第六話

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第六話

 初めて二人が一つになった夜から一ヶ月が経った頃だった。  勇仁と新は新法案の施行に向けて本格的に準備を進めており、いよいよ地域を限定して法を施行する日も間近だ。  手塩にかけた法がいよいよ施行されると思うとたまらなく嬉しく、新は一層仕事に身を入れた。しかしなぜか最近は身体の調子が悪く、仕事の後は倒れるように眠ることが多くなっていた。  不調の内容は、頭痛に吐き気、身体のだるさ……など、挙げればきりがない。 「アラタ、大丈夫か」  勇仁はまるで自分のことのように新を気にかけ、気が気でない様子だった。新は勇仁を元気づけるようにやっと微笑む。 「もしかしたら風邪かもしれません。ずっと張りつめていた気持ちが緩んだから」 「アラタが不調を訴え始めてからもう一週間は経つぞ。私の体液も摂取したのに、治らないのはおかしい」  そうなのだ。ほとんどの病気は勇仁の体液ですぐに治るはずなのに、なぜかこの風邪のような症状だけは一向に治る気配がない。医務部にもらった痛み止めや気つけの薬を飲んでも、やはり一向に良くならない。二人が顔を曇らせていると、ベッド横に控えていた侍女が恐る恐る口を挟んだ。 「王様、アラタ様、恐れながら申し上げます。……アラタ様はご懐妊なのではないでしょうか?」 「懐妊って、俺、妊娠してるってことですか?」  全くその可能性を考えていなかった新は、面食らった。  たしかに、純度の高い鳥人の雄は、相手が雄でも雌でも妊娠させられると以前聞いたのだった。それならば自分が妊娠してもおかしくない。新は初夜から毎晩のように勇仁と床を共にしてきたことを思い出し、一人赤面した。 「はい、王様の体液でも治らないということは、病気ではないのではないかと」 「早速、医務部に診せよう」  勇仁は侍女に命じて、医務部の者を連れてこさせた。  医務部の者は新の症状や最後にセックスした日などを新に事細かに聞くと、うやうやしく頭を下げて、告げた。 「王様、おめでとうございます。ご懐妊の可能性が高いです」 「本当か!」  勇仁は顔をぱっと明るくし、新の手を握った。 「純度の高い鳥人は妊娠しにくい、というのが定説ですが、純人間は非常に妊娠しやすいと文献で読んだことがございます。アラタ様は、王様の体液を摂取された、純度の高い鳥人でいらっしゃいますが、純人間でもあらせられます。そのため、王様との交合ですぐにご妊娠されたのかもしれません」 「アラタの腹の中に、私の子が……」  勇仁が、まっ平らな新の腹をそろりと撫でる。  ずっと続いていた頭痛も、吐き気も、身体のだるさも、全てが愛おしく感じてくるのだから不思議だ。自分の身体の中に別の命が宿っているかもしれないなんて、まるで夢のようだった。 「もう三週間ほどすれば本格的につわりが始まります。そうすればご懐妊は確実でございます」 「分かった。よく様子を見ておこう」  勇仁が頷くと、侍女と医務部の者は揃って部屋を出ていった。  勇仁はいつものように新を横抱きにすると、自分の寝室へ運んでいく。まるで壊れ物を置くように勇仁のベッドに寝かされ、新はくすぐったい気持ちになる。 「勇仁様、まだ子どもが出来たかは分かりませんよ。可能性が高いというだけですもの」  新がおかしげに言うと、勇仁は「そうだが」と口ごもった。 「お前はただでさえ華奢だから、もし懐妊していたとしたら私は本当に不安だ。お産は命がけだ。いつ何がきっかけで命を落とすか分からない」  新を抱きしめる勇仁の腕は、かすかに震えている。 「もしお前が子の命と引き換えに死んでしまったら、私はどうなるか分からない。憎んだ父と同じように、子を憎んでしまうかもしれない」  勇仁の顔を見上げると、彼の瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。幼少期からずっと「母殺し」と父に憎まれてきた勇仁。彼はどれほど辛かったろう。それでも、自分の子に同じことをしてしまうのではないかと恐れるほど、彼は自分を愛してくれているのだと、新は息苦しくなるほどの嬉しさを感じる。けれど、心配ない、と新は思った。 「大丈夫です。俺が死んでしまっても、勇仁様は絶対にお子を憎んだりしません。だって、俺がそう望まないから」 「アラタ」 「もし死んでも、俺は勇仁様とこの国のために新たな命を残せて幸せです。お子を俺の分身だと思って、愛してください。俺がそう願っていると言ったら、勇仁様は優しいからきっとその願いを守ってくださるでしょう?」  勇仁の瞳は、燭台の炎を受けてきらめいた。  不安に揺れる瞳の奥には、父から遠ざけられていた孤独な少年の面影がある。その少年を勇気づけるように、新は言葉を重ねた。 「でも、俺はきっと死にませんよ。これまでだって、何度死にかけても毎回生きのびてきました。しぶといんです、俺は」  新が右腕を持ち上げて貧弱な力こぶを作ると、勇仁は微笑んだ。 「そうだな。アラタは強い。どんな不可能な状況でも諦めない、不屈の男だと私が一番知っている」 「そうでしょう?」  おでこをくっつけ合い、二人は顔を見合わせて笑った。 「アラタを正式に王妃として迎え、婚儀を執り行いたい」  新に懐妊の可能性が発覚した翌日、勇仁は朝議でそう切り出した。  一瞬大臣たちはざわめいたが、一人の大臣が前に進み出た。 「王様、喜ばしいことでございます。アラタ様は、王様の窮地を救われた、伝説の『真白き鳥』。言い伝えの通り、『真白き鳥』と番うことはバーランドの繁栄が約束されたも同然でございます。心よりお祝い申し上げます」  しかし一方で、反対側に立っていた大臣が一歩進み出る。 「王様、アラタ様が正式に王妃様になられますこと、大変喜ばしく存じます。しかし、先王様へのご挨拶とご承諾を得て初めて、その後を議論できるのではないでしょうか」  ぐ、と勇仁は唇を噛み締める。 「そうだな、まず先王にアラタが王妃としてふさわしいか確認を取ろう。問題なければ婚儀を執り行う。いいな?」 「承知いたしました」  大臣たちが一斉に頭を下げ、勇仁は密かにため息をついた。 「お父様の離宮へ?」 「ああ、お前を正式な王妃とするにあたって、まず王妃として問題ないと父に認めてもらう必要があるのだ」  勇仁は憂鬱そうにため息をついた。新はベッドのヘッドボードに上半身をもたれかけさせながら、横に座る勇仁の片手を握った。  勇仁の手は冷たく、緊張しているのが分かった。 「私は不安だ。私だけならまだしも、身重のお前に何かあったらと思うと……。自分が父に何をするか分からない」 「勇仁様、俺は平気です。お父様に何を言われても、何をされても、俺は勇仁様に愛されていると知っています。それだけで、俺は誰よりも強くなれます」 「アラタ……」  勇仁は目を覆っていた片手を外すと、自分の手を握る新の手の上に重ねた。 「私は父からお前を全力で守る。怖いだろうが、どうか、父の離宮にともに行ってくれるか? 私の妻に、なってくれるか?」 「はい、喜んで」  新ははにかみ、頭を垂れる。勇仁は新に顔を上げさせると、優しいキスを贈った。  翌日、早速新は勇仁とともに先王のもとへ向かった。先王の離宮は王宮の東側にあり、先日新が行く予定だった南の離宮とほど近い。勇仁の母である王太后が海を眺めることを好んでいたため、先王は退位してからずっと、海の見える離宮にこもっているのだそうだ。  先王の離宮までは馬車で数時間はかかる。新は勇仁に先王がどんな人柄かを尋ねた。 「父は、昔から私に対しては非常に暴力的だった。ものを投げたり、剣を突きつけたりするのは当然で、私を一人異国に捨てて帰ろうとしたり、野犬に襲わせるようなこともあった。臣下に対しては、義昭が言っていたように、有力な貴族たちの言いなりになっている側面が強かった。母を失ってからの父は精彩を欠いていたからな」  新は言葉を失った。勇仁が孤独な幼少期を送ったことは知っていたが、先王の言動はおよそ人間の所業とは思えない。 「なんということを」 「ずっと辛かった。なぜ子は親を選べないのかと神を恨み続けていたが、アラタに『本当はお父様を愛したいと思われているのでは』と言われてからは、考えが変わった。