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第三話
「アラタ、お前は生きる意味を仕事に求め過ぎだ」
勇仁は眉間にしわを寄せて、片手で両のこめかみを揉んだ。
「よし、お前に『自分を大事にすること』の例を教えてやろう。例えばこの時間だ」
勇仁が机に置いたワイングラスを指差す。
新は首を傾げた。
「気の置けない者と、酒を飲み交わし、談笑する。緊張して張り詰めた心が、緩まないか?」
「とても幸せな気持ちになります。こんな幸せなことが自分にあっていいのだろうか、というような、飛び跳ねたくなるような気持ちです」
「そうだ、その気持ちを感じる時が、自分を大事にできている証拠だ」
勇仁は頷いた。
「他に、同じような気持ちになる時はないか?」
「こんなに幸せな気持ちになる時は、他にありません。王様にお見せする資料ができあがった時や、王様に新法案の進捗をご報告する時は似た気持ちになりますが、今とは少し違う気がします」
「全く、アラタは本当に私が好きだな」
勇仁に楽しげに笑われ、新は思わず真っ赤になった。
だって、本当にそうなのだ。勇仁のために働いている時は、一秒一秒、生きている喜びを感じられる。
けれど、勇仁のそばにいられたり、直接話ができると、それとはまた違う、心がふわふわと浮くような幸せな気持ちになるのだ。
「アラタ、たしか言葉が難しくて読めない本があると言っていたな」
少し考えた後、勇仁は思いついたように言った。
「は、はい。すみません。侍女にも尋ねたのですが、彼女も読めなくて」
「私が読んでやろう。今晩私の寝室に持ってくるといい。眠る前に小難しい本でも読めば、より眠りやすくなろう」
「よ、良いのですか。ありがとうございます!」
勇仁がなぜ突然本を読んでくれると言い出したのか、新にはよく分からなかった。
けれど、勇仁と一緒にいられる時間が増えるのは、ただただ嬉しい。侍女とともに一旦住処に戻りながら、新は自分が浮足立っているのを感じた。
侍女に勇仁の部屋へ行きたいと理由を話すと、その場にへたりこむほど驚かれた。
勇仁は、「真白き鳥と番う」と占い師に神託を受けてから、これまで公妾さえ自分の寝室には入れたことがないらしい。
以前聞いた話では、「真白き鳥」は相当神聖化されているようだった。「真白き鳥」候補である公妾たちさえ入ったことのない部屋に、自分などが入ってもいいのだろうか。新は急に不安に襲われる。
しかし、勇仁がいいと言ってくれたのだ。行かなくては逆に失礼だろう。
新は覚悟を決めて、勇仁の部屋の前まで行き、従者に取り次ぎを頼んだ。
「王様、アラタがお会いしたいと申しております」
「ああ、入れ」
白地に金で装飾された分厚い扉の向こうから、勇仁の声が届く。
昼に会ったばかりなのに、夜にも会えるのが楽しみで仕方なかった。どうしてこんなに会いたいと思うのだろう、と新は不思議に思う。
焦るように鼓動が速くなるのを抑えながら、従者に開かれたドアの間を恐る恐る通り抜ける。
部屋に入った瞬間、その豪華さに足元がすくんだ。
天井には、勇仁が勇ましく戦いの先陣を切る絵がぎっしりと描かれている。壁面は真紅一色だが、複雑な模様が銀色で細やかに描かれ輝いていた。上から垂れ下がるシャンデリアも同じく銀で、鏡のように磨き上げられている。ここで今から舞踏会を開けと言われてもすぐにできてしまいそうなほど広かった。部屋の中央には大きなベッドが一つあり、天蓋からベッドシーツまで、全てが壁面と同じ真紅だった。
勇仁は純白のネグリジェを着て、暖炉の前で本を読んでいた。
ネグリジェというと可憐な女性が着るものというイメージだったが、勇仁が着ていると、逞しい身体に沿って柔らかな布が流れ落ちていくさまが、目の毒だった。凝視しては失礼だとは思うものの、珍しい姿を目に焼きつけておきたくてついチラチラと見てしまう。勇仁は新の挙動不審な様子は気にも留めていないようで、どっしりと構えている。
「お、王様、こんばんは。お招きいただきありがとうございます!」
「ああ、固くなるな。お前が『自分を大事にすること』を知るための訓練の一つだと思ってくれ」
「は、はいっ」
そういうことか、と新は内心頷いた。
勇仁と過ごす時間が楽しいと言ったから、勇仁は「自分を大事にすること」がよく分かっていない新のために、わざわざ時間を作ってくれたのだ。
(どうして王様は、俺にこんなに優しくしてくれるんだろう)
じんわりと胸が熱くなった。勇仁は新に雨のように絶え間なく優しさを注いでくれる。新の恩返しは到底追いつかない。
勇仁は暖炉の前の長椅子に新を座らせると、侍女には部屋の前で待つようにと命じる。侍女に早々と出ていかれて頼りない気持ちになりながらも、新は勇仁におずおずと本を差し出した。本はこの国の身分制度の成り立ちを記したもののようだったが、細かい部分はよく意味が分からなかった。
