不思議そうだった。  ただ、勇仁も新の監禁されていた家屋に入った時には、受刑者が言ったのと同じく「異様なほど惹きつけられる」甘い香りがした、と言っていた。 「お前の脚では──だろう、道化師──暮らすといい」  香りの原因が何なのかは分からなかったが、勇仁のはからいで、新は王宮に道化師として連れ帰られることになった。  勇仁は親しげに微笑みかけてくれたが、新はありえない事件の連続に頭がパンクしそうだった。  突然こんな異世界で暮らせと言われても、どうしたらいいか分からない。得体の知れない国にたった一人で放り出されて、恐ろしかった。  勇仁から気遣わしげに顔を覗き込まれていたことに気づき、新は慌てて彼に礼を言った。 「ありがとうございます。俺、頑張って働きますから」  元の世界に帰りたい、と新は思った。  「お前の代わりなんていくらでもいる」とボロ雑巾のように使い捨てられる人生だとしても、構わない。異世界でなど、暮らしていける気がしない。  ただ、命を助けてもらえたこと、そしてひとまず衣食住を与えてもらえたことは、ありがたかった。  勇仁と新は、馬車で二週間かけて、ムツガルから首都トウケイへと戻った。  その間、新は勇仁と同じ馬車に乗せてもらい、彼と彼の従者からこの国に関するさまざまなことを教わった。  従者は六十近そうな白髪の紳士だ。首の周りをぐるりと鳥の羽のようなものが覆っていていたが、それ以外は人間と同じ身体をしている。彼は勇仁と新の身の回りの世話をこなす合間に、新の質問にも丁寧に答えてくれた。  「バーランド」は、鳥の血が流れる人間たち、いわゆる「鳥人」たちが暮らす島国らしい。  バーランド国内での身分は大きく分けて三つあり、貴族、商人、農民。ちなみに、貴族の中でも王族など、高貴な身分になればなるほど鳥の血が濃いらしく、そういった「純度の高い」鳥人の体液を摂取すると、怪我の治りが早くなるそうだ。 (だから俺の脚の傷もすぐに治ったのか)  話を聞きながら、新は深く頷いた。  しかし瞬時に濃厚なキスシーンを思い出してしまい、カッと顔が熱くなる。  初めてのキスは、もっと優しく触れ合うようなものだとばかり想像していた。あんなに濃厚なキスを自分が体験することになるなんて。両頬を、手で扇いで冷ます。  また、勇仁の堂々たる雰囲気からして歳上だろうと彼の年齢を尋ねた新は、現在二十六歳だと聞かされ驚いた。新より三つも若いとは思えぬほど、彼には一国の為政者らしい威厳がある。父である先王が病に倒れたのを機に三年前に即位したらしいが、なぜか頑なに独り身を貫いているらしい。 「王様にはたくさん奥さんがいるものだと思っていたけれど、違うんですね」 「占い師が神託──『彼方から飛び降りる真白き鳥と番い、国を繁栄させるであろう』と──」  新が着替えの途中で従者に話しかけると、彼はどこか夢見るような口調で答えた。  服は従者のものを借りているが、丈は長く、着心地は随分悪かった。パンツなどは今まで履いたことがないほどごわごわとしていたが、寒さがしのげるだけありがたい。  「彼方から飛び降りる真白き鳥と番い、国を繁栄させるであろう」という一節だけは、新にもはっきり聞き取れた。ここに来てからほとんどの場合、単語しか聞き取れなかったのに、珍しいことだ。  とにかく、勇仁が独り身なのはその「真白き鳥」と番うためらしい。 「真白き鳥──我が国──ない、他国──見ない。勇仁様──伝説の──探して──」  「真白き鳥」はどうやら国内外で探されているようだ。けれど、見つからない。  他国にまで探しに行っているらしいところを聞くに、バーランドの鳥人たちにとって、その「真白き鳥」は、相当に特別な存在なのだろう。借りたマントを身体に巻きつけ暖を取りながら、見つかるといいな、と、新は他人事のように思った。  王宮に着いたのは、ちょうど太陽が空の真上に来る頃だった。  ムツガルからトウケイまでの道は、すさまじい悪路続きだった。