エピローグ

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エピローグ

 音が鳴っている、と気づいて、私は目を覚ました。  それがスマートフォンの鳴り散らすアラームだと理解するまでに二秒。  ベッドから思いきり手を伸ばして、床に脱ぎ捨てていたスキニーパンツのお尻ポケットから音源を回収。ようやく停止させた。  目を擦った後、深呼吸を挟み、上半身を起こす。  視界の端々に、不思議な光景が広がっていた。  私は静かに首を傾げて、記憶を辿る。  どうして記憶を辿らなければならないほどに呆けているのかといえば、珍しくお酒を飲んだからで。  どうして寝室が脱ぎ散らかした服だらけなのかといえば、昨晩のことが理由で。  どうして自分が裸なのかといえば、昨晩、先生と愛し合ったからで。  どうして先生が隣で眠っているのかといえば、先生は私の彼氏だからである。  寝起きで停滞していた思考が、鈍足に、しかし確実に、現実の速度へと追いついてくる。  ぼんやりと先生の寝顔を眺めていた私は、彼の額に触れて、その前髪を指先で梳く。  少しだけ、眉間に皺が寄る。  薄目を開けて、数度の瞬き。  彼の目が開く。  次いで、乾燥した喉から絞り出される低音の、おはよう、の挨拶。  私も同じような声で、おはようございます、と返した。  互いに笑み。  照れ隠しか、幸福の表れか、または、その両方だろう。  少なくとも私には、彼の動作その全てが心に響く。  魅了され、惹かれ、目を引き、胸を打つ。  心憎いほどに。まるで計算されているかのよう。  貴方の存在そのものが、私を心酔させて離さない。  どこまでも魅力的で、たまらなく愛おしい。  甘えを受け止めてくれる者がいなかった、これまでの人生とは格別で、別格。  異なる世界で、自分ではない者の人生を生きているかのような錯覚すら在る。  ベッドから下りて、部屋の端へと歩く。  少しだけカーテンを開けて、外を眺めた。  陽と青空を目にして、新しい光だ、という感想を抱く。  例えば、そう、物体を破壊する際に用いられる、応力条件のような自然さで。  当たり前の現象に着目できるだけの余裕。  こんなことを朝から考えていられる余裕。  これらは全て、先生と交際を始めてから得た、心の変化だった。  人間とは、これほどまでに単純で、定義すら簡略化して自らに落とし込み、変わっていける存在なのだと知った。  当然、習慣による要因が大きいとは思う。だからといって、わざわざ仲介して、修正する必要のある素養だとも思えない。  これこそが学びだ、と理解しているから。  理屈とは、常に少しだけズレているもの。  判断基準となる根拠は決して単純でなく、そこにはいつも複雑な計算が生じる。  それを言葉として変形させ、自分の外側へと排出するのだから、見出した瞬間の、判別したその時の、つまり元形ではあり得ない。どんな難解な理論も、それを発想することに比べれば容易で、優れた理論であるほどに、それはより顕著となる。  事象の始まりとは、すなわち意思の立ち上がり。  見つけ出し、そうしようと決意して、さあ実行しよう、と最初の息を吸ったその瞬間には、既に結果の大半が決まっている。  無論、思い通りにことが運ばない事例の方が多い。それでも、多少予想と違った結末であったとしても、何かしらの結果が現れて、得られる唯一が存在することに変わりはない。  そう、大半の場合、客観的な評価基準を用いれば、その差違は僅かであり、無用かつ無意味な結末に終わることは、ほぼ無いと断言してよい。 「何か、考えている?」  先生が聞いてくる。 「ええ、取り留めもないことを」  振り向きながら、私は応えた。 「とりあえず、こっちへおいで。裸のまま、窓の近くへ行くものじゃないよ」 「それは、本心からの気遣いですか? それとも、私への独占欲?」 「相変わらず、君は鋭いね」  先生は笑いながら、それでも手招きをしてみせる。 「先生は相変わらず、誤魔化すのが下手です」  言いながら、私はベッドへと戻り、先生に抱きつく。 「こればっかりは、うん、仕方がないことなんだ。コラテラルダメージというやつだね」 「それ、誤用ですよ」 「どうにか見逃してもらえないだろうか」 「できない相談ですね」  そんなくだらないやり取りの末に、私達は同時にふき出した。  相手の幸せが、自分のことのように感じられる。  驚くほど遠くまで、思考が到達する時がある。  それに似ている、と感じた。理由は分からない。理屈ではなく、本当に感覚的なものだった。  不思議だ。  