父を憎み続けていたのは、きっと心のどこかで愛し返されたいと思っていたからだと気づいたのだ」  勇仁は隣に座る新の腰を引き寄せ、その頭に自分の頬を擦りつけた。 「父は母に対してだけ、とても愛情深い人だった。お前の存在は、父に母の存在を思い出させるかもしれない。そうなると、あの人の激しい憎しみが私だけでなくお前にまで飛び火する可能性がある。父に会う時は、自分の身を守ることだけ考えていてくれ。いいな?」  真剣な表情の勇仁に顔を覗き込まれ、新は力強く頷いた。  自分は勇仁に愛されている。だから、自分を守ることは勇仁を守ることにも繋がる。持てる力の限りを尽くして自分を守るのだ、と新は使命感を強めた。  二人静かに寄り添っていると、いつの間にか離宮に着いていた。馬車を降りると、王宮全体に緑が鬱蒼と生い茂っている。元は美しかったであろう白い壁の塔や廊下も、蔦や苔が好き放題に生えていて、雑然とした雰囲気だ。 「父は離宮に最低限しか人を入れたがらないのだ。だから荒れ果ててしまっている」  横に立つ勇仁が説明してくれる。たしかに離宮は人が住んでいるとは思えないほど恐ろしく静かだった。人や火の気配もなく、勇仁たちの乗ってきた馬車の音だけが、がらんどうとした王宮に響き渡る。 「父はいつも海が見える部屋にいる。従者に先触れを伝えさせて、父の機嫌を図ろう」  新は頷き、侍女に連れられて彼の後に続いた。  ひときわ大きく繊細な彫刻がほどこされた扉の前に着くと、先に先王と会ったらしい従者が困惑した様子で立っている。勇仁は眉をひそめ、従者に尋ねた。 「どうした、何かあったか」 「それが、『勇仁様がお会いしたいと仰っています』と申し上げても、『帰ってくれ』『一人にしてくれ』と仰られるばかりで」  勇仁は扉をじっと睨んだ。 「父上、勇仁でございます。本日は正式に王妃にしたい者を伴って参りました。どうかお目通り願います」  わん、と王宮じゅうに反響するような大声で、勇仁が扉に向かって吠えた。しかし、扉の向こうからは少しの物音もしない。勇仁の声は聞こえているはずだが、明らかに無視している様子だった。 「父上!」  勇仁が再度叫んだが、扉の奥からはうんともすんとも返って来ない。  勇仁は扉の取っ手に手をかけたが、内側から鍵がかかっているらしく、動かないようだった。  新は扉と勇仁を交互に見て、眉を下げた。 「勇仁様、出直しますか?」 「……たしかに、父が会いたくないのならば無理に扉を開けても意味はない。出直そう」  新は勇仁の後ろに続きながら何度も扉を振り返ったが、扉はぴくりとも動く気配はなかった。 「奇妙だ。普段ならば父は私が来たと聞くなり大声で怒鳴り散らすのだが」  勇仁は馬車に乗るなり、顔をしかめて腕を組んだ。 「今日はお加減でも悪かったのでしょうか」  うむ、と頷き、勇仁は黙ってしまった。新も、全く反応のない先王相手にどうしたものかと悩む。 「もしかしたら、父は正式な王妃になる承諾を与えないことで私に復讐しようとしているのかもしれない。私が父から母を奪ったように、自分も私から王妃を奪おうとしているのやも。もしそうならば、何度行っても無駄足だ」  馬車に乗り込みしばらく経った頃、勇仁がぽつりと言った。これまでの先王の言動を聞く限り、ありえない話ではない。 「俺がもし妊娠していたとしたら、俺が王妃でなければ、子どもは婚外子のような扱いになってしまいますよね。子どもが独り立ちするまでには、王妃と認めていただけたら良いのですが」 「出産では何が起きるか分からない以上すぐにでも婚儀を執り行いたかったが、それは難しそうだな。どうにかして父に話を聞いてもらわねば。これから足繁く離宮に通うことにしよう」  勇気づけるように勇仁に肩を抱かれ、新はくったりと彼の胸に身体を寄せる。  なんだか、ひどく疲れていた。早く王宮に帰りたい、と思ってから、新はもうすっかり自分の「帰る」場所が勇仁の住む王宮になっていることに気づいて、嬉しくなる。 