第二話

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第二話

新は震える手でハープを抱きしめ、こっそりと勇仁と義昭の顔色を伺った。二人とも澄ました顔をして酒を飲んでおり、表情からは何も読み取れない。  貴族たちの噂話を鵜呑みにしていいのかは分からない。 (でも、あの宰相さんのことは好きになれそうにない)  新は直感的にそう思った。  草太を見るあの目つき。人を人とも思っていないような冷たい目だった。新を奴隷扱いしていた上司や同僚たちと、同じ目だと思った。  そういえば草太はどこか、と見回すと、早速貴族たちに杯を渡され、酒を飲んでは楽しそうに話し込んでいる。  長椅子に取り残された新は、そばに立っていた侍女に尋ねた。  ここからが、本題だ。 「あの……学者の先生方は、どちらにおられますか?」  侍女は昨日の勇仁とのやり取りを覚えていたようで、「あちらです」と手で指し、すぐさま肩を貸してくれた。新は草太とは反対側の食卓へ向かった。 「アラタ様、右から地理学、歴史学、法学の先生方です。このお三方が、我らが王の治世に貢献しておられる今世随一の知識人の方々でございます。先生方、こちらは宮廷道化師のアラタでございます」 「こ、こんにちは」  侍女に紹介され、新はぴんと背筋を伸ばして緊張しながら挨拶をした。  彼らは元の世界に戻る方法を知っているだろうか?とちらりと不安がよぎる。いや、知っていてもいなくても、当たって砕けるしかない。この三人が頼みの綱だ。 「ああ、さっきの道化師か。なんだ、酒がもうないぞ」 「先程の彼にはヒヤヒヤさせられたが、皮肉が効いていて痛快だったね」  男たちはすっかり酔っ払っていて、新が話しかけても気にも留めない。  新は焦った。この機会に、元の世界に関する知識を少しでも知っておきたいのだ。 「あの! 俺、先生方にお聞きしたいことがあって」 「何だね」  新が少し大きめの声で男たちに話しかけると、彼らはまだ好き勝手に話したり酒を飲んだりしていたが、その内の一人が顔をしかめて新に応えた。 「俺、別の世界からここに飛ばされてきたんです。『ニホン』とか『トウキョウ』って名前を聞いたことはありませんか。俺、そこに帰りたいんです。もし先生方がご存知だったら……」 「なんだと貴様!」  話を聞いていた男の一人が、突然大声を出し立ち上がった。  新はびくりと大きく震える。  周囲の貴族たちも、何事かと男と新を交互に見た。 「王様の治世こそが至上のものだというのに、他の世界に行きたいだと? 先ほどの歌といい、今宵の道化師たちは無礼にもほどがある! その首を切って、荒れ狂う海に流してやろうか!」  酔いと怒りで顔を真っ赤にした男は、腰に差していた短剣をよろめきながら勢いよく引き抜いた。  よく磨かれた短剣は、燭台の炎を反射して恐ろしげにぎらりと光った。隣に座っていた女性が、絹を裂いたような悲鳴をあげる。 「ち、違います。王様を侮辱したわけじゃ」 「黙れ! 我らが王を貶めていい気になっておるとは、呆れ果てた!」  男が机を乗り越え、新に刃を突きつけようとしたその時、凛とした声が会場内に響き渡った。 「止めよ」  決して大声ではないのに、その美しい低音は全員の耳にはっきりと届いた。そして、誰もが自然と動きを止めた。  新は思わず、助けを求めるように声の主の方を振り向いた。  そこには、壇上からこちらをじっと見据える勇仁がいた。 「王様、こやつは道化師の分際で」 「良い、お前の忠誠心はよく分かっている。この道化師たちは私のお気に入りだ。あまり目くじらを立てないでやってくれ」  男はなおも新の罪を追求しようとしたが、勇仁が穏やかに諌めたので、ばつが悪そうに渋々短剣を鞘にしまった。 「草太、アラタ、お前たちはもう部屋に戻りなさい」  勇仁にそう言われ、新は、貴族たちと飲んだくれていた草太とともに宴会場を後にした。  部屋を退出する時、二人は勇仁と貴族たちに深々と礼をした。顔を上げた瞬間に勇仁とばちりと目が合い、新はそのまなざしにぎゅうと胸を掴まれたような気持ちになった。  勇仁は、新を憐れむような、悲しげな目をしていた。 (俺が学者の先生たちから話を聞き出せなかったと分かったから、かな)  住処に帰りながら、新はお膳立てしてくれた勇仁への申し訳ない気持ちがこみ上げた。元の世界に戻るための手がかりはもちろん欲しかったが、勇仁の好意に応えられなかったという落胆が、新の胸にのしかかった。 