そう、不思議とはおそらく、将来訪れるであろう理解への予感、その仮の姿なのだろう。  故に、こういう曖昧な瞬間にだけ、顔を覗かせるのだ。  寝室から出た私達は、二人同時に、さっとシャワーを浴びて、服を着て、淹れたばかりのコーヒーを飲んだ。正確には、猫舌の私は少しずつで、先生は普通に飲んでいた。 「立藤君、身体、大丈夫?」  コーヒーの入ったマグカップをテーブルに置きながら、先生は聞いてくれる。 「ええ、大丈夫です。ほんの少し、太ももが筋肉痛気味かな、といったくらいです」 「筋肉痛って、そんなすぐにくるものなんだね。僕は、おそらく、あと二日くらいしたら、くるかな、といったところなんだけど」 「反応に困ることを言わないでください。先生は、まだまだお若いでしょう?」  私は笑いながら応える。 「あとは、少し寝不足かもしれません。こういう日は、さすがに仕事が億劫に感じてしまいますね」 「そうだね。できれば、仕事なんてもの、しなくて済むなら、その方が良いからね。どれだけ努力したところで、どれだけ気を遣って、誰かの為に動いたところで、がっかりすることの方が多いし、統計的に鑑みれば、個人のアイデンティティを奪うだけの不毛な行いとしての結末を迎えることの方が多い。つまり仕事とは、時間の浪費だ」 「あら、思い切った表現をなさるのですね。さすがに驚きました」 「また、キャラクタを作っているね?」  上目遣いでこちらを見ながら、先生が指摘する。 「ええ、そうです。こんなことをしてしまうくらいには、驚きの発言でしたので」 「僕が夢中になっているのは研究であって、仕事ではないからね。研究は今後も続けていきたいし、やる気も大いにあるけれど、仕事と名の付くものは基本的には大嫌いなんだ」 「それは、ええ、理解できますし、共感もできます。私も正確にいえば、研究すること、研究を続けることに興味があるわけで、そのために大学に残っていますから」  私は頷き、肯定と同時に自らの意見も述べた。  仕事だけが人生の全て、というわけではない。それは理解している。ただ単に、先生もそんなふうに考えていたのだな、ということが意外だった。  何の為に働くのか、ではなく、働き続けるために何が必要なのか、を考えるべきなのだ。  頑張る動機、頑張ったその先、仕事という奉仕の先に何を見出しているのか、そこを鮮明にできたなら、漠然とした不安や、絶え間のない不満を、払拭して、行先で待つ希望へと昇華できる。  もがくはめになっても、それは悪ではない。決定的な間違いでもない。  自信ばかりがあるわけではない。誰だってそうだろう。それが普通のこと。  先生だって、迷うことはあるみたいだし、間違うこともある。知らないこともある。  だからこそ、微調整して、目的を再設定したりしながら、ゆっくりと進んでいくのだ。  どうしてそんな生き方をするのかといえば、自分がどのように生きたのか、その記録を、栄光を、筋道を、努力した姿を、誰かに見てもらいたい、という発想、つまりは、自分を認めて欲しい、という信号だと解釈できる。  自分と言葉を交わしてくれる者達とは、自分に触れてくれた者とは、はたして何者なのか?   自分が認められるとしたら、それはどのような場合なのか?  誰が、どうして、認めてくれるのか?  それを知りたいような、知りたくないような、曖昧かつ切実な未来に期待を抱いて、人は日々を送り、己が求める解と、他者からの理解を探り続けるのである。 「ねえ、先生。私、自分の人生が、今後もこのままで良いのではないかと、最近は特に、そう思うんです。背負ってきたものも、これから先に待つ課題も、全ては私自身のこと。些細な未解決の事柄もありますけど、悔い続けるような大袈裟なものは、一つもありません。私は、これまでの人生と、これから先生と共に歩む人生に、不安や不満はありません」 「理想的な精神状態だといえるね」  先生はさらりと受け留めてくれた。 「ええ、自分でも、そう思います」  私は頷き、そして問う。 「先生は、どうですか? 私と、これからを生きていくことに不満はありませんか? もしくは、不足とか」 「全くないね」  先生は即答しつつ、椅子から立ち上がり、テーブルを回り込んで、私の目の前に移動してくる。 「昨夜、僕が君に言ったこと、覚えている?」 「断片的には覚えています。すみません、私、酔うと完全に記憶を飛ばすタイプではないみたいですが、曖昧にはなってしまうみたいで……」 「愛してる」  私のどうでもいい説明を遮って、先生は答えをくれた。  私は朝からとっても嬉しくなって、本当に嬉しくなってしまって、たまらず先生に抱きついて、キスをした。