これでもかなり舗装された方だと従者には言われたが、現代の道に慣れきった新にはなかなかハードな体験だった。従者に肩を借りながら馬車を降りたが、まだ地面が揺れているように感じる。青い顔をしてえづいている新の横に、勇仁が颯爽と降り立った。  よろよろと王宮を見上げた新は、車酔いを忘れるほど衝撃を受けた。  目に痛いほどの白い壁と輝くエメラルドグリーンの屋根でできた、中世ヨーロッパ風のコの字型の城が、堂々とそびえ建っていた。  隅から隅まで、鳥や植物、果実などが細かく彫り込まれており、その繊細さに圧倒される。居館の正面中央壁には大鷲が羽を広げた紋章が大きく彫られており、その立派な意匠には、美術的センスのない新もうっとりとため息をついてしまう。  居館の前には白い石でできた噴水とそれを取り囲む歩道があって、歩道の周りにはパンジーやさざんかなど美しい季節の花々が咲き誇っている。  まさに、映画やドラマの中で見た壮麗な王宮そのものだった。 「王様、お帰りなさいませ」 「秀、何事もなかったか」 「はい」  勇仁と新がガラス張りの大きな正面扉まで進むと、周囲の者たちと比べてひときわ背の高い男が一人、前に進み出た。  男は秀というらしく、灰褐色の髪をきちんと後ろになでつけて、神経質そうな表情をしている。直立不動で勇仁の言葉に答える姿は、いかにも生真面目で頑固そうだった。年齢は四十ほどだろうか。 「ムツガルで拾われた道化というのは、この者でしょうか」 「ああ、迷い込んだ異民族かもしれん。受刑者に両脚の腱を切られたようだ。道化師の部屋に案内してやってくれ」  橙に近い黄色の瞳が、じろりと新を見下ろす。勇仁とあまり変わらない体格の彼は、かなり威圧感がある。  歓迎されていない雰囲気を感じて、新は目線を足元に落とした。  勇仁も彼の従者も、気のいい鳥人だったから、失念していた。自分はどこの馬の骨か分からない、不審者なのだ。  秀は従者に支えられている新の首元を掴むと、俵のように担ぎ直した。無言の圧が怖いが、何も言えない。新は秀の骨ばった肩の上で、なるべく小さく縮こまっていた。  いくつもの中庭や塔の間を、秀はすいすいと横切っていく。目まぐるしく変わっていく周囲の景色を見ながら、新は「一人にされたら迷ってしまいそうだ」とぼんやり思った。  王宮の外れにある石造りの建物の前に着くと、秀は足を止めた。  真っ昼間だというのに、この一帯は日が当たらないようで肌寒い。東京での自分の部屋を思い出して、どこか懐かしくなる。  ドン、ドン、と秀が拳で思いきり木のドアを叩いた。突然の大きな音に新がびくりと身体を跳ねさせると、それを上回る大きさの怒鳴り声が中から聞こえた。 「はいはい、ちょっと待ちな!」  ドアが内側に開くと、秀の腰ほどまでしか身長のない男が、にゅっと顔を出した。 「おっと、大臣さん! ご機嫌麗しゅう。その肩にいるちっこいのは何ですかね?」 「王が目をかけられた新入りだ。芸を仕込んで、飯と寝床を分けてやれ。こいつは両脚が使えない」 「へえ、了解です」  男は禿げた頭を撫でながら、ドアを大きく開けて秀を中に招き入れた。  新はきょろきょろとあたりを見回し、男を改めて見てギョッとした。男の両脚、太ももから下が鳥の脚そのものだったのだ。  そういえば、従者が「純度の高い鳥人ほど、人間に近い擬態ができる。純度が低いほど鳥の部位が常に表れている」と言っていたことを思い出す。男は純度の低い鳥人なのだろう。  秀は部屋の中に入ると、手近にあった長椅子の上に新を座らせた。部屋の中には、簡素な寝具が一つと、大きな暖炉があった。ひとまず寒さに凍えることはなさそうだとホッとする。  緑色をしたまだら模様の服と帽子が壁に掛けてあるのと、いくつかの頑丈そうな箱がある以外は、とくに家具らしい家具はない。しかし部屋のあちこちに食べかけ、飲みかけの食器や腐りかけの果物があり、脱いだ服や靴も散らばっているところからして、男がだらしない性格であることは見てとれた。 