プロローグ

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プロローグ

 アラーム音を鳴り散らすスマートフォンを片手で掴み、私は起床した。  液晶画面を見て時間を確認した後、寝起きで力の入らない身体を叱咤して、どうにか立ち上がる。おぼつかない足取りでキッチンに立ち、コ―ヒ―メーカへフィルタとコ―ヒ―の粉をセットしてボタンを押す。顔を洗い、歯磨きをして、パンツスーツに着替え終えたところで、出来上がりの音がした。  けれど、私は猫舌なので、コーヒーはひとまず放置して、顔と首筋、両手に日焼け止めを塗り、最低限のメイクを終えてようやく、キッチンへ戻ってマグカップにコ―ヒ―を注ぐ。覚醒を促す悪魔の液体を飲みながら時間を確認。この時間の起床で十分に余裕があることが立証された。  半分以上コーヒーを残すことを惜しみつつ、私はコートを着て、マンションの自室を出た。階段を降りつつ、ポケットから有線イヤフォンをスマートフォンに接続。どうして有線イヤフォンを使っているのかといえば、まだ壊れていないからだ。  自作の音楽ファイルからV系の曲を選択。お気に入りがすぐに流れ始める。  漆黒の空に反射するノスタルジィ 颯爽と歩く私は夜を着る  素地のコンクリート表面 顕現するは旧来の空白  メイクの裏には赤い執着 瞬きを挟む困惑は、とっくに飛翔した  行儀の良い時間は大嫌い 前後には、具体的な空想のひと欠片  西洋風の箱で待つ貴方 その扉は木製? アルミ? それともスチール?    貴女は飲み込まれていた 故に撒かれた必然の餌  貴女よ、悔いぬ恋をして 鯨は決して悪ではない  指定された概念座標 席に着く私は沈着そのもの  幾重にも、ぶつかる視線 とっくに錆びた感情を浴びる  それを受容するとでも? 貴方の言葉はいつだって、着飾った姿でしか拝めない  放たれる意志 不明の叫び 究極的拡大をもってして、動機は一つに集約される  揺らぐ不確かな我が魂は 如何にして基芯へと伝播する?  それでも貴女は飲み込まれている 陸の鯨に容赦もなく  意地など砕いて愛せよ貴女 情心中枢、そのジグを解け  夜明けと共に鯨は還る 二人が眠るシーツを超えて、まして海などと遠慮して    聞けた一曲目に満足して、しかし二曲目が始まる前に、徒歩で緩やかな坂道を超えて、大学の敷地内へと到着した。  とにかく時間短縮のためにと、大学から一番近いマンションの部屋を借りたのは正解だった。事前計算よりも三分間の好意誤差があった。三分あれば、日焼け止めを今日以上に丁寧に塗る余裕が確保できる。  建物内の受付で挨拶をして、身分の開示と、来訪の目的を伝える。 私の配属予定の研究室その場所と、該当学科の教授が今日は不在であることを教えてもらえた。  准教授は出勤しているらしいので、受付の人にお礼を言ってから奥へ進み、階段を上がって、建物の三階、その端へと向かう。  正式な顔合わせと勤務開始までは、まだ二日あった。けれど私は、顔合わせの挨拶や事前準備というものは念入りに、それこそ少しオーバなくらいしておきたい性格なので、こうして自主的にやってきた次第だった。  一般的な会社などでは、こうした過剰な自主性や、一般常識からやや外れた丁寧さは、逆に非常識であると評されたり、呆れられたりしてしまう要因となり得る。しかし、大学という空間は、そうした常識的な価値観から切り離された場所だ。実際に大学へ通った四年間と、大学院に上がって博士を取るまでの過程で、私はそれを経験し、学んでいた。  やり過ぎるくらいでいい、自分なりのこだわりを発揮していい、自主的に調べていいし、事前の備えはあればあるほどに良い。自分の意見や考えは積極的に発言していいし、文字で、言葉で、成果で、形にして提出すれば、それが仕事としての評価となる。所謂、成果主義という概念に沿っているだろう。  私は、そうした環境を心地良く感じる。常に研究として選択したテーマに追われ、起きてから眠るまでに、とにかく大量の文字と数字に目を通して、十本の指が動かなくなるまでキーボードを叩いて文章を書き、グラフを作る。それが朝から夜遅くまで、毎日毎日、繰り返される。休みなんて基本的に無い。休んでいたら研究のデータが取れない。データが揃わないと仮説が立てられず、実験へ移行できない。つまり仕事にならない。だから休まない。毎日毎日、大学へ通って、そして繰り返しを繰り返す。一般社会の常識からすれば、おかしな日々の過ごし方だろう。労働基準法も真っ青のブラック環境だと指摘されてしまうかもしれない。  でも、そうした常から外れたやり方だからこそ上手くいく、仕事をこなして成果を出せるのなら自由にしてもらって構わない、という身軽さ、非常識さが、私の性には合っていた。  博士を取得した後も、私は大学から出る選択をしなかった。民間企業への就職は最初から眼中になく、助教の募集を見つけた瞬間に応募した。研究者としての道以外、それ以外の人生など考えられなかった。  だから、いつも不思議に思う。  いつも聞く、お気に入りの曲。あれに当てられている歌詞が不思議でならない。  愛とは、恋とは、それほどまでに良いものなのだろうか?  崇高な概念だとは思う。理屈としては理解できる。人は他者の存在があるから生きていられる。これは道理だ。自然の摂理でもある。  しかし、翻ってみれば?  私個人としては、全く共感できない。恋愛というものを、そもそも経験したことがないから分からない。研究以上に、生きていく上で必要な労働や、知識を蓄える以外の物事に入れ込んでしまう感覚が分からない。私は無趣味に近い人間だし、唯一音楽だけはV系が好み、というこだわりしか持っていない。だから特定の誰かに恋をして、世界の色が一瞬にして変化する、といった価値観の流転など、もう未知の領域と表現して相違ない。  これを今から、准教授との初対面時に質問として持ち出してみようか、と一瞬の発想。  次いで、すぐに否定。いくらなんