キミノネ

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「先輩、お待たせしました」  朝早くから多くの人手賑わう駅前に姿を見せた矢竹彩萌(あやめ)は礼儀正しくペコリと頭を下げた。薄い桜色のワンピースが春風に微かにたなびく。私服ではあるんだろうけど、オフィスに着て来てもそんなに違和感のないキッチリとした感じ。職場では「雪の女」なんて呼ばれることもある後輩がどんな服装で来るか楽しみだったけど、彩萌らしい格好だった。 「いや、時間通りだ。じゃ、行くか」  行き交う人々を縫うように桜の名所と呼ばれる公園へと歩き出すと、彩萌は隣から半歩程下がったところをついてくる。すっと前を見据えるその様子はなんだか秘書のようにも見える。いや、三十手前の俺には本当に秘書がいたことなんてないんだけれど。 「おおっ、こりゃ凄いな」  公園に入るや否や、視界を桃色の風が吹き抜けている。公園中に植えられた桜が一斉に咲き誇り、まるでオペラ色の海の合間を人が川となって行き交っているようだった。桜の名所なんて久しく来ていなかったから、その光景に圧倒される。  とはいえ、いつまでもそのまま突っ立ってるわけにもいかないので、人の流れに沿うように公園の中の方へと進んでいく。早朝にもかかわらず人が多いので心配だったが、公園の中程まで進むとまだ少し場所が残っていた。持ってきたシートを手早く広げて一息つく。  シートの真ん中に腰を下ろしてみると、より一層宙を舞う桜の花びらが空に広がって見える。この光景が見られただけでも早朝から来た甲斐があった。 「これが仕事の関係じゃなければ、もっと最高だったんだけどなあ」  残念ながら、今日は職場の後輩と楽しい花見に来たわけではない。取引先のお偉い方々がこの名所で花見を――早朝の場所取りという手間をかける事無く――したいということで、彼らの為に場所取りを引き受けた。殆ど接待みたいなものだ。 「それなら何で引き受けたんですか? もっと若い人に任せてもよかったですよね」  隣にちょこんと座った彩萌は殆ど表情を変えないまま尋ねてくる。確かに、今日の仕事は先方をこの場所まで案内する役目を覗けば、早く起きて場所を確保するのと、ここまで重い弁当を運んでくるという単純な体力勝負だった。一年目の新入社員でも問題なくできる仕事ではあるけれど。 「まあ、休みの日はみんなやりたいことあるだろ」 「先輩だって休日じゃないですか」 「俺はいいんだよ。彼女もいないし、休みの日も特にやることないし」 「ワーカーホリックですか」 「そこまでじゃねえよ。というか」  彩萌は3個下の後輩で、彩萌からすれば俺は3人目の上司にあたる。俺の部署に配属された経緯は、上司部下の折り合いが悪いということだったから初めは心配だったけど、仕事ぶりはいたって真面目で優秀だった。ただ、人付き合いは控えめ――というか飲み会や職場のイベントで姿を見かけたことはない。まあ、そんなの別に個人の自由だと思うし、幸いというか俺の部署に来てからは何かトラブルが起こることもなく3年が経過した。 「こっちこそ、まさか彩萌が場所取りに参加するとは思わなかったさ」  今日の場所取りは基本的には立候補制で対応者を決めた。早朝から対応が必要で拘束時間も長い場所取りは誰も希望者がいなくて、俺が手を上げたところで彩萌が続いたから結構ビックリした。 「私じゃ嫌でしたか」 「そうは言ってねえよ。というか、普段接点のない相手よりはよほど良かったって思ってる」  昼頃に先方が訪れるまで、ひたすらここで場所取りだ。気をつかう相手だったら色々しんどかった。彩萌は表情が硬くて何考えているのかわからない時はあるけど、それも慣れっこだった。唯一あるとすれば、初めて見る私服に油断するとドキリとするくらいで――まあ、それも昼までには慣れるだろう。  そして、昼になれば適当に解散だ。 「私も」  彩萌は膝を抱えるようにして、目の前に広がる池を眺める。池の表面には空を裏返したように桃色の世界が映し出されていた。 「私も一緒の相手が先輩でよかったって思ってます」  その言葉と姿に一瞬ドキリとするが、別に言葉通りの意味だろう。  職場内での人付き合いが少ない彩萌が、他の誰かと二人きりで桜の場所取りをしている光景はいまいち思い浮かばなかった。 「休みの日まで一緒かよ、とか思われてなくてよかったよ」  何となく口をついた軽口だったけど、ふと視線を感じた。隣に座る彩萌が探るような目で俺の様子を伺っている。 「彩萌?」 「いえ、何でも」  ツンと一言発すると、彩萌はギュッと膝を抱えて視線を池の方へと戻した。
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