「俺様のおかげで、命拾いしたな! これからはもっと俺様を敬えよ」  草太は酒臭い息を撒き散らしながら話しかけてきたが、新はろくに返事もできなかった。  勇仁の悲しげな瞳が、頭に焼きついて離れなかった。  その晩、草太とともに寝床に入ってからも新の目は冴えたままだった。元の世界に戻れない、という確固たる事実が、新の脳内でぐるぐると回っていた。  この世の知識人たちも元の世界に戻る方法は知らず、それどころか反逆者のような扱いを受ける始末だ。死にかけるという手もあることはあったが、命の恩人である勇仁を、もうこれ以上苦しめたくなかった。  ならば、もう新に残された方法はない。  新は元の世界には、一生戻れないのだ。 (叔父さんに申し訳ない。俺は何も返せていない。それに、叔父さんに恩返しをしないなら、俺の生きている意味なんてあるんだろうか? 俺は無能で、クズで、誰でも代わりが利く存在なのに……)  今自分が一体何をしたらいいのか、分からなかった。  空の真上にあった月が沈み、日が地平線から顔を出す頃、ようやく新は自分の心の落とし所を決めた。 (この世界で、生きていこう。俺は芸も何もできない。できない分、人一倍働いて、埋め合わせよう)  芸は草太と相談して、ハープを人並み程度に弾けるようになるまで練習することにした。それ以外の自由な時間は好きにしろと言われたので、他の仕事を入れることにする。  新は朝から、王宮のあちこちに「仕事をいただけませんか」と頼んで回った。  両脚が使えないせいで、仕事の内容は限られる。どこでも、「脚さえ使えりゃあねえ」と残念そうに断られるばかりだ。それでも、仕事が欲しかった。新は諦めず、自分ができる仕事はないかと執念深く探して回った。 「野菜の皮剥き、食器磨き、だけか」  数日間あちこちに頭を下げて回った結果、どうにか二つ、仕事をもらうことができた。どちらも朝早くから夜遅くまでかかるので誰もやりたがらない仕事らしかったが、忙殺されたい新にとっては好都合だった。  まだ夜も明けきらない頃に起き出すと、新は職場である厨房へと向かった。  厨房に到着した時、既に数人の男女がそれぞれの仕事を始めていた。肉を切ったり、豆を煮たりとすでに慌ただしさの片鱗が感じられる。 「来たか。まずはこれの皮を剥いてくれ。この次は人参だ」  厨房を仕切っているらしい大柄な男が、腕いっぱいの大きな籠に山盛りのカブを、新の前にドンと置いた。鳥そのものの目でギョロリと値踏みするように見られて、新はにわかに緊張した。  新の他にも皮を剥く担当の者がいるらしく、その男女の前にも、同様に大きな籠が置かれる。  借金返済のため家計を切り詰めようと自炊はしていたが、決して料理が得意なわけではない。しかし、野菜の皮剥きくらいはできるはず、そう思ってこの仕事に志願したのだが。 「皮を剥きすぎだ! もっと薄くしろ」 「カブはまだかい? 早くしとくれ」 「はい! すみません!」  皮を剥いていると、あちこちから怒声が飛ぶ。  新以外の皮剥き係は早々と仕事を終えたようで、別の仕事に取り掛かっていた。 「つっ」  慌てたせいで、ナイフの刃で指先を切ってしまった。 「血がついたものは捨てな! さあ、早く」 「は、い」  思ったよりも深く切ってしまい痛かったが、目の前に仕事は山積みだった。  女から投げられた布の切れ端を指先を巻くと、慌てて次のカブの皮剥きに取り掛かる。焦りばかりが募ったが、必死で手元に意識を集中させた。  仕事が終わったのは、王宮が静まり返る深夜だった。夕食用の食器を拭き終えるのに、思ったよりも時間がかかってしまったのだ。 (他の人たちは、俺よりもずっと仕事が正確で速かった。このままじゃ、追い出される。頑張らなきゃ)  新は来る日も来る日も、皮剥きと食器磨きの仕事に追われた。早朝から深夜まで、仕事漬けだ。  けれど、ハープの練習もおろそかにしてはいけない。新はあくまで道化師として王宮に置いてもらっているのだから。厨房の休憩時間は、ハープの練習に当てることにした。  皮剥きの最中に指先を何度も切ってしまい、ハープの弦が指に当たると飛び上がりそうに痛いこともあった。けれど、新は厨房の仕事もハープの練習も、一日も休まなかった。やるしかない。新はこの世界で生きると決めたのだ。  仕事に慣れ、厨房でも怒鳴られなくなった頃、新は厨房を仕切る男に「仕事をもっとくれないか」と頼んだ。 「馬鹿言うな、それ以上働いてどうするつもりだ」  男は面食らったような顔をしていた。