「こちらが、読みたかった本です。分からない部分には、リボンを挟んであります」
「ふむ」
勇仁と新は暖炉の前で向かい合うようにして座った。読めなかった部分にさしかかると勇仁に言葉の意味を教えてもらい、ワックス板にメモを取った。
「我が国は封建制度を取っており、臣下は武勲……」
「す、すみません王様、『ブクン』とは?」
「戦争で立てた功績のことだ。最近では、北方の領土を異民族から奪還した時に、戦場で良い功績を収めた貴族たちに土地を分け与えた」
「なるほど!」
そうしていくうちに、夜はだんだんと更けていく。
「王様、ご就寝のお時間です」
「ああ、もうそんな時間か」
従者に告げられ、勇仁が本から顔を上げる。
新がリボンで付箋をしていた部分は、まだ三分の二以上残っていた。しかし、勇仁の大切な時間を共有し、さらには分からない言葉の意味まで教えてもらえて、新はとても満たされていた。
「ありがとうございます、これでもっと王様のために頑張れます」
「お前に『自分を大事にせよ』と言うつもりだったのに、これではより仕事中毒を強めただけのような気がするな」
「い、いえ、そんなことは」
勇仁は苦笑し、本を閉じて新に手渡す。
「リボンがまだあるな、また明日来るといい」
「よろしいのですか」
「遠慮するな。私もお前に話して聞かせるのは楽しかった。私のためと思って来なさい」
「ありがとうございます……!」
新は本を胸に抱き、膝に頭がつきそうなほど深く礼をした。
侍女に連れられ部屋を後にするも、新の心はなかなか勇仁の部屋から戻ってこなかった。
(明日も王様にお会いできる)
新は弾む心を抑えられなかった。今ならスキップでどこまでも跳ねていけそうな気さえする。
今晩の貴重な時間を忘れないように、新は記憶を何度も反芻して心に刻み込んだ。住処に戻り、寝床に入ってからもずっと、新は夢の中にいるようなふわふわとした心地だった。
翌日の晩も、新は勇仁の部屋に向かっていた。
片腕には、本ががっちりと抱かれている。早く着きすぎても失礼だとは思ったが、どうしても勇仁に会えるのが楽しみで、気が急いてしまう。
侍女とともに廊下の角を曲がろうとした瞬間、待ち構えていた男から、顔をめがけてばしゃりととてつもなく臭い液体がかけられた。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、自分の服にこびりついているものを見て、かけられたものの正体が分かった。
それは汚物だった。口にするのもおぞましい、誰かの糞尿が、新の頭から脚の先までびっちょりと濡らしていた。鼻に汚物の一部が入ってしまったようで、下水を煮詰めたようなひどい臭いがする。げほげほと新が激しく咳き込むと、遠くから女性たちのさざめくような笑い声がした。扉が開け放たれている部屋から顔を覗かせた女性と、目が合う。
「義昭様の姪の、薫子様です。公妾たちを取りまとめておられます」
新ほどではないが巻き添えを食らった侍女が、咳込みながら小声で教えてくれる。
笑いをこらえるように口元に手を添えている薫子の顔は、よく見えなかった。他の公妾たちも代わる代わる部屋から顔を見せ、そのたびに甲高い笑い声が廊下に響き渡った。
新は自分の身体を見下ろした。腕の中に大事に抱いていた本はどうにか被害を免れたが、このままではとてもではないが勇仁には会えない。
「王様に、今日はお会いできないとお伝えしてくれる? 本は綺麗だから、あなたが持っていてくれると助かる」
はい、と侍女が頷き、新をその場に置いたまま王様付きの従者のもとへ走る。新はほっとして、汚物の池の中にべちゃりと座り込んだ。「なんて汚い」「道化にお似合い」と遠くから楽しそうな声が聞こえたが、新は何も感じなかった。
公妾たちから敵意を向けられることは予想できていた。けれど、こんなにあからさまに悪意をぶつけられるとは。新法反対派の大臣や草太にされたことが、どれだけ生易しい嫌がらせだったのかがよく分かる。
とはいえ、自分が嫌な思いをするのは我慢できたが、勇仁との約束を守れなかったことだけが悔やまれた。
(せっかく、今日もお会いできると楽しみにしていたのに)
気分はすっかり落ち込んでいたが、どうせ侍女が帰って来るまで新は何もできない。少しでも臭いをマシにしようと髪や服の水気を絞っていると、遠くから軽やかに走る音が聞こえた。
楽しげに話していた女性たちの声が慌てたように去っていき、代わりに足音がどんどん近づいてくる。
「アラタ、大丈夫か」
「お、王様!? どうしてこちらに」
ネグリジェ姿で軽く息を切らしている勇仁を見て、新は焦った。
まさかこんなところを見られるなんて。勇仁に余計な心配をかけさせたくないのに。
勇仁は勢いを落とさずどんどん近づいてきて、新は悲鳴をあげた。