「勇仁様と一緒なら、どんな困難もきっと乗り越えられます」 「ああ、アラタがいれば百万力だ」  ちゅ、と頭のてっぺんにキスを落とされて、新は勇仁を見上げた。王宮までのしばしの間、二人は唇を吸ったり手を握り合ったりと、じゃれあいながら過ごした。  それからは、宣言したとおり、勇仁と新は何度も先王の離宮に出向いては、新を正式な王妃として認めてほしいと嘆願した。新は体調を崩してともに行けないこともあったが、新がついて行こうと行くまいと、先王は頑として勇仁と会おうとしなかった。ただ「帰ってくれ」の一点張りだった。  勇仁も新も、先王が何を考えているのか分からず、途方に暮れた。  そんな中でも、新の腹の子はすくすくと大きくなり、翌年の青葉の美しい頃、新は勇仁の子を無事に出産した。  お産が終わると同時に勇仁が血相を変えて「新と子は無事か!」と確認しに来て、新は思わず笑ってしまった。子は玉のような男の子で、元気いっぱい泣いているのが愛らしかった。  産婆に抱かれた子の紅葉のように小さな手に、勇仁とともにそっと触れる。 「勇仁様に似た、優しく愛情深い子に育ちますように」 「アラタに似た、勇気ある忍耐強い子に育ちますように」  二人で目を閉じて願い、顔を見合わせて笑った。  子は「光」と名付けられた。勇仁と新、そしてこの国の希望の「光」となるような子に育つように、と、二人で願いを込めた。  育児は使用人に任せるものだと散々周囲から反対されたが、新は率先して光の世話をした。勇仁もそれに倣って、政務の合間に世話を手伝ってくれる。四苦八苦しながら布のおむつを取り替える勇仁は、手元にカメラがないのが悔やまれるほど愛おしかった。  そんな、出産を終えて一ヶ月ほど経った日の夜のことだった。  勇仁の部屋に置いた幼児用のベッドで光を寝かしつけていた新は、従者が告げた言葉に目を丸くした。 「なに? 父が会いたいと?」 「はい、『王子と王妃候補も連れて来るように』と仰せです」  びくり、と勇仁と新の肩が揺れた。 「なぜ光も連れていかねばならん。それにまだアラタは妊娠してすぐなのだ、休養が必要だというのに」 「申し訳ありません。先王様から預かったお言葉はそれだけでございます」  悔しげに勇仁が握りしめた手を、新の手が包む。 「アラタ、私はお前と光を連れて行きたくない。きっと父は私に復讐しようとしているのだ。私から新を奪い、自分と同じ目に遭わせようとしているに違いない。そうでなければ今の時機に連絡してくるのはおかしい」  訴えるように言う勇仁の声は、不安で震えていた。しかし、新は勇仁を勇気づけるようにはっきりと告げた。 「たしかになぜ今、とは思います。けれど、俺も勇仁様のお父様にお会いしたいです。もし今回のお誘いが罠だったとしても、その時は全力で逃げます。光のためにも、俺は王妃にならなくてはいけませんもの」  腹を決めている新の様子を見て、勇仁は動揺に揺らしていた瞳をすっと落ち着けた。 「そうだな、光のためにも、私達はすべきことをするだけだ。……覚悟を決めて、明日にでも行こう」 「はい」  ぐっすりと幼児用ベッドで眠る光を横目に、勇仁と新は二人で一つとでもいうように抱きしめあって眠った。  翌朝、使用人たちの手を借りながら、先王の離宮に向かう準備を整えた。  光は生まれて初めての外出ということで、不思議そうにあたりをきょろきょろと見回している。馬車に揺られている間は何度かぐずっていたが、新が乳を与えると満腹になったようで、ぐっすり眠っていた。勇仁は何度も新の手を不安げに握り、新も恐怖心を吹き飛ばすように力いっぱい握り返した。  離宮に着くと、鬱蒼と茂っていた蔦や苔が取り除かれていた。伸び放題だった木の枝も、美しく剪定してある。前に来た時は雑草で見えなかったが、王宮にはくちなしの木がいくつも植えられていたようで、甘やかながら上品な香りが中庭いっぱいに漂っている。いたるところで揺れるかすみ草もかわいらしく、まるで別の王宮のようだ。床も以前のように埃っぽくなく、掃除が行き届いていた。  どういう風の吹き回しだろうと新は不思議に思う。勇仁も違和感に動揺を隠せない様子だった。  