たしかに今でも十分仕事を詰め込んでいるとは思う。けれど、元の世界で働いていた時ほどではない。もっとできる、と新は思った。 「仕事がほしいんです。何でもいいんです。何でもやります」 「はいはい、結構な覚悟だ。でも今はお前にやれる仕事はないよ」 「でも」  新は食い下がったが、男は遠くから女に呼ばれて、どこかへ行ってしまった。  新は唇を噛み締めた。  今のままでは、いけないのだ。もっと働かなければ、もっと……。  その後も、新はあちこちにまた「仕事をくれないか」と頼んで回った。けれど、「厨房ならあるかもしれないが」としか言われず、結局厨房を仕切る男に何度も「仕事をくれ」と頼むことになった。 「だから! お前にやる仕事はもうないって言ってるだろ!」  とうとう男に大声で怒鳴られ、新はびくりと身体を震わせた。厨房にいた他の者たちも、何事かと新と男を見つめる。 「お前にはもう十分仕事を与えてる。何が不満だ! 他の奴の仕事を奪う気か!」 「違うんです。俺はもっと、皆さんの役に立ちたくて……」 「いい加減にしろ、同じ話を何度したと思ってる!? お前にやる仕事はもうない!」 「すみません。でも、本当に何でもいいんです。面倒な仕事とか、汚い仕事とか、ありませんか?」 「お前……」  男はいよいよ本格的に怒ったようで、血管の浮き出た太い腕を思いきり振り上げた。新の顔に向かって、腕が勢いよく振り下ろされる。 (殴られる)  男は新より二回りは身体が大きい。本気で殴られれば、新のか細い身体など簡単に吹っ飛ぶだろう。歯か顎の骨が折れるのは必至だ。  一瞬後に訪れるであろう激痛を覚悟して、目を固く閉じ、歯を食いしばった。 「待ちなさい」  あまりにも近くでなめらかな低音が響き、新は驚き、思わず目を開ける。  目の前には、飄々とした表情で男の腕を握る勇仁と、感情の行き場を失ったようにうろたえる男がいた。  今日の勇仁はところどころが銀色に光る深い藍色の上下を着ていて、その色もまた彼によく似合っていた。まるで神様が夜明けの空を切り取って、勇仁にプレゼントしたようだ。新は思わず紛糾している場のことも忘れ、その堂々たる美しさに感嘆しそうになる。 「お、王様! 申し訳ありません」  男は勇仁から手を離されると、慌ててひざまずき、床に頭をつけた。 「良い、どうしたのだ」 「王様、俺が悪いんです。俺が、何度も『仕事がほしい』と言うから、怒らせてしまって」  新がおろおろと言うと、勇仁はふむ、と片眉を器用に上げた。 「どうして仕事がほしいのだ。お前には道化師の仕事を与えているだろう?」 「でも、もっと、倒れるくらい仕事がしたかったんです」 「なぜ?」 「俺の代わりは、いくらでもいるから。俺は無能な、クズだから。人の何倍も働かなきゃ、俺の生きてる意味なんてない、って思って」  新は、自分の声がどんどん尻すぼみになっていくのを感じた。  勇仁の前で、新はいつも問題ばかり起こしている。この前は死のうとして、今回は男を怒らせて……。  きっと勇仁は呆れているだろうと思った。「そうだ、お前は無能なクズだ」といよいよ肯定される。断崖絶壁に追い詰められたような気持ちだった。両手を胸の前で固く握り、震えていると、勇仁は深くため息をついた。  新はびくりと大きく身体を震わせる。  失望された。この世界に来てから、新を心から信じ、助けてくれた唯一の人に、呆れられた。  目の奥がじんと熱くなる。 「アラタ」  うつむいていた新の顔が、ぐい、と上向かされる。  緊張して冷たくなっていた新の頬を包んでいたのは、勇仁の大きな手だった。塔の上で頭を撫でられたことを、不意に思い出す。涙で潤んだ新の目を、勇仁の真っ直ぐなまなざしが射抜く。 「仕事のために生きてはいけない。自分のために生きろ。それに、自分を大事にできない人間に、やる仕事はない」 「自分……を、大事に?」 「そうだ。自分のために生きること、自分を大事にすることがどういうことなのか、それが分かるまで、お前は仕事をしてはいけない。いいな?」  勇仁の瞳は真剣で、新はすぐさまこくりと頷いた。  けれど、初めて言われた言葉に、ただただ衝撃を受けていた。  勇仁は床にうずくまっていた男の肩を叩くと、お前たちは仕事に戻りなさい、と優しく促した。男は何度も頭を下げると、持ち場に戻っていく。 「私の言葉の意味が分かったら、訪ねてくるといい」  勇仁は新に向き直るとそう言い置き、穏やかな足取りで去っていった。  