「それ以上近づくとお身体が汚れます! 汚物をかけられたんです!」
手を突っ張って、それ以上近づくなと言ったつもりだったのに、勇仁は顔を歪めると、勢いよく汚物の池の中に脚を突っ込み、新を横向きに抱き上げた。
「戦場ではもっとひどいものに塗れて過ごした。汚物程度どうということはない」
勇仁は成人男性一人を抱えているとは思えないほど軽やかな足取りで、どこかへ向かう。
「ひどいことをする者がいる。ここからなら私の部屋の浴室が一番近い。使いなさい」
新はこんなひどい状態で王様の浴室になど入れない、と言いたかったが、勇仁の足取りは風のように速い。あまりの速さに、新は舌を噛まないように口をつぐむしかなかった。
途中で秀と出くわし、「王様、神託が……」と何やら渋い顔で耳打ちされていたが、勇仁は「アラタは良いのだ」とだけ返して歩を進めた。
浴室は寝室の隣に据えられているらしく、まず勇仁が入った後、次に新が使わせてもらうことになった。勇仁は「汚れている者が先に使うべきだ」と言ってくれたが、新が頑として譲らなかったのだ。勇仁を汚物で汚れたままでいさせるなど、バチが当たりそうだ。
勇仁の湯浴みが終わったと言われ、新が入浴する番になる。
服を脱がされ、浴室に通される。新が五人は入っても手脚を伸ばせそうなほど大きな白いバスタブの周りに、温かな湯を桶に入れて持っている使用人たちがぐるりと立っていた。一人ひとりから次々と湯をかけられ、頭から手脚から、身体の隅々まで洗われる。
猛烈に臭かった頭はすぐにハーブの良い香りに変わり、普段から丁寧に洗っているつもりだった身体も一皮剥けたようにつるりとした肌触りになった。
(さすが王様の浴室……)
普段も部屋の浴室で身体は洗っているが、侍女が持ってきてくれる湯の量は少なく、身体を拭く程度しかできない。その点、勇仁の風呂は有り余るほど湯があって、とても贅沢だった。
風呂から上がると、一滴の雫さえ拭き逃さない勢いで身体を拭かれた。普段着ているリネンのパジャマを着せられ、勇仁の部屋へ通される。
「おお、見違えたな」
肩から暖かそうなローブを羽織っていた勇仁が、暖炉の前で読んでいた本から顔を上げる。新が持ってきた本だ。顔をほころばせられて、新はくすぐったい気持ちになった。
「ありがとうございます。とても気持ちよくて、天国にいるみたいでした」
「ははっ、私は風呂が好きでな。新も気に入ったのなら良かった」
勇仁の豊かな黒髪は、前髪の一筋だけ白髪になっている。まるで闇に差す一筋の光だ。暖炉の炎の光を浴びて、そこがキラキラと輝くのが美しかった。
暖炉の揺らめく炎を楽しげに見つめる勇仁に、新は不思議に思っていたことを尋ねた。
「王様、なぜ私の居場所がお分かりに? 王様からのお部屋からはかなり距離があったと思うのですが」
「ああ。アラタは私との約束の時間に遅れたことなどないだろう。おかしいと思って侍女に尋ねたのだ」
侍女は言い渋っていたようだが、勇仁が強引に新の居場所を聞き出したらしい。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
新が深々と頭を下げると、勇仁は新の肩に手を置き、「やめなさい」と厳しい声を出した。
「お前が謝る理由はない。私がお前を重宝するのを、気に食わない者がいるのだろう? 私の人徳の無さが引き起こしたことだ。お前には恥ずかしいところを見せたな」
「そんな! 王様は悪くありません。俺が悪……っくしゅ!」
勇仁に反論しようとして息を吸った瞬間、新は盛大にくしゃみをした。鼻水が垂れ、勇仁が思わずといったように吹き出す。
「湯冷めしたか」
「すみません!」
真剣な話をしていたのに、話の腰を折ってしまった。恥ずかしくて、慌てて侍女に布を借りて鼻をかむ。
「そうだ。良いことを思いついた」
勇仁はふと、悪戯を思いついた子どものような顔をした。
新の両脇に手を入れると、ひょいと持ち上げ、長椅子の端に寄せて座らせる。そして勇仁も同じく長椅子に座った。勇仁は大きいので、二人で座るとやや狭い。
なぜ勇仁専用のイスがあるのに、二人で座るのだろうと新が不思議に思っていると、勇仁は新を後ろから抱きしめるようにして、肩から羽織っているローブを新にも着せかけた。一枚の大きなローブを、二人で分け合っているような形になる。
「私はよく体温が高いと言われるのだ。私と一緒に包まれていれば、湯冷めしないで済むだろう」
「えっ、あのっ」
「ワックス板と鉄筆を持ってきなさい」
勇仁はそばに仕えていた従者に命じる。勇仁は早速器用に片腕で本を広げており、新は従者から文具を受け取るしかなくなった。
「アラタはいつも我慢しすぎる。我慢は美徳でもあるが、お前は他人の分まで背負おうとする。私は心配だ」
「す、すみません」
勇仁が真横でため息をつき、新は緊張で飛び上がりそうになる。