「芸の見習いのためにお前はこいつとしばらく一緒に住んでもらう。身の回りの世話は侍女をつけるから、心配するな」 「げえっ、部屋が狭くなる!」 「王のご命令だ。では後は頼む」 「へえい」  禿げた男は秀にぺこぺこと頭を下げ、ドアをきっちりと閉めた。 「おい、お前。名前は?」  男はやや怒ったように新に話しかけたが、新の耳には「名前」という単語しか聞き取れない。 「名前……俺は、新。あなたは?」 「なんだ、言葉も分からないのか。こりゃ面倒だ。俺は草太だ。そ、う、た。分かるか?」  草太はせっかちにまくしたてた。新はどうにか「ソウタ」という言葉だけ聞き取り、頷く。 「ここは王の道化師のための住処だ。歌、ダンス、ジャグリング、なんでもいいから王を喜ばせる芸を持ってなきゃいけねえ。お前は一体何ができるんだ?」  新がおろおろと目をさまよわせると、草太はいらだったように頭を掻きむしった。 「まずお前は言葉が分かるようになんなきゃなんねえ。王宮の図書館に出入りできるように口を利いてやるから、そこで覚えろ。いいな?」  「図書館」「出入り」「覚えろ」という単語を聞き取った新は、こくりと頷いた。  まず、この世界の言葉を知らなければならない。もしかしたらこの世のどこかに、元の世界に戻る方法を知っている者がいるかもしれないのだ。この国の言葉が分からなければ、そんな者と偶然出会えたとしても、帰るチャンスをみすみす逃すことになる。ならば、新に残された道は、ただ一つしかない。  それから、新の勉強漬けの日々が始まった。  手当り次第に本を読み、分からない言葉は貰ったワックス板に鉄筆でメモをして、草太に意味を教えてもらった。  おしゃべりな草太のおかげで、一ヶ月もすると日常会話程度はできるようになった。草太はひっきりなしに話しかけてくるので、語学の練習相手には最適だったのだ。  ある日、新は、頭がおかしいと思われるのを承知で、草太に相談した。 「『元の世界に戻りたい』? 何言ってるんだお前」  草太の反応は想像していたとおりだった。  新も、もし自分の身の回りで「俺は違う世界から来たんだ」なんて言っている奴がいたら、気でも狂ったのかと思うだろう。 「俺は、違う世界からここに飛ばされてきたんだ。『ニホン』とか『トウキョウ』って言葉に聞き覚えはないか? それが、俺の住んでいたところなんだ」  草太は、一緒に寝起きしているベッドの上で耳の穴をほじりながら言った。 「さあ、聞いたことねえな」  耳垢をふうと吹き飛ばす草太に、新は顔をしかめる。やはり本気にはしてもらえないか、と内心ため息をついた。  ──もう駄目だ。残る方法は、「あれ」しかない。  新は密かにあることを決意すると、草太に押し出されそうになりながら、ベッドの端で小さく丸まって眠った。  翌日、新は侍女に「この城で一番高いところに行きたい」と頼んだ。 「高いところになんか行ったって、何もねえぞ」 「用事があるんだ。……草太には関係ないことだから」   強い口調で言うと、草太は「なんでえ」と不機嫌そうに唇を尖らせていた。  もし新がこれからすることを知ったら、あの秀とかいう大臣に告げ口されそうな気がした。新が何をしてもあの怖そうな大臣は機嫌を損ねそうだったから、ついてきてほしくなかった。  侍女は新が望んだとおり、ひときわ高い尖塔へ連れてきてくれた。  尖塔のてっぺんは、見張りのための窓と見張り番が休憩するためのイスが一脚置いてあるだけで、他にはなにもない小部屋だった。窓の下を見下ろすと、人がミニチュアの人形のように見えた。 (ここからなら、いける) 「少し後ろを向いていて」  新が侍女に頼むと、彼女は頭を下げ、従順に新に背を向けた。  新は侍女が後ろを向いたのを見届けると、窓枠に手をかけた。両腕に渾身の力を込めると、ぐいと身を乗り出す。  強く冷たい風が、新の胸の下を通り抜けていく。 (もう少し力を入れたら、窓から滑り落ちて、俺は死ぬ)  新は冷静に思う。  新の上半身が、窓からずるりと落ちる。  と、その時だった。 「グアアーッ!」  右耳のすぐ近くで、鳥の怒ったような大きな鳴き声がびりびりと響いた。  それと同時に、マントの後襟が恐ろしいほどの力で、ぐい、と引っ張り上げられる。あまりの力に新は窒息しそうになり、闇雲にもがいた。  そこで侍女が異変に気づき、塔から上半身を出したまま悶えている新を、慌てて引きずり戻した。大鷲は襟をがっしりと掴んだまま、窓枠に身体をねじ込み、塔の中に入ってくる。 「やめろ! 何だお前、邪魔するな!」  大鷲はまだ、新の襟を両脚で掴んで離さない。新は怒りのあまり、力いっぱい両手を振り回し、大鷲を殴ろうとした。 「王様!」  侍女が慌てて身につけていたマントを外し、大きく広げた。  王様?侍女が青い顔をして叫んだ言葉に、違和感を覚える。目の前にいるのはただの大鷲だ。どこに王様がいるというのか。  大鷲はマントを掴む侍女の腕に、すい、と優雅に止まった。  突然、大鷲の身体の内側から強い光が漏れはじめる。  眩しい。  新は思わず目を腕で覆った。光はどんどん強くなり、とうとう大鷲の姿は影しか見えなくなる。まるで太陽がすぐそばに降りてきたようなまばゆさと熱さだ。 「そんなところから身を乗り出したら、死んでしまうぞ」  ビロードのようになめらかで艷やかな低音。  この声は、と新は目を見開いた。  新が目の前から腕を外すと、そこには侍女のマントを腰に巻きつけた半裸の勇仁が立っていた。  人間が鳥になるなんて!  ありえない光景を目の前にして、新は顎が外れそうなほど驚いた。  勇仁は穏やかな琥珀色の瞳で、じっと新を見つめている。 「お、王様。なぜここに」 「城内を散歩していたのだ。お前が窓から乗り出しているのが見えて、慌てて飛んできた」  タイミングよく、塔の下から「王様」と呼ぶ声とともに、人が大勢駆け上がってくる音が聞こえた。新は気まずい気持ちになる。 「ご迷惑をおかけして、すみません」 「良い、私が好きでしたことだ。しかし、なぜこんなところにいる?」 「あの、その……」  新は口ごもった。冷たい汗が背中を伝っていく。  この世界に来て、死にそうになっていたところを、勇仁に助けられた。さらに今度は、自ら死のうとしているところを、また助けられた。何と言ったらいいのか分からない。何を言っても、勇仁に不快な思いをさせる気がした。  不機嫌になるといつも机を蹴る上司のことを思い出し、身体が自然と竦んだ。 「言えないか?」  優しい声だった。  新を怖がらせまいとしているのが伝わってきて、新は無性に泣きそうになった。  新を助けても、勇仁には何の得もない。なのに、慌てて鳥の姿になってまで助けにきてくれた。  なぜ死のうとしたかを話せば勇仁に気味悪がられると思ったが、新は覚悟を決めた。 (王様は、心から俺のことを心配してくださっているんだ。俺も本音を話そう)  深呼吸をして気持ちを整えると、新は話し始めた。 「俺は、『ニホン』という国に住んでいました。その国で俺は死にかけたんですが、死んだと思った一瞬のうちに、この国に来ていました。もう一度死にかければ、また『ニホン』に戻れるんじゃないかと思ったんです」  「ニホン」という言葉に聞き覚えがないか、新は勇仁を縋るように見つめた。 「ニホン……聞いたことがないな。お前たちは知っているか?」  勇仁は従者たちに服を着せられながら、ぐるりと見回し尋ねた。しかし従者たちは首をかしげるか、「いいえ」と首を横に振るばかりだ。 「なぜお前は『ニホン』に戻りたいんだ?」  きちんと服を着せられた勇仁が、新に問いかける。  新は、うつむいて唇を噛んだ。 「恩返しをしなきゃいけない人が、いるんです」  この世界で生きるのも、そう悪くはない。不機嫌な上司はいないし、馬鹿にしてくる同僚もいない。