二十九年間、両親の借金のため、会社のため、叔父のために生きてきた。 (自分のために生きるって、自分を大事にするって、どうしたらいいんだ)  新は勇仁の命令を受けてから、しばらく動けなかった。  自分などが人並みに「自分のために生きる」だとか「自分を大事にする」だとか思うのは分不相応だと思ってきた。なのに、勇仁はそう生きろと言う。  自分のために生きてみたい、自分を大事にしたいとは思っても、どうすればいいのか、皆目検討もつかない。 (『自分のために生きろ』か)  ベッドの中で、勇仁から言われた言葉を反芻しながら、新は自分の過去を振り返った。  元の世界では、自分のために生きる前に、まず両親の借金を返すために生きざるを得なかった。けれど、この世界では違う。新は自分の意思でどんな風にでも生きられるのだ。では、自分はどう生きたいのか?  横で眠っている草太のように、才能溢れる道化師になりたいのだろうか?いや、無理だ。新は草太のように、芸を心から楽しいとは思えない。  では、侍女のように誰かに仕えて尽くしたいか?  そう思った時に、ふと勇仁の顔が脳裏に浮かんだ。その瞬間、新の背筋に電撃が走った。  がばり、と新はベッドの上で身を起こす。 (そうだ。自分がどんな風に生きたいか、それだけははっきり分かる)  自分の生き方を見つけられた興奮で、途端に胸がドキドキと高鳴り始める。この世界に来てからぼんやりと感じていたものが形になり、急に視界が開けたような気持ちになった。  でも、まだもう一つの問いの答えが出ない。幸い、時間はたっぷりある。持てる時間の限りを使ってじっくり考えてみよう、と決意し、新は掛け布団を被り直して、目をつぶった。  それから二週間が経った。  使用人たちが休憩時間に談笑する姿を観察したり、ぼうっと空を眺めたりしながら、新は「自分を大事にする」ことは何かを考え続けていた。 (俺なんかがこんなことを考えていて、いいんだろうか)  中庭で忙しく働く庭師たちを見ていると、そんな思いが湧き上がってくる。  自分を大事にするには、もっと仕事で成果を挙げているだとか、家族のために家事を頑張っているだとか、なんらかの正当な理由が必要なのではないだろうか。誰のためにも働かず、ただ生きているだけの自分なんかに、考える資格があるのだろうか?  足元できびきびと列を作っている蟻の行列をしばらく見つめ、新は唐突に決心した。 (王様に、会いに行こう)  勇仁は忙しくて忘れているかもしれないが、自分なりに出した答えを伝えたい。  新は早速、勇仁にお目通り願いたい、と侍女に頼んだ。侍女はすぐに勇仁付きの従者に伝えてくれ、翌日、勇仁の休憩の時間に会えることになった。  新が勇仁に会いに行くと、彼は楽師たちに音楽を奏でさせていた。目をつぶり苦しげな表情で音楽を聞いていた彼は、新が挨拶をすると途端に唇に弧を描かせた。 「アラタ、もう答えが分かったのか?」  自分にした問いかけを勇仁が覚えていてくれたことに、新は胸が熱くなる。  勇仁は片手で音楽を止めさせると、楽師たちを下がらせた。新は勇仁と一対一になる。 「『自分のために生きること』、『自分を大事にすること』について考えて参りました。前者の答えは、分かりました。今日はそれを申し上げに参ったのです」 「ふむ。では聞こう」 「俺は、王様のために何かをしたいです。それが、俺にとっての『自分のために生きること』です」 「アラタ」  勇仁は困ったように、眉を下げた。 「それは、自己犠牲だ。お前はまた誰かのために、自分の人生をないがしろにしようとしている」 「違うんです!」  新は目と腹に力を込め、言った。 「これまでは、他人に強制されたり、倫理的にそうすべきだから、という理由で、生き方を選んできました。両親の借金のために生きてきたのも、叔父のために生きてきたのも、そうです。だけど、王様のために生きたいというのは、間違いなく、俺の意思です。王様は、俺に、たくさんの『初めて』をくれました。誰でも代わりがきく、無能でクズだって言われてきた俺を、信じて、助けて、庇ってくださいました。王様は、俺にとって唯一無二の人です。俺は、王様に恩返しがしたい。王様のために生きたい。それが、俺の生きる道です」  言いきって、新は身体がカッカと熱く火照るのを感じた。まるで、一世一代の大告白だ。自分の心を切り裂いて、やわらかな中身を見せているような気持ちだった。  勇仁は、何と言うだろう。迷惑だ、と言われたら、どうしよう。