光は侍女に預け、新は別の侍女とともに勇仁の後に続く。もし新に何かあった時でも、侍女には、光だけでも守って逃げるようにと頼んでおいた。  以前と同じ道を辿って、先王の部屋の前に着く。 「父上、勇仁です。本日は王妃候補と王子をともなって参りました。どうぞお目通り願います」  勇仁がよく通る声で扉に向かって言うと、内側から鍵の外れる音がした。従者が扉を開き、勇仁と新は顔を見合わせる。  いざ、戦場へ参る、といった心地だ。新は心を奮い立たせて、部屋に入った。  先王の部屋は勇仁の寝室と同じような作りになっていた。天井には色とりどりの絵の具で先王の活躍らしい様子が描かれており、壁面には細かい装飾がびっしりと彫り込まれている。先王はバルコニーにほど近いところに置かれたイスに座っており、首を回して勇仁の顔を見ると、「来たか」とだけ言った。  先王は、外見だけ見れば勇仁とそっくりだった。髪は前髪の一房が白髪で、それ以外の部分にもちらほらと白いものが見える。体格は勇仁より二回りは小さいが、深いしわの奥に鎮座する両目は、退位したとは思えないほど鋭かった。 「父上、こちらが私の王妃になるアラタです。横におりますのが、王子の光です」  勇仁は新たちを守るように立っていた身体をずらし、新と光を先王に見せる。 「初めてお目にかかります、先王様。アラタと申します。両脚が使えずこのような形でご挨拶申し上げますこと、大変恐縮に存じます。こちらの光は、一ヶ月ほど前に生まれたばかりでございます」  新が、肩を貸してくれている侍女とともに深々と礼をすると、先王はじろりと強い目を新と光に向けた。新はすくみ上がりそうになるが、どうにか踏ん張り、見つめ返した。  すると先王は唐突にイスから立ち上がり、新に向かって一直線に歩いてきた。  勇仁が身構え、新の前に立ちはだかろうとする。しかし、それよりも早く先王が新に手を伸ばした。 (殴られるのか!?)  新がぎゅっと身体を硬直させると、予想外の感触が手に伝わった。  先王の骨ばった手が、新の握りしめた手を包んでいた。 「息子を守ってくれて、ありがとう」  新はあっけにとられてぽかんとした顔をしてしまう。勇仁も先王の後ろで唖然とした顔をしている。誰も予想できなかった言葉だった。  これも何かの罠か、と、新はゆるみかけた表情筋を引き締め直した。  凛とした表情の新を見て、先王の握力が、ぐ、と強まった。 「これまで息子には、ひどい仕打ちをしてきた。そうすれば、愛する妻を失った悲しみが薄れるような気がしていたのだ。けれど、息子が暗殺されかけたと聞いて、妻を失った時と同じ苦しみを味わった」  先王の顔に刻まれたしわが、より一層深まった。 (これは、何の罠でもない。ただ、息子を苦しめてきたことへの懺悔だ)  新は先王を見つめながら思った。ぽつぽつと語られる先王の言葉は、長年の苦渋に満ちていた。  もう憎みたくない、愛したい、と思っていたのは、勇仁だけではなかったのだ。そう分かって、新は胸にこみ上げてくる熱い塊を感じた。 「これまで息子にした仕打ちを思うと、素直に謝れなかった。許されないことが分かっていたからだ。お前たちにどんな顔をすれば良いのか、分からなかった。けれど王子が生まれたと聞いて、もう自分はこの国の表舞台から退いた、たかが一老人なのだと、気負っていたものを下ろす覚悟ができた。やっと、お前たちに謝れると思ったのだ」  先王が、侍女の抱いた光を見る。光はすやすやと眠っていて、まるで天使のようにあどけない表情を見せていた。  勇仁は怒ったような、困ったような、不思議な表情のまま、唇を噛み締めていた。  先王は、新の隣にいた勇仁を見上げた。 「すまなかった、勇仁。謝っても許されないことをしてきた。けれど、この父はお前が王妃と王子とともに幸せになることを、心から祈っている」  勇仁の瞳から、一粒の大きな涙がこぼれ落ち、頬をすうと伝っていった。 「父上に愛されたいと、自分が生まれてよかったと認められたいと、ずっと願っていました。お言葉が嬉しいです。