毎日毎日馬車馬のように働かなくても、パンと野菜のスープに端切れ肉がもらえる。正直に言えば、元の世界の暮らしより、今のほうがずっといい生活だった。  けれど、元の世界にたった一つだけ心残りがあった。  それは、叔父だ。  実の両親の代わりに、自分を育ててくれた叔父。両親の借金は返し終えたが、まだ叔父には少しの孝行もできていない。叔父は新を育てることを「兄の尻拭いをしただけ」と言い捨てていたクールな人だから、孝行など求めていないかもしれない。けれど新は、借金を返し終えた後は、彼に孝行することが自分の唯一の生きる意味だと思っていた。だから、元の世界に帰りたかった。  草太に言葉を教わりながら、新は毎日不安だった。  この世界の一日が、元の世界の一年だったらどうしよう?元の世界に戻っても、叔父がいなかったら?自分の生きる意味は?そう思い始めると、居ても立っても居られず、「死にかけるしかない」と思いつめてしまった。  新が滔々と語るのを聞きながら、勇仁は痛ましそうに眉をひそめた。 「お前が別の世界から来たというのは、にわかには信じがたいが……ただ、その話を信じるとして、もしこの世界で本当に死んでしまったらどうするのだ。叔父上に恩返しをするどころではないのではないか」 「その通りです。いちかばちかでした」  新がうなだれると、勇仁は困ったように眉を下げた。そして顎に手を当て、何かを考えはじめた。  窓の向こうで、びゅおお、と強風が吹きつける音が聞こえる。 「ひとまず、死ぬ以外で元の世界に戻る方法を探してはどうだろう。明日の宴会には歴史や地理を研究している学者たちも呼んでいる。彼らに話を聞いてみなさい」  勇仁は微笑むと、優雅にかがみこみ、床に座っている新の頭を何度か撫でた。  生まれて初めて他人に頭を撫でられ、新は急にどきどきと胸が高鳴るのを感じた。まるで、子どもに返ったような気持ちだ。分厚く大きな手は、温かかった。 「あ、ありがとうございます!」 「草太と芸を磨いておくといい。決して、思いつめないように」  新が慌てて頭を下げると、勇仁は笑顔を返した。「アラタを部屋まで送りなさい」と侍女に命じると、勇仁はマントを翻し、ゆったりと階段を降りていった。  新は勇仁の背を見送りながら、塔に上る前と今で、気持ちががらりと変わっているのを感じた。  死にかけてやる、とどこか投げやりだった気持ちが、今は、未来に道が繋がっているような、目の前に突然一筋の光が差したような気持ちだった。 (王様のご好意に、応えなきゃ)  新は決意を新たに、胸の前で両手を握りしめた。 「なに!? お前も明日の宴会に出る!?」 「うん、王様にそうしなさいと言っていただいた」  草太は丁寧に磨いていたボールを放り出し、頭を抱えて身悶えた。   この一ヶ月間、新は語学の勉強しかしていない。芸になど少しも触れていないのだ。 「なぜそんな急に、いや、もう決まったことだ。お前、何ができる? ボールはいくつ回せる? 歌はできるか? 楽器は何が弾ける?」 「わ、分からない。芸なんてやったことがない」  恐慌気味の草太に気圧されながら、新はどもりながら答える。 「クソ! とりあえず、俺の持ちネタを教えてやる。真似してみろ」  草太は勢いよく立ち上がると、新にいくつかのボールを手渡す。新は、とりあえず言われるがままに、ボールを宙に放り投げた。 「これも駄目、あれも駄目、お前は一体何ができるんだよ!」  数刻後、草太は頭を掻きむしって怒っていた。新は、草太の前で身体を縮めてうなだれる。  新は、致命的にどんくさかった。  草太がお手本にボールやリングを器用にジャグリングして見せたが、新の手に渡った途端、それらはものの見事に四方八方に飛び散った。マジックはどうかと手順を教えられても、感情が顔に全部出てしまうせいで、タネが丸わかり。楽器演奏はどうかとハープやチェンバロを弾いたが、どちらも一曲終わる前に草太が止めさせた。歌は音痴、踊りはいくら脚が使えないとはいえ体操のようだった。  