軽く受け流されたら、どうしよう。悪い予感が、じわじわと心を侵していく。 「自分の意思、か。良いじゃないか」  勇仁は嬉しそうに頷いた。 「私のために生きたいというが、アラタは私のために何がしたい?」 「俺、法律の知識なら、少し自信があります。法律を使う仕事はありませんか」 「法律!」  勇仁はひときわ大きな声をあげ、目を輝かせて席から立ち上がった。 「我が国では、今大規模な法律の改正をしようと試みているところなのだ。これまで全く納税義務のなかった貴族にも、所得の割合に応じて税を徴収しようと考えている。アラタ、私の言っている意味は分かるか?」 「分かります。俺の国では、その仕組みは『累進課税制度』と呼ばれています。所得だけでなく、誰かが何かを相続する場合や、贈与する場合にもその制度が適用されていました」 「ほう」  勇仁は目を細めた。気持ちよさげに喉を鳴らす猫のような、満足げな表情だった。 「どのような法にするか、どのように運用するか、まだ検討段階なのだ。アラタ、お前も話し合いに参加するといい。お前の元の世界での知識を、いかんなく発揮してくれ」 「あ、りがとうございます! お役に立てるよう、頑張ります!」  新は勇仁に向かって慌てて頭を下げた。嬉しい気持ちが温かさとなって、じんわりと四肢に流れ込んでいく。 「早速今日の午後に会議を入れている。アラタも出席しなさい」 「はい!」  新は勇仁の勧めで、早速新法案の検討会に参加することになった。  検討会に参加するのは、勇仁、そして王宮に来た初日に会った秀と他大臣数名だ。 「貴族たちからは新法案への非難の声がかなり出ています。反対の署名も千を超えるとか」 「商工業者、農民たちからは、どちらについても賛成の声が強くなっています。『持てる者から取ってくれ』と」 「ふむ」  要約すると、新法案には貴族たちは反対、平民たちは賛成しているとのことだった。新はさもあらん、と頷く。 「王様、新法の施行は見直していただけませんか。貴族たちがこれほど反対していますと、王室、ひいては王様の威信が揺らぎかねません」 「何を言う。民のことを考えるなら新法は必ず施行せねばならん」  弱りきったように懇願する大臣を、秀がきつい目で睨みつけた。神経質そうな黄色い目で見下され、もう一人の大臣は悔しそうに口をつぐむ。 「その通りだ。我がバーランドは世界の中でも富んだ国だが、商工業者や農民の一部には、困窮した生活を送っている者もいる。国は、民が最低限の生活を送れるよう保障してやらねばならない。そのためにはより金が必要だ。商工業者や農民たちからはすでに十二分に税を徴収している。貴族だけが税収を免れてきたこれまでの方がおかしかったのだ。民のためならば、王室や私の権威など、どうということはない」  勇仁が言い渡すと、一部の大臣たちはうろたえるように目線をさまよわせた。秀ともう一人の大臣だけがしっかりと勇仁を見つめ、頷いている。 (新法案は貴族が反対しているから、施行に二の足を踏んでるって感じだ。王宮内でも、賛成派と反対派がいるんだな) 「アラタ、何か意見はあるか?」  勇仁に見下ろされ、新はどきりとした。見回すと、なぜ道化師風情がここに、と大臣たちが胡散臭そうにこちらを見ており、怖気づく。  しかし、勇仁から背に手を添えられ、新は腹の底からぐっと力が湧くのを感じた。そうだ。新は「勇仁のために働きたい」という願いを汲んでもらい、ここにいるのだ。勇仁のために働けると、証明したい。 「貴族の中に反対派が多数いるということは分かりました。それならば、例えば、消費税やたばこ税、酒税などもあわせて取り入れてはどうでしょうか。貴族が反対しているのは『自分たちだけが損をする』と思うからでは。商工業者や農民からも公平に税を徴収すれば、反対の声は収まるかもしれません」  新が滔々と発言すると、秀の目が大きく見開かれた。他の大臣たちも、あっけにとられている。勇仁は上機嫌に頷く。 「アラタは、法律に詳しいのだ。今後は新法案の検討会にアラタも同席させる」  背中に添えられた大きな手が、新の胸を張らせた。 「お、王様! 恐れながら、そのような道化師ごときに」 「私は身分で人を判断したくない」  新法反対派の大臣が慌てて言いかけるが、勇仁はばさりと斬って捨てた。 「優秀な者は重用されるべきだ。アラタには私達にはない視点と知識がある。皆の者、決してアラタを軽んずることのないように」 「はい、王様」  勇仁を除く大臣たちがうやうやしくお辞儀をして、新は心臓がドクドクと脈打つのを感じた。  