新の頭の斜め上には、勇仁の美しい顔がある。耳のすぐそばからは、美しい声もする。風呂からあがったばかりのせいで、彼からはかぐわしいラベンダーの香りが濃密に漂っていた。
それだけではない。新の骨っぽい二の腕には、勇仁の逞しい胸がぴったりとくっついている。
盛り上がった筋肉の弾力を腕に感じるたび、羨ましさと憧れがないまぜになって、新の胸はドキドキと高鳴る。新はどれだけ肉を食べても運動をしても、筋肉がつかないのだ。しかもこんな時に限って、かつてキスした際に勇仁の胸に縋ったことを思い出してしまう始末だ。羞恥で頭が爆発しそうだ。
こんなに勇仁に近づいたまま、冷静に勉強などできる気がしない、と新は耳の先まで真っ赤にしながら思った。
「商人は商業特権の代わりに王に賃金を納め……」
「王様、商業特権とはどういうものでしょうか?」
「そうだな。例えば、特定の地域で商業を営む権利や、外国人や農民と直接取引できる権利などがある」
「直接、取引できる、権利」
最初は、勇仁の香りに身体を丸ごと包まれる感覚にあたふたしていたが、しばらく経つとどうにか心を落ち着けて会話に集中することができた。でも、頬の赤みはなかなか引かない。会話の合間に、熱い頬を両手で扇いで冷やす。
しばらくともに本を読んでいると、従者が「王様、就寝のお時間です」と知らせに来た。
そろそろ帰らなくてはいけないか、と新が荷物をまとめようとすると、勇仁が新の二の腕をぐいと引き止めた。
「アラタ。──今朝、父に会いに行った」
これまでとは打って変わって、どこかおぼつかない、頼りない声だった。
勇仁はそう言ったきり、次の言葉を探しかねているようで、唇を噛み、黙っている。
新は自分の腕を掴んでいる勇仁の手に、そっと自分の手を重ねた。いつも温かいそれは、やけに冷えている。
「よろしければ、その先をお聞かせください」
「すごい剣幕だった。昔と少しも変わっていなくてな。『二度とお前の顔など見たくない』と、その場にあるありったけのものを投げつけられた」
ほら、とネグリジェの袖をまくって見せられ、新は悲鳴をあげそうになった。
陶器のように白くなめらかな勇仁の肌に、大きな切り傷の痕といくつもの青黒い内出血ができていたのだ。
「朝は深く切れていたが、もう治ってきた。割れた花瓶を投げられたのだ」
幼い頃は剣を突きつけられたこともあるから、今日はましな方だった、と勇仁はこともなげに言う。
新は泣きたくなった。親に会いに行っただけで、剣を突きつけられる子の気持ちはどんなものだろうか。勇仁が傷ついていることも、勇仁を傷つけているのが彼の愛する人だということも、悲しかった。
新はそっと勇仁の傷の上に手を置き、早く治るように、勇仁が痛くないようにと祈った。勇仁を見上げると、ばちりと至近距離で目が合う。
琥珀色の瞳は傷ついた色を帯びていて、新は心の中で彼を抱きしめながら言った。
「王様、よくぞ一歩を踏み出されましたね」
「ああ。これまでは父を見ても、怒りや憎しみが強かったが、今日は……ただ悲しかった。いつか、父と穏やかに話せる日が来るだろうか」
「来ます。必ず」
新は言葉に力を込めていった。必ずそんな未来が来る、と新は信じた。
勇仁ならそんな未来を引き寄せられる。そう信じているのが自分だけだったとしても、少なくとも自分は強く信じている。
新がぎゅっと勇仁の手を強く握ると、勇仁がやんわりと握り返してくれる。
「そうなるといい」
勇仁が、新に握られた手を額に当て、目をつぶる。
どんなきっかけでもいい、勇仁の父がどうか少しでも息子への愛を思い出してくれますように、と新は願った。
彫刻のように端正な勇仁の横顔を見つめながら、新はこの二日間、心の奥底に渦巻いていた不安を恐る恐るぶつける。
「王様、俺は怖いです。王様は『自分を大事にする』練習だと俺を呼んでくださいますが、『自分を大事にする』のは、自分勝手でわがままなことなのではないでしょうか? 俺なんかが、そんな大それたことを望んでも良いのでしょうか? 今この瞬間も、自分が悪いことをしているような気がしてしまいます」
勇仁は顔をあげると、新の目を覗き込んだ。
揺れる新の視線と、勇仁の視線が、深く絡まる。
「アラタは『自分を大事にする』練習で、私と一緒にいてどう思った?」
新は勇仁との時間を思い返し、溢れる思いのあまり、言葉が詰まるのを感じた。
「とても幸せで、言葉にできないほどでした。他でもない自分が必要とされていることに、胸がいっぱいになって……」
「私は、私を大事にするために、お前にそばにいてほしいと頼んだ。私が楽しい時間を過ごすために、お前が必要だったのだ。それを、お前は嬉しいと言う。自分を大事にしようと生きることで、誰かが救われたり、幸福になったりする。だから、自分を大事にして良いのだ。自分を大事にするのに、何の義務も必要ない。分かったか?」