草太曰く、新は手の施しようがなかった。 「王様の命令に背くわけにはいかない。なんとかこいつを明日の宴会に出さないと……」  草太はぶつぶつとひとりごとを言いながら、部屋の中を歩き回った。  新はただ草太を見つめることしかできない。  自分の小さな手を見つめて、新はため息を飲み込んだ。やっぱり自分は、何の取り柄もないクズだ。 「待てよ、一ついい案がある」  草太は、絨毯の上に無造作に置かれていた小型のハープを掴んだ。 「これを、トン、トン、トーン、ってリズムで弾いてくれ。できるか?」 「多分……」  ポロン、ポロン、ポーン、と新が音を鳴らすと、草太はにんまりした。 「これでいける!」  草太は天に向って拳を突き上げ、大喜びした。  新には、何がなんだかさっぱり分からない。 「明日、お前はこのリズムで弾いてくれさえすりゃあいい。いいな?」 「わ、かった」  草太が何も言うなという顔で念を押したので、新はなぜこれでいいのか、質問するきっかけを失った。  翌日、宴会は夕方から行われるそうだったが、新は朝から緊張しっぱなしだった。  昨晩は心配のあまり、一睡もできなかった。草太が教えてくれたのは、曲とも呼べないお粗末なものだ。それで一体どう宴会を乗り切るつもりなのだろう?もしや、自分さえ上手く芸がこなせればそれでいい、新はどうなっても構わない、と匙を投げられたのだろうか?  新は何度も不安げに草太を見つめたが、草太は「どこからか甘い香りがするな」などと他のことにうつつを抜かしていて、新の様子など気にも留めていない様子だった。  日が暮れて、新と草太は道化師の正装に着替えた。新は赤、草太は緑を基調としたまだら模様の揃いの上下に、頭には星を模したような不思議な形の帽子を被る。  新は侍女に支えられながら、宴会場までの道のりを吐きそうな気持ちで歩いた。  新のひどい芸を見て、勇仁の顔が歪む様がまざまざと想像できる。胃が締め上げられるように痛んだ。 (あんなに優しい人に、いよいよ見放されるかもしれない……)  草太のように「頭がおかしい」と言いたげに突き放すのが普通だろうに、勇仁は新の言うことを信じ、元の世界に戻る方法まで一緒に考えて、手助けをしてくれた。そんな優しい人の顔に、自分は泥を塗ってしまうかもしれない。脚が自由に動くのなら、今すぐ勇仁のもとへ行って謝り、許しを乞いたかった。しかし、現実はそれを許さない。  新の額に滲んだ冷たい汗が頬を伝い落ちた時、ちょうど宴会場にたどり着いた。 「宮廷道化師たちが参りました!」  使用人が声高に叫び、バン、と目の前の大きな木の扉が開かれた。  胸を張って宴会場に入っていく草太の後に続いた新は、言葉を失った。  会場内は、まさに豪華絢爛だった。  新たちが踏みしめる赤い絨毯には、生花がふんだんに散らしてあり、あたりはかぐわしい香りで満ちている。その先には勇仁が座り、従者から杯にぶどう酒を注がれていた。  勇仁の両脇には純白のテーブルクロスがかけられた長方形の机が並んでおり、きらびやかな男女が席に着いて談笑している。壁には磨き上げられた色とりどりの盾が並び、その中でも、大鷲が羽を広げた意匠の彫られたものが、ひときわ光り輝いている。  普段見慣れないまばゆさに満ちた空間に、新は後ずさりしたくなった。しかしふと焼けた肉の香りが漂ってきて、思わず机の上を覗いた。朝は緊張で水もろくに喉を通らなかったので、腹が空いていたのだ。  机の上には、銀の燭台に照らされたイノシシのシチューに鶏のパテ、焼いたニシン、花梨の実のサラダ、そして大量の肉桂入り甘ぶどう酒などが所狭しと並べられていた。誰も彼もが豪勢な食事とおしゃべりに夢中で、唇を脂で光らせながらぶどう酒をかっくらっている。  新は、ひとり壇上で杯を傾けている勇仁をそっと見つめた。  勇仁は純白のブラウスに、袖の膨らんだ焦げ茶色の上着を着ている。複雑な模様がびっしりと刺繍されている上着は気圧されるほど豪華だったが、勇仁の存在感は少しも負けていない。