これまでずっと、周囲から「無能だ」「お前の代わりなんかいくらでもいる」と馬鹿にされてきた。  けれど、勇仁は新に期待してくれている。勇仁の手が添えられている背中が、やけに熱く感じた。 (王様の期待に、応えたい。恩返しのチャンスだ)  新は両手を胸の前でぎゅっと握ると、「よろしくお願いします」と頭を下げた。  その日から、新は道化師ではなく、勇仁お抱えの法学者として扱われることになった。  住処はこれまでと同じだが、生活がまるで違う。朝から夜まで、図書館にこもる生活になった。  新はこの国のことをまるで知らない。身分はどうなっているのか、税の仕組みはどうなっているのか。  勇仁の役に立ちたいなら、この国の成り立ちの全てを知る必要があった。新は図書館の本を隅から隅まで読む勢いで、毎日勉強した。  新の新たな毎日は、充実していた。生まれて初めて、自分の意思で選んだ人生だ。勇仁のために生きるのだと決めてから、毎日が忙しくも、楽しかった。  けれど、勇仁に重用されるということは、楽しいことばかりではなかった。 「痛っ」  図書館で勉強していると、突然イスの脚をガン、と何者かに蹴られた。イスが傾いた拍子に新は体勢を崩し、腕や尻を床でしたたかに打ってしまう。身体のあちこちがじんじんと痛んだ。  何が起こったのかと新があたりを見回すと、先日新法の検討会にいた新法反対派の大臣が近くからじろりと睨みつけていた。 「王様に取り入って、いい気になるなよ。たかがペットのくせに」  ペっ、と唾を吐かれ、吐かれた唾が新の顔にべっとりとつく。大臣は鼻でせせら笑うと、その場を去っていった。  新は、唇を噛んでぐっと耐えた。侍女に借りたハンカチで唾を拭うと、イスに座り直し、黙々と勉強を続けた。  深夜まで勉強し、図書館から住処に帰る。住処のドアを開けると、草太がベッドの上にだらしなく寝そべりながら、酒を飲んだくれていた。部屋じゅうがぶどう酒臭く、新は思わず顔をしかめる。 「ああ? なんだあ? 法学者の先生は酒がお嫌いってかあ? お高くとまってんなあ!」  草太は最近、新によく絡んでくるようになっていた。新が法学者として勇仁に重用されているのが気に食わないらしい。 「そんなこと言ってない。とりあえず、窓を開けさせてくれ」 「うるせえ! ここは俺の部屋だ! 嫌なら外で寝ろ!」  ぶどう酒を入れていたらしいピッチャーを投げつけられ、新はとっさに顔を覆ったが、間に合わなかった。ガツン、と鈍い音がして、血がつうと目元に流れてくる。そこで初めて、額が切れたのだと分かった。  草太は気が済んだようで、フンと大きく鼻息をつくと、ベッドの真ん中を占領して大きないびきをかきはじめた。  新は侍女に暖炉のそばに座らせてもらうように頼み、そこで寝ることにした。  日中は随分暖かくなってきたが、まだ夜は冷える。外出用の分厚いマントを身体にきつく巻きつけ、小さい絨毯の上で身体を縮こまらせる。切れた額が、ひりひりと傷んだ。  目を固くつぶりながら、新は思った。 (予想できていたことだ)  勇仁がアラタを特別扱いしてくれていることは、傍目にでも分かる。それを面白く思わない人間がいるであろうことは、容易に想像できた。  けれど、新の心を占めていたのはやっかみへの嫌悪感ではなく、勇仁にもっと信頼されたいという感情だった。 (俺は誰にも信頼されたことなんて、ない。王様が初めてだ。王様は俺の能力を認めて、新法案を起草する仕事に抜擢してくれた。王様のために、結果を出したい。嫌がらせなんかに、絶対に負けたくない)  元の世界にいた頃の自分ならば、心が折れていたかもしれないと思う。けれど、今の新は一人ではない。だから、頑張れる。 (絶対に、新法をいいものにする。王様が望む、民を大切にする国にするんだ)  赤々と燃える炎を前に、新は再度決意した。 「アラタ、納税させる者は貴族に限るべきだと思うか?」 「いえ、商工業者の中にも貴族に匹敵するほどの財力を持つ者も大勢います。彼らには貴族と同様に納税義務を負わせるべきだと思います。毎年の収入がいくら以上の者は、いくらの税を治めるべき、と細かく決めてはいかがでしょうか」 「秀はどう思う?」 「よろしいと思います。ただ、どの程度細かく分けるかが問題かと」  新は頻繁に勇仁から政務室に呼び出されるようになった。その場には秀が同席することも多く、彼から質問されることも多い。