勇気づけるように手を握られ、新は目の奥が熱くなるのを感じた。
自分など、人並みに何かを欲するに値しない、とずっと思ってきた。「お前の代わりなんていくらでもいる」と言われてきたし、無能だ、クズだ、と言われるたびに、その思いを強くしてきた。
けれど、新も、自分を大事にしていいのだ。自分のために生きていいのだ。
それを勇仁は許してくれる。勇仁がいいと言ってくれるなら、新は他の誰に何と言われようと怖くない、と思った。
「私のために、お前を大事にしてほしい。いいな?」
「王様のために?」
勇仁に熱っぽく言われ、新は首を傾げた。
「ああ、私のためだ。新法案の相談役としてだけではなく、私にはお前が必要だ。お前にずっとそばにいてほしいのだ」
まるで告白のような甘い言葉に、新は心の限界を越えて倒れそうになった。
勘違いしてはいけないと思う。けれど、それ以上に、勇仁に求められることが嬉しくてたまらなかった。こんなに幸せで、いいのだろうか。
「ありがとうございます、俺なんかでよろしければ」
「『なんか』は今日から禁止だ。私はお前がいいのだ。胸を張れ」
人差し指で額を突かれ、新はもじもじと身体を揺らした。
「あの、王様、本の続きですが」
「ああ、また明日も同じ時間に来るといい」
ぱっと新が顔を明るくすると、勇仁は大輪の花が咲きほころぶように笑った。
「ありがとうございます! 今晩は、これでお暇させていただきます」
「今日は騒ぎがあって疲れたろう。ゆっくり休め」
侍女に肩を貸してもらいながら、新は何度も礼をして退室した。
(俺が、必要だって……ずっとそばにいてほしいだって……)
新は嬉しさのあまり、目が潤んでくるのを感じた。
誰かにこんなに優しくされたことも、求められたこともない。勇仁はこれからの人生で一体いくつ、自分に「生まれて初めて」をくれるのだろうと思った。
住処に戻ると、また草太がベッドを占領している。熾火が燃える暖炉の前にごろりと横になると、新は飽きるほど勇仁の言葉を反芻しながら、目を閉じた。
──タ、アラタ。
「王様?」
新は勇仁の部屋にいた。
二人は暖炉の前で同じ長椅子に腰掛けている。すぐ隣から名前を呼ばれ、新は勇仁の顔を見上げた。
何度見ても新鮮に、「美しい」と思う。琥珀色の瞳が磨き上げたばかりの宝石のように、暖炉の炎を反射して輝いている。軽くかきあげた長めの前髪は、熱風を受けてそよいでいる。
ネグリジェをまとった彼の身体から濃いラベンダーの香りが漂い、入浴後だと分かった。
──お前にずっとそばにいてほしい、私のそばに。
「王様、ずっとおそばにいます。王様がもう俺を必要ないとおっしゃるまで」
勇仁の手が新の頬に添えられる。
新はうっとりと勇仁の手に頬を擦り寄せた。
鋭い剣を握る、雄々しき戦士の手。そして、この国を平和に治めようとする優しき治世者の手だ。分厚い剣とペンのたこが、柔らかな新の頬にごつごつと当たる。
──アラタ、お前を愛している。
「お、王様」
愛していると言われて、新の心臓は痛いほど跳ねた。
勇仁に自分など、身分違いもいいところだ。自分なんかと言いかけた唇は、勇仁のもので塞がれた。新の思考は霧散していく。
勇仁の熱い舌が、新の舌に巻きつけられる。舌の裏や口の天井を探られて、新はびくびくと身体を跳ねさせた。どちらも特に敏感なところで、舌先で少し触れられただけでぴんと勃ち上がった花芯が痺れたようになる。
「王様……」
──アラタ、アラタ……。
いつの間にか、新は勇仁のベッドの上にいた。勇仁は新を押し倒し、切羽詰まったように何度も囁きながら、新の身体をまさぐる。服の下に勇仁の大きな手が差し込まれ、腰から胸へ、脚へと這っていく。
熱い手が自分の身体を征服していく感覚は、たまらなく心地よかった。勇仁に全てを触られたい、暴かれたい、と思う。
勇仁の下半身が尻に擦りつけられ、新は身体が一気に火照るのを感じた。勇仁の雄芯は焼いた鉄のように熱くなっていて、新の中に挿入らなければ収まりそうもなかった。
「勇仁様」
自然と、勇仁を名前で呼んだ。その響きがあまりにもしっくりきて、自分がどれだけ勇仁を名前で呼びたかったのかを知った。
乞うように何度も名前を呼び、太い首に縋りつく。挿入れてほしいと尻の谷間に彼の雄芯を擦りつけ、いよいよその先端がぬぷりと新の後孔に潜り込もうとした時──。
はっ、と目が覚めた。
窓から差し込む朝日が、新の寝顔を照らしていた。草太はまだ高いいびきをかいて熟睡している。
嫌な予感がして恐る恐るズボンの前をくつろげると、思っていた通りの惨状がそこにはあった。
(夢精なんて、久々にした)
洗い物は侍女に任せなければならず、新は恥ずかしい思いをした。
会社員時代も、激務のあまり自己処理できず夢精することはあったが、この世界に来てからは初めての経験だ。
(それにしたって、王様となんて……!)