むしろ男らしい顔立ちが映えて見えて、会場内の女性たちは彼をうっとりと見つめている。 (王様)  勇仁は新の視線に気づくと、まるで新を勇気づけるかのように微笑み、見返した。不安で冷え切っていた新の身体に、熱い力がみなぎっていく。  今日の宴会は必ず成功させなくてはいけない。そして、元の世界に戻る方法も聞いて帰らなければ。新は改めて奮起した。  勇仁まであと一メートルほどの距離になったところで、新は侍女から手を外され、長椅子に腰掛けさせられた。 「さあ皆さま、宮廷道化師たちによるショーをご覧ください!」  新が座ると同時に、使用人が叫んだ。両脇にずらりと並んだ貴族たちが食事の手を止め、口をつぐむ。何が始まるのかと、彼らは少年少女のように目を輝かせている。 「紳士淑女の皆様、今宵は私のとっておきの歌をご披露させていただきます」  草太がうやうやしく礼をすると、貴族たちからワッと歓声があがった。  目配せされ、新は言われたとおり単調にハープの音を鳴らす。  草太はうまいもので、どこぞの貴族が大事な宴会で屁をこいて赤っ恥だっただとか、強欲な農民を貴族がとんちで言いくるめて黙らせたとか、嘘か真実か分からないような話をしては貴族たちに大受けしている。  無策なわけではなかったのだと分かり、新はホッと胸をなでおろした。どうやら、勇仁の顔に泥を塗ることは避けられたらしい。  草太の話術の巧みさに感嘆しながら、新は淡々とハープを弾いた。 「さてさて、それではこれが最後のお話」  貴族たちがまだ足りないというように嘆息するが、草太は一層笑みを深めて言った。 「今宵の宴にも参加されている、宰相殿のお話です」  ざっ、と貴族たちの目が宰相の方に向いた。  新も目の端でそちらを見ると、自分とさほど変わらないくらいの小柄な男が、卓の隅で薄く微笑み、座っていた。灰水色の長い髪を後ろで一つに編み込んでおり、毒々しい黄色の瞳は、一切の感情なく草太を見つめている。一見温厚そうな外見だが、目の奥の冷たさに、新は背筋が凍るのを感じた。  草太は新の紡ぐ音に合わせて、調子よく節をつけて歌い出した。 「あそこに見えるは一体どなたか? 大臣殿か、はたまた王様か、いや宰相殿だ! 王様と間違えても無理はない、宰相殿は王様を凌ぐ大地主。他国の重鎮にも顔が利く。王族の中には親族がわんさか。宰相殿とお話したい? ならば金を持ってこい! そう、宰相殿の周りは、金、金、金でいっぱい! 一体誰が王様で、誰が宰相殿か。ご貴族様たちはどちらの馬に乗るかで今日も大騒ぎ!」  水をうったような静けさが、会場内に広がっていた。先程まであんなに誰もが手を叩いて笑い、騒いでいたとは思えないほどだ。貴族たちは周囲に目を走らせ、誰がどう動くかを探り合っている。  新の震えた手が弦に当たり、間抜けに、ポロン、と音が鳴る。草太は満足そうにあたりを見回すと、勇仁の方に向き直り、深くお辞儀をした。 「さすが草太の歌は風刺が利いている。なあ義昭?」 「はい、王様」  勇仁はおもむろに立ち、パン、パン、と乾いた拍手をすると、義昭と呼んだ宰相に笑顔を向けた。  義昭は張りつけた笑顔のまま、慇懃無礼なほど丁寧にお辞儀をする。  勇仁と義昭の間には一触即発といった空気が流れていたが、貴族たちはホッとしたようで、「さすが王様だ」「寛大でお優しい」と口々に褒め称え、酒を口にしはじめる。 「宰相殿が官吏を買収して派閥を広げているというのは、噂ではなかったのか」 「自分に逆らった官吏にぬれぎぬを着せて、刑務所送りにしたそうよ。恐ろしいわ」 「王様と宰相殿、どちらの派閥に入っても苦しみそうだな」  こそこそと貴族たちが話す声が聞こえ、新は耳をそばだてた。どうやら、義昭は金で権力を買っており、勇仁と対立しているらしい。
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