最初は彼の厳しそうな雰囲気に怯えていた新だったが、最近はすっかり慣れていた。 「過去の税収をもとに速算表を作ってみました。例えばこれを一部の州で実施してみて、問題なければ全国で実施するというのも良いかと思います」 「素晴らしい」  勇仁は感心したように新の手渡したワックス板を見ている。 「アラタの行動力は目を瞠るものがある。私が期待した以上の働きをしてくれているようだ」 「お、恐れ多いことです!」  嬉しさのあまりぼうっと赤面してしまった新は、秀からじろりと睨まれて、慌ててお辞儀をした。 「秀にはアラタの作った速算表で問題ないか確認してもらおう」 「かしこまりました」  秀は丁寧に礼をすると、そのまま下がっていった。  勇仁と新だけがその場に残される。 「最近はずっと図書館にこもっていたのだろう? 侍女から聞いている。しばし休むと良い。私と一緒に少し酒でも飲もう」 「はい! ぜひ!」  勇仁が新の働きに満足してくれているのが分かって、新は心から嬉しかった。気持ちそのままに、元気いっぱいに返事をする。  勇仁と新の前にぶどう酒と大皿に盛られた果物が運ばれてきた。みずみずしい輝きを放つ柿や金柑、ぶどうが美しく皿の上に鎮座していた。 「新法案の順調な進捗に」  大鷲が羽ばたくさまが彫り込まれたグラスに、従者がぶどう酒を注ぐ。酒の入ったグラスを持ち上げて、乾杯、と言われ、新も控えめにグラスを持ち上げた。勇仁は唇を湿らせる程度に酒を舐めると、新に質問してきた。 「アラタは別の世界から来たと言っていたな。その世界には何がある?」 「私のいた世界は……物と情報が溢れていました。この世界では本がとても貴重ですが、私のいた世界では平民でも本が買えて……」  勇仁は無邪気な子どものように、新がいた元の世界がどんな世界だったのかを聞きたがった。どんな美しいものがあるのか、新はどんな生活をしていたのかと次々に質問され、新は夢中で話した。  元の世界のことを何の気負いもなく話せる相手は、勇仁しかいない。他の人に話しても、頭がおかしいと思われるだけだ。 (王様ってもっと、偉そうで、怖くて……そんなイメージだったけど、勇仁さんは全然違う。すごく柔軟で、優しい)  そんな制度があるのか、そんなものがあるのか、と驚く勇仁を見るのは、楽しかった。もっと勇仁に楽しんでほしい、と、新は持てる知識と経験をめいっぱい使って、身振り手振りを加えて懸命に話した。 「そういえば、アラタの両親は借金を残して消えたと言っていたな。アラタは、両親を憎んでいるか?」  唐突に、勇仁は新に尋ねた。  新は驚き、口に含もうとしていたぶどう酒を噎せそうになる。  勇仁から「憎む」などというマイナスな言葉が出るとは思わなかったのだ。けれど、改めて尋ねられて、新は悩んだ。 「そうですね……憎んでいました。金を返させる道具として俺を産んだのか、と何度も思いました。でも、親をどれだけ憎んでも、金は生まれてきません。だから、借金を返すという、目の前のことを淡々とやるしかなかったです。今は、憎しみはありません。ただ、諦めのような気持ちがあるだけです」 「そうか」  勇仁は頷き、遠くを見つめた。  勇仁の目線の先を見たが、そこには開け放たれた窓越しに、整えられた中庭の景色が広がっているだけだ。いつもと何も変わらない。  ざあ、と木々を揺らす強い風が吹いた。 「この国の者なら誰でも知っていることだが、私は母を殺して生まれてきた」  勇仁の静かな告白に、新は息を呑む。  母を殺したとは、どういうことなのか。 「私の母は、もともと身体の弱い方だったそうだ。父はそんな病弱な母を溺愛していた。けれどいざ私が生まれるとなった時、母が死ぬか、私が死ぬか、どちらかを選ばなければならなくなった。母は私を生かすことを選び、帰らぬ人となった」  勇仁の瞳は、風のない大海のように凪いでいた。 「父は私を呪った。生まれてきた私に、『母殺し』という名をつけようとしたほどだ。その後も父は私を憎み続けている。今もなおだ」  勇仁は新に向き直った。 「アラタ、私はお前にだけは話してみようと思う。私は、母を殺してまで生まれてきたくなどなかった。父が私を憎んでいるように、私は両親を憎んでいる」  勇仁の瞳が、真っ直ぐ新を捉えた。  琥珀色の澄んだ瞳に、新だけが映っていた。 「初めて塔の上でアラタの身の上話を聞いた時、私は、『同じだ』と思った。私もお前も、両親からの無償の愛を知らずに育ってきた仲間だと。だから、ずっとお前に打ち明けたかった。