アラタと光とともに、バーランドをより良い国にしていくと誓います」  先王は新から手を離すと、恐る恐るといった風に勇仁を抱きしめた。勇仁は自分より小さな先王を抱きしめ返し、目をつぶっていた。 「王子を、抱いてもいいか」  先王は勇仁から身体を離すと、光を見て言った。勇仁が頷き、光を抱いた侍女が前に進み出る。 「あ、うー」  光はいつの間にか目を覚ましていて、自分の指をしゃぶっている。そっと侍女から光を受け取った先王は、じっと光を見つめ、そして、ほろほろと泣き始めた。 「私はどうして、最愛の人の忘れ形見をあれほど憎んでしまったのかと、心から後悔している。どうかこの子には何不自由なく、幸せに育ってほしい」  先王は侍女に光を戻すと、勇仁と新に向き直った。 「アラタ、お前を正式な王妃として認める。勇仁とともに、バーランドの繁栄と栄光に尽力してくれ」 「ありがとうございます。精一杯、王様とバーランドのために尽くします」  新が頭を下げると、先王がおごそかに頷いた。 「父上、王宮に遊びにいらしてください。私もアラタも光も、お待ちしております」 「ああ」  勇仁の言葉に、先王は嬉しげに微笑んだ。先王とは部屋で別れたが、扉が閉まる最後の瞬間まで、彼はずっと名残惜しげに新たちを見つめてくれていた。  馬車に乗り動き出すと、勇仁はぼうっと窓の外の流れる風景を見ていた。新が声をかけようとした時、彼が口を開いた。 「まさかあの父が謝る日が来るとは思わなかった」 「ひどく後悔していらっしゃいましたね」 「後悔などという言葉から、最も遠いところにいる人だと思っていた」  ふ、と笑い、勇仁は侍女に抱かれて眠っている光を見た。 「アラタが私のもとに来てから、さまざまなことが変わった。今でも信じられないほどだ」 「俺もです。死にかけて時代を越えてしまうなんて、思ってもみなかった」 「一人では越えられない壁をいくつも越えられた。アラタのおかげだ」 「勇仁様」  言葉にならない思いが、新の胸をいっぱいにする。  甘えるように勇仁の肩に頭をもたれかけさせると、優しく肩を抱かれた。寄り添い合う二人を乗せた馬車は、静かに王宮へと戻っていった。  先王に承諾をもらい、アラタは正式にバーランドの王妃となった。そして同時に新法施行と結婚式の準備に入った。  朝起きてすぐに新法案の会議に出席すると、仮で施行した地方での反響を確認し、改善点を指摘する。昼からは結婚式用の服や靴の採寸を行い、どの貴族を出席させるか名簿を確認する。その合間合間に光に乳をやり、おしめを換え……と、目の回るような日々だ。そんな生活が半年ほど続き、ようやく、新法施行および結婚式の日を迎えた。  式の当日、いつものように新は勇仁の部屋で起きたが、勇仁は早く目が覚めていたようで、起きた新に「おはよう」とキスをしてきた。 「おはようございます。勇仁様、起こしてしまいましたか?」  新も同じように勇仁にキスを返すと、勇仁は楽しげに口角を上げて答えた。 「いや、今日が待ち遠しくて目が冴えてしまったのだ。光も楽しみで起きたようだな」 「あうう」  幼児用のベッドから、むちむちした手がばたばたと宙を掴んでいるのが見えた。声から察するに、ご機嫌そうだ。今日は光も式に出席する。初めて見る大勢の人にびっくりするだろうな、と新は笑みがこみ上げてくるのを感じた。 「今日はバーランドにとって大きな転機の日になりますね」 「ああ、新法の施行は私の長年の夢だった。それに、アラタとの結婚もだ。二つの大きな夢が叶う日になる。素晴らしい日だ」 「勇仁様が嬉しいと、俺も嬉しいです」  二人はしばらくじゃれあうと、使用人を呼んで着替えさせた。  今日の新と勇仁の服は、全てお揃いのデザインだ。  上着とパンツは、勇仁は艶めいた黒に金の刺繍、新は張りのある白に銀の刺繍が入っており、対照的な色合いだ。細部に至るまで贅を尽くした作りになっており、ボタンの一つ一つには、それぞれをイメージした宝石が埋め込まれている。勇仁は琥珀色、新は鳩羽色だ。上着の下に着るブラウスのレースには、大鷲と鳩がさまざまな角度で寄り添い合う模様が描かれている。  