あまりにもバチ当たりな相手に、新は穴があったら入りたい気持ちだった。
夢の中で新は、何度も勇仁の名前を呼び、射精していた。その快感をぼうっと反芻してしまい、慌ててかき消す。
勇仁の夢を見るのは、初めてのことではない。勇仁に褒められて嬉しかった日に彼が夢に出てきてくれたり、そういうことはこれまでにもあった。けれど、こんなにもはっきりとした、しかも淫夢を見るのは初めてだ。
(きっと、王様が昨日あんな嬉しいことを言ってくださったからだ)
新は昨日ぶりに、また勇仁の言葉を反芻した。
──私にはお前が必要だ。お前にずっとそばにいてほしいのだ。
何度思い出しても、心が湧き立つ。臣下として、これ以上ない言葉をもらったと思う。
けれど、頭のどこかで「違う」と叫ぶ声がした。お前は王様を尊敬する為政者としてではなく別の目でも見ているだろう、そうでなければあんな夢を見るはずがない、と。
図書館で本を開きながらも、目は文字の上を滑っていく。ああもう、と新は頭を掻きむしり、本を前に突っ伏した。
そうだ、そのとおりだ。新は、勇仁と身も心も一つになりたいと思っている。勇仁を、愛している。
勇仁は、生まれて初めて、新を信じて、頼って、守ってくれた唯一の人だ。彼を好きな気持ちはただの憧れや尊敬で出来ていると思っていたけれど、違った。新はもっと強く、深く、一心に、勇仁に求められたいのだ。
これまでの新ならば、勇仁への恋心など失礼すぎると心の奥底にしまい込んだだろう。けれど、今の新は違った。
勇仁は、自分なんかと卑下するな、自分のために生きろ、と言ってくれた。だから、新は勇仁への恋心を否定しない。心の中はいろいろな思いが駆け巡って嵐のようだったが、新は生まれたばかりの恋心をそっと両手で覆い守った。この初恋は、自分の宝物だ。これまで誰にも愛されず、愛したこともない自分の、初めて抱いた尊い気持ちだ。
(俺は、勇仁様を、愛してる)
そっとつぶやくと、心の奥から湯が湧き出てくるようにじんわりと温かい気持ちになる。誰かを愛するということはこんなに幸せなものなのかと、新は初めての感覚にどぎまぎした。
けれど同時に、この恋にあまり期待はしないように、と自分を戒める。
相手は王様だ。自分と常識がまるで違う。それに、今は異世界から来た新を珍しがって重用してくれているだけかもしれない。いつか愛想をつかされて、城から追い出されるかもしれない。
でも、と新は思う。遠い未来のことは一旦脇に置いておこう。勇仁が「アラタ」と呼んでくれる時の優しい声、自分だけに向けられるまなざし、それを思い出し噛みしめるくらいはいいよね、と、早い鼓動を刻む心臓の上に手を置き、密かに思った。
その晩も、勇仁と新は本を読んだ。
昨日とは違って別々のイスに座っていたが、イスの距離はいつもより近かった。
勇仁に「今日は冷えていないか」と頬を撫でられ、新は羞恥のあまり悲鳴をあげそうになった。勇仁の触れ方は彼自身と同じようにとても優しくて、まるで愛撫されているような気持ちになる。うっかり下半身が反応してしまいそうになるのをこらえるのに必死だった。
その次の晩は、楽師たちの演奏を一緒に聴いた。
音楽の良し悪しは新にはよく分からなかったが、きっと素晴らしい音色なのだろう。新は、目をつぶり音楽を堪能する勇仁の横顔を、飽きるほど見つめた。良い時間だった。
初めて寝室に呼ばれた日から、新は毎晩彼の寝室に呼ばれるようになっていた。
汚物をかけられて以来、公妾たちの嫌がらせは鳴りを潜めている。侍女曰く、勇仁が薫子に「アラタに害をなすものがいれば、私が直々に罰を下す」と釘を差したとか、そんな噂が流れているらしい。
(特別大切にされている、と勘違いしてしまう)
新は侍女からそう聞きながら、舞い上がる気持ちを抑えられなかった。
新を守るために、勇仁はわざわざ動いてくれた、のかもしれない。噂だから本気にしないように、と自分に言い聞かせた。けれど、緩む口元は隠せなかった。
勇仁の寝室に呼ばれるようになってしばらく経ったある日、新は勇仁から、薫子が主催する、歌を披露する宴会、通称「歌会」が近く開かれると知らされた。
「薫子の侍女が結婚するのを祝すためらしい。お前も呼ばれるだろう。歌は好きか?」
「私は下手ですが、聴くのは好きです」
「そうか。鳥人は皆、歌が好きなのだ。見目よりも歌声の美しい者ほど、異性から好かれる」
そういうものなのか、と新は頷いた。
ふと、勇仁は歌うのだろうか、と思った。新が今まで会った中でずば抜けて美しい声を持つ勇仁が歌えば、女性たちは骨抜きになること必至だろう。聴いてみたいような、誰にも聴かせたくないような複雑な気持ちになって、新は、恋心はままならない、と気恥ずかしく思った。
歌会当日、新は勇仁に命じられて作っていた一張羅を着て、会場へ向かった。
新の持っている服は、道化師の服と普段の服の二、三着に加えて、この一着しかない。勇仁から給金はたっぷりもらっているのだから使えばいいものを、染み付いた貧乏性が邪魔をしてなかなか使えなかった。しかし、彼お抱えの法学者として、人前に出ても恥ずかしくないものを作ったつもりだ。