お前だけは、私の憎しみを分かってくれるはずだと思ったのだ」  絞り出すように紡がれる言葉に、新の胸が苦しくなる。  勇仁は、たった一人で戦ってきたのだ。愛されないならば生まれたくなかった、という苦しみを、口に出すこともできず、たった一人、抱え込んで生きてきたのだ。  それは新も同じだ。叔父に養われていた以上、生まれてきたくなかったなどとは、とてもではないが言えなかった。命を絶つ勇気もなく、生きることが毎日苦しかった。  勇仁の苦しみを痛いほど肌に感じながらも、新は勇仁が両親に憎しみだけではない感情を抱えているように感じた。憎んでいる、と言うたびに苦しげに歪む勇仁の表情が、全てを語っていた。 「王様、俺はもう元の世界に帰ることができない以上、両親を憎もうとどうしようと何をすることもできません。けれど、もし王様のお父様がご存命ならば、どうかお言葉を交わしてみてほしいです」 「アラタ、それは……」  勇仁が疲れたように顔を横に振った。  もう飽きるほど考えたことだ、というような表情だった。  けれど、新は言葉を続けた。 「誰かを憎み続けるのも、憎まれ続けるのも、つらいことです。王様は、お父様をもう愛したいと思われているのではないでしょうか」 「私が、父を、愛したいと思っている……?」  勇仁は涼しげな目を、切れそうなほど見開いていた。 「貴族たちをあれほど敵に回してもなお、民のことを第一に考え新法を施行しようと努める王様の愛情深さを、俺は知っています。それほど愛に溢れた方が、誰かを憎しみ続けるのは相当におつらいはずです」  新には、目の前の人が、とても小さく、心もとなく見えた。 「王様は、自分を憎む人でさえも、愛で包み込めるお方だと思います。きっと、お父様のお心に寄り添えます」  新は思いきって、机の上で固く握られている勇仁の手を、両手で包み込んだ。発作のように、そうしたくてたまらない衝動に襲われたのだ。  振り払われるのも承知での行動だったが、勇仁は身体を少し震わせただけで、新の手をじっと見つめていた。  勇仁の手は、新を奮い立たせてくれる魔法の手だ。この大きな手で触れられるたび、新の臆病な心は、鋼の鎧をまとったように強くなれる。勇仁の手は新の小さな手で包むと両手でも余るほどだったが、触れられるだけで気持ちは伝わるものだ。  新は目に思いを乗せた。自分は勇仁の愛情深さを、人の心に寄り添おうとする勇気を、信じている。必ず全てがうまくいくはずだ、という思いが伝わるように、しっかりと見つめた。  勇仁は新の手を見つめていたが、しばらくして、指先をぎゅっと握り返してくれた。温かな感触に、新の胸にぼっと嬉しさが灯る。 「不思議だ。これまでそんな風に思ったことなど一度もなかった。ただ、父から憎まれて辛い、自分も憎み返してやると思うばかりで」 「王様の心の底にきっと、ずっとあったのです。言葉にならなかっただけで」  勇仁は新の目を正面から捉えた。 「アラタが言うように、勇気を出して父に会ってみよう。もう長らく会っていないのだ。……また、話を聞いてくれるか?」 「もちろんです! 俺なんかで良いなら」  新が胸を張って言うと、勇仁はどこか安心したように微笑んだ。  そして、ふと思い出したように新に尋ねた。 「そういえば、以前新に出していた問いの答えをまだ聞いていないな。『自分を大事にすること』はどんなことか、考えられたか?」 「あっ、いえ……」  新は勇仁の手をずっと握り続けていたことに気づき、慌てて手を引っ込めた。  そういえば、まだ勇仁からの問いの答えが出せていない。自分で考えてはみたが、答えは堂々巡りで出せないままだった。新法案に関する勉強で忙しくしているうちに、その後すっかり忘れてしまっていたのだった。  勇仁が、助け舟を出すように質問してくれる。 「新は休みたい時、どうする? 息抜きをしたい時はあるだろう?」 「休みたいなんて、思っちゃダメだと思っています。働かせてもらえるだけありがたいと思わなきゃと。息抜きしたい時というのも、よく分かりません。すごく疲れたらよく眠れるので、それが息抜きになっているかも」  勇仁はぽかんとした顔をした。 「まさか、働き続けて、倒れるように眠ることが息抜きだと思っているのか?」 「そ、そうだと思っていました」  違うのだろうか、と新は思う。  自分などが息抜きをするなど、おこがましいことだ。
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