そろそろ馴染んできた、コーヒーの味がした。  私が日焼け止めを塗り終えて、忘れ物を確認した後、玄関へと向かうと、先生は扉を少しだけ開けて、外の様子を伺っていた。 「どうですか? いけそうですか?」  その恰好と絵面が可笑しくて、ふき出すのを、どうにか堪えつつ、私は聞いた。 「問題なさそうだ。マンションに面した道路も、ここから見える範囲の大学付近も、閑散としている」  視線をチラとこちらへ向けながら、真面目な顔でそんなことを言う先生が可愛くて、とっても可笑しくて、たまらず笑ってしまった。 「この、周囲の目、という問題だけ、どうにもネックですね」 「そうだね。僕も、この点が問題となるのは予想していなかった。君に教えてもらってようやく、リスクとして認識したくらいだ」  玄関で靴を履きながら、私達は会話を続ける。 「まあ、でも、私も先生もSNSはやっていませんし、テレビも観ませんし、私から、炎上の可能性や、大学へのクレームを想定した忠告をさせていただいた手前、大変恐縮なのですけれど、言ってしまえば、他人からの指摘や批判、下世話な詮索なんて、無関係ですよね。そもそも炎上って、何なんでしょうね? どこが燃えているのでしょうか。ネット上での大騒ぎよりも、例えば物理的な火災の方が、よっぽど危険ですし、直接的な被害を受けるリスクがあります。警戒するなら、そちらの方が優先されるべきです。そう思いません?」 「リスクという面で比較すると、確かに物理的なダメージの差異は認められる。多少、大袈裟な比喩、やりすぎな誇張だと評価することができるだろうね。しかし、社会的制裁や、人権への侵害、自由を拘束される可能性、という部分でいえば、やはり避けておいて損はない事象だと、僕は思うよ。つまり、君が交際を始めてすぐに警戒して、忠告してくれたあの感覚、あの姿勢こそが、今の僕達にとっては、ベストではないかな?」 「ええ、それは、はい、その通りだと思います。ごめんなさい、私から言い出したことなのに。でも、世の中って、本当に厄介で面倒なことが多いですね。まったく、誰のせいなのでしょう? もしくは、何のせいかしら?」  お上品な口調をわざと作りながら、私は愚痴を溢した。自分の機嫌が朝から良いのを自覚する。低血圧な私には珍しいことだ。 「人間という種が共有する概念の流動性その副産物と、善悪の過剰行使を推進する風潮のせいじゃないかな」 「その根拠とは?」 「比較的狭い範囲の情報に基づいた、統計的な推測だ」 「う~ん、なるほど……」 「納得できていないね?」 「ええ、まだ少し」 「大学に着いたら、続きを議論しようか」 「はい、是非」  私は素直に頷いてから、片手で玄関の扉を開ける。 「先生、いってらっしゃい」 「ありがとう、先に行って待っているよ」  笑みを交わしてから彼を送り出し、一度扉を閉めてから、体感で時間を測る。  空いた時間は、当然のように思考。  本当に、変わったなぁ、と思う。  あらゆる経験その影響で、人は案外あっさりと、簡単に変わってしまう。  外見に対するこだわりも、中核を成しているはずの中身すらも。  他者によって用いられる条件ではないはずで、しかし単純な境界条件ほど、再現は難しいもの。私欲と思惑渦巻く大人の世界が、甘えた関係だけで回ってはいないのと同様に。  あらゆる場面において用いられる比喩、その観点からも、隔たりが生じてしまうことと同様に。  まるで、そう、自我が目覚めたばかりのような、そんな不安定で初々しい、初心な感覚が近しいだろうか。  その論拠も、証明も、全ては、此処に在る。  人間は、現実のしがらみや、回避の難しい拘束から、どうにか逃げ回るために、その知性を総動員する生き物だ。  そう。  知性は、そんな事の為に使ってもいい。  心や感情は、愛する人にだけ向け放つ。  それでいい。  それがいい。  一緒に居られるというだけで、幸福で。  名前を連ねることができたなら至福で。  そんな期待と日々に笑顔を溢しながら。  夢現の思考と試行を重ねて未来を視る。  連なる名こそが夢の顕現。  待ちわびたこの時こそが。  降り注ぐこの幸福こそが。  得られた事実の悦楽に浸りながら。  不可解に首を捻り、肩をすくめて。  全てを抱いて生きていく。  先生と共に、生きていく。  私は、彼と、生きていく。  これから先もずっと、隣り合ったままに過ごす。  肩を並べて互いを認め、鋭利かつ真に高め合う。  添い遂げられる予感を、理屈抜きに信じながら。  よし、とひと区切りをつけて、私は扉を開けた。
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