袖はふっくらと大きく手首は絞られている黒の上着に、同色の膝丈のパンツ、白のソックスに黒の革靴を合わせた。上下ともに身体の脇には白のラインが入っているのがお気に入りだ。
黒々とした髪に一筋の白髪は、勇仁のトレードマークだ。それをイメージして作ってもらった。袖を通すだけで胸がときめく、素晴らしい一着だ。
侍女に連れられて会場へ行くと、王宮で最も大きいホールが人で埋め尽くされていた。すでに若い男女たちがホール内で合唱している。人々は好き勝手に話しこんでいて、まるで音の洪水だった。
勇仁はどこかと首を伸ばして見回すと、ホールの一番奥の壇上に座って、列をなす貴族たちから挨拶を受けていた。
自分より一回りも二回りも大きい周囲の人々をかき分けつつ、新は壁際の空いていた席に座り、ほっと息をついた。
侍女に頼んで食事を持ってきてもらう間、新は周囲の人混みを見回してただただ圧倒されていた。皆、ここぞとばかりに着飾って、自分の歌う番を待っているようだった。
合唱が終わると、貴族のご子息・ご息女らしい者たちが、次々に歌う。
誰もが「どこの息子さんは低音がイマイチ」だとか「どこの娘さんは高音が耳障り」だとか、小声で噂話をしている。歌の教養のない新には、誰の歌声もそれなりに美しく聴こえる。新の周囲の人々は、新を見てまたひそひそと何かを話している風だったが、新は豪勢な食事を味わうことに集中した。
次々と歌い手が代わり、そろそろ宴も終盤か、という頃だった。
赤茶色のうねった髪にたくさんの宝石飾りをつけた女性が、銀色に輝くチュニックを翻し、ホールの中央に進み出た。
侍女が「あの方が薫子様です」と耳打ちして教えてくれる。
あれが、と新は薫子をしっかりと見た。つり上がった意地悪そうな冷たい黄色の瞳は、叔父そっくりだ。薫子は優雅に勇仁に礼をすると、高い声で言い渡した。
「皆の者、このたびは私の侍女の結婚祝いに集まってくれて嬉しく思う。多くの者たちの美声に、誰もが酔いしれたであろう。さて、ここで一つ出し物を見せたい。ここ数ヶ月、王様のご寵愛を一身に受けておる者がおる。皆、存じておるな?」
場がざわざわと不穏な雰囲気に満ちる。
新は嫌な予感がした。
「そう! アラタ! お前の歌がどれほどのものか、皆が気になっておった。ここで今、腕前を見せるが良い」
周囲の視線が、ざっと新に集中した。
最悪だ。
手脚の指先から血の気が引いていく。色とりどりの瞳が、新を値踏みするように見ている。まさか、自分が歌を歌えと指名されるとは、思ってもみなかった。
新は勇仁お抱えの法学者というだけで、貴族でも何でもない。ならば、地位の高い薫子の命令に、従うしかない。
新は侍女に肩を貸してもらい、薫子が仁王立ちしているホールの中央までよろよろと進み出た。
「さあ、好きなだけ歌え」
薫子は親しげに新の肩に触れて、自分の席に戻っていった。上品に席に腰掛け、にんまりと笑いながら新を見ている。
新が横目で勇仁を見ると、勇仁は心配そうに新を見つめていた。
勇仁がここで新を庇えば、また彼に負担をかけさせることになる。それは嫌だった。ここはどうにか切り抜けてみせる、と新は腹を決め、すうと息を吸った。
──孤独の中 怯えていた 僕はずっと一人だと 誰にも愛されないと
でも 闇の底 手を差し伸べてくれたのは あなた
誰よりも強い光で 誰よりも強い力で 僕を抱き上げてくれた
僕には眩しすぎるけれど 誰よりもあなたを想っている
この命尽きるまで
元の世界で、新が好きだった流行りの歌だった。いつも街中で流れていて、記憶に残っていたのだ。
それに、歌詞がまるで自分の勇仁への想いそのままだったから、歌うならこの歌がいいと思った。下手でも、勇仁に聴いてもらうならこの歌がいい。誰にも分からなくても、新だけが歌に乗せた想いを分かっていればいいのだ。
ぶっ、と薫子の侍女が吹き出した。それをきっかけに、集まっていた貴族が腹を抱えて大声で笑い始めた。
「なんてひどい歌声!」
「勇仁様のご寵愛を受けているなんて、嘘じゃないかしら。だってあんな……ねえ?」
「無様だな、まったく聴けたものじゃない」
誰もが口々にそう言って、笑い転げた。
草太に「お前は音痴だ」と渋い顔をされて以来、歌には自信が持てなかったが、目の前の貴族たちの反応を見て、自分の歌はそれほどひどいのだと、新は真っ赤になった。
薫子は手で口元を押さえて、勇仁を横目でちらちらと見ながら笑いを噛み殺している。
周りを取り囲むようにして笑われて、新は自分の足元をじっと見つめることしかできない。勇仁の顔に泥を塗ってしまったことが申し訳なくて、顔を上げられなかった。
その時だった。
──闇の中でお前を見つけた 一人立ちすくむ背中が 自分と似ていた
誰の手も取って欲しくない 私の手を取れと 叫んだ
勇仁が壇上ですっくと立ち、歌っていた。
薫子が、薫子の侍女が、その場にいた全員の貴族たちが、驚き、勇仁を凝視していた。
新はなぜ勇仁が急に歌ったのか分からなかったが、その歌声の美しさに聞き惚れた。繊細ながらどっしりと力強く、まるで心細さに怯える新を奮い立たせるような美声だった。思わず背筋が伸びる。