マントには、勇仁は大鷲が羽を広げた模様、新は鳩が羽を広げた模様が丁寧に刺繍されており、まさに今日のために作られた特注品だった。  光も二人に負けじとおめかししている。フリルとリボンがたくさんついた、秋の空のようにすっきりとした水色の、かわいらしい幼児服を着せられていた。  新が着替え終えると、先に着替え終わっていた勇仁がすぐさま新を横抱きにした。  新はぐずる光を抱いていたので、勇仁は光と新の二人を抱き上げた形になる。 「わ、ゆ、勇仁様」 「我が王妃と王子の愛らしい姿を、民たちにも見せよう!」  光は勇仁に抱かれるのが好きなようで、先ほどまでぐずっていたのが嘘のようにきゃっきゃと機嫌よく手を開いたり握ったりしている。  勇仁は待ちきれないという風に大股でバルコニーに繋がる窓へ向かうと、使用人たちに、バン、と大きく開けさせた。 「王様! 王様!」 「『真白き鳥』の王妃様だ!」 「王子様もいらっしゃるぞ!」  わああ、と大歓声が中庭から、城の外から、地鳴りのように聞こえてくる。びりびり、とバルコニーが揺れ、新は人々の熱狂に驚いた。  中庭には招待した五千人を超える貴族たちが詰めかけており、城の外にも新たちを一目見ようと平民たちが押し寄せている。  バルコニーに出た勇仁は、新を抱いたまま、すう、と大きく息を吸い込むと、叫んだ。 「我が国民たちよ! 今日をもってバーランドは新たに生まれ変わる! 王妃アラタ、王子光とともにバーランドに永遠の繁栄を約束しよう!」 「王様万歳! 王妃様万歳! 王子様万歳!」  歓声とともに、人々が口々に万歳と唱和した。  新と光は、勇仁に抱かれながら、貴族や平民たちに手を振った。壮観だ。これまでもこれからも、こんな景色を見ることはもうめったに無いだろう。まるで現実味がなくて、新はぼうっと集まった人々を見つめた。 「アラタ」  勇仁に呼ばれて、新は勇仁を見上げた。  勇仁は嬉しそうに、でも、怖いくらいに真剣な表情を顔をしていた。 「お前を愛している。私の愛は、お前そのものだ」 「勇仁様、俺も愛しています。俺の愛は、永遠に勇仁様のもとにあります」  勇仁の言葉に、新の胸が喜びで痛いほど締めつけられる。勇仁に愛されている。その事実が身体の細胞一つ一つに染み渡るようで、そこらじゅうを駆け回りたくなるほど幸せだった。  吸い寄せられるように、二人は唇を重ねた。  初めて気持ちを確かめ合いキスをしたバルコニーで、今度は、永遠の愛を誓うキスをする。顔を傾け、互いの柔らかな舌を絡めあい、味わう。優しいキスだった。  キスの後、二人が余韻に浸りながら見つめ合っていると、嵐のような拍手の音が二人を包んだ。中庭に咲いたさざんかの花びらが、紙吹雪のように舞い上がり空を舞っていく。 (幸せだ)  逞しい腕に抱かれ、腕の中の小さな命を抱きしめて、新は噛み締めるように思った。  ずっと、「お前の代わりなんていくらでもいる」と言われ、無能だ、クズだと馬鹿にされてきた。けれど、勇仁ただ一人が、新でなければダメなのだと言って、新を信じ、いつでも新の味方でいてくれた。そして、心も身体も深く愛してくれた。  誰かに恋するなんて分不相応だと小さくなっていた自分は、もういない。人並みの人生を送れるなんて思うなと自分を叱りつけていたのも、遠い過去だ。自分を愛さない自分は、勇仁に助けられ、脱ぎ捨ててきた。  光の笑い声、温かな勇仁の腕、溢れる幸福に包まれて、新の瞳から涙が一筋、きらりとこぼれ落ちた。  新はもう一人ぼっちではない。これからは、勇仁と、彼との愛の証である光と三人で生きていけるのだ。  誰かを愛し、愛されたいという新の一世一代の夢は、今叶った。今日はきっと、生涯忘れられない日になるだろう。  民が待ち焦がれた新法の施行と王の結婚式が同時に行われたこの日は、バーランドの国史にひときわ華やかに刻まれた。  そして、王・勇仁と伝説の白き鳥の王妃・アラタは、バーランドの歴史上初めて累進課税制度を取り入れた稀代の賢王と王妃として名を残すこととなった。
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