歌詞が自分の歌ったものとどこか似ていて、新は不思議な気持ちになった。
「王様が……!」
「王様が歌われた!」
「返歌を歌われた!」
貴族たちがざわめいていたが、勇仁は新を見つめ、歌い続ける。
勇仁の真剣な瞳と、新の不安げな瞳が、絡まった。
──誰にも渡さぬと決めた もう何も怖くはない たとえ神さえも
お前に欲してほしい 私以外いらないと 私以外の何もいらないと
勇仁が歌い終えると、しん、と静けさがホールを包み込んだ。
それを破ったのは、薫子の金切り声だった。
「いやあああああ!!」
「薫子様!」
彼女は頭を両手で掻きむしり、高価そうな飾りを力いっぱい足元に叩きつけた。宝石が床で砕け散る。
「いや!! こんなの、いや!!」
「落ち着いてください薫子様!」
「お前達、薫子様を押さえろ!」
薫子の周りに使用人たちが集まり、取り乱す彼女を懸命に押さえる。しかし薫子は半狂乱になっており、誰の手もつけられない。
貴族たちは薫子の錯乱っぷりに動揺しているようで、そそくさと会場を後にする者、おろおろとその場で慌てふためく者など、さまざまだった。
新は貴族たちの波に飲み込まれかけたが、ぐいと誰かに腕を引っ張られた。
「王様!」
「しっ、この隙に逃げ出すぞ」
大柄な貴族たちに挟まれて窒息しそうになっていた新を抱きとめたのは、勇仁だった。勇仁は新をひょいと横抱きにすると、さっさとホールの奥へ向かった。ホールの奥には小部屋があり、そこを抜けると広い廊下に出る。いくつかの部屋を横切ると、勇仁の寝室に出た。
普段部屋の前にいる騎士も、並んでいる使用人も、今は歌会にかかりきりのようで誰もいなかった。がらんとした寝室は普段以上に広く見える。
寝室には大きな半円状のバルコニーがついており、中庭が見渡せる。空にはぽっかりと月が浮かんでいて、青白い月の光が中庭を明るく照らし出していた。
勇仁は新を抱いたままバルコニーの窓を開けると、新をそっとデッキチェアに座らせた。
さあ、と夜風が吹いて、二人の髪をなびかせる。
成人男性一人を担いで走ったというのに、勇仁の額には汗の一滴も浮かんでいない。
「災難だったな」
「まさか人前で歌わされるとは思わなかったです」
新が苦笑すると、勇仁も笑った。
「薫子は嫉妬深い。新に何も仕掛けてこないのが怪しいとは思っていたが、まさかな」
「あの、そういえば薫子様は、王様が歌われた後、どうしてあんなに怒って……?」
周囲の貴族たちは「王様が歌った」ことにひどく驚いていた。他の貴族だって歌っていたのに、王様が歌うのには何か意味があるのだろうか。
「新は、あの歌をどう感じた。私の歌を聴いたろう?」
勇仁は珍しく新の質問には答えず、質問を被せてきた。新は先ほど聴いたばかりの歌を反芻する。
──闇の中でお前を見つけた 一人立ちすくむ背中が 自分と似ていた
誰の手も取って欲しくない 私の手を取れと 叫んだ
誰にも渡さぬと決めた もう何も怖くはない たとえ神さえも
お前に欲してほしい 私以外いらないと 私以外の何もいらないと
「とても……一途な愛だと思いました。神様さえ怖くないと思うくらい誰かを求められるって、すごいことだと思います」
新が言うと、勇仁はしんと静かな瞳で新を見つめた。
新が言うと、勇仁はしんと静かな瞳で新を見つめた。
「王が返歌をするのは、王妃にだけだ」
「え?」
新は目を限界まで見開いた。
王妃にだけ?それは、一体、どういう意味なのか。
言葉の意味が、頭に入ってこない。
「あの歌は、私のお前への想いだ。私は、お前を愛している。伝説の白き鳥など要らない。お前さえいればいい」
勇仁は、座る新の前にひざまずいた。
怖いほど真剣な瞳だった。
「私に愛されるのは、怖いか?」
「いいえ……いいえ……!」
新は目の前で起こっていることが、夢なのか現実なのか分からなかった。こちらを見つめる勇仁の瞳から目をそらせず、ただ夢中で答える。
身体の中で感情がめちゃくちゃに暴れまわり、制御できない。勇仁は、本当に自分を愛しているのだろうか。その証を求めるように、新は勇仁に震える手を伸ばした。
勇仁は新の手を取ると、ぐいと自分の方に引きつけ、抱きしめた。
勇仁に抱きしめられるのは、二度目だ。広く逞しい胸に頬を押しつけられ、その力の強さに、新は夢ではないのだと痛感した。
今この瞬間をわずかでも見逃したくない、と見開いていた目から、ぼろりと涙がこぼれ落ちた。
勇仁が、新の顔を覗き込む。
「王様を、愛して、いいのですか」
戸惑いながら尋ねた言葉に、勇仁の力強い答えが返ってくる。
「私以外を愛するなど、許さない」
新の両目から、ぽろぽろと涙がこぼれていく。人は感極まると涙が自然に溢れるのだと、新はこの時初めて知った。
勇仁は新を上向かせると、頬を流れていく涙を唇で吸い取った。
「お前の涙の一滴さえ、私のものだ」
「俺の全ては、王様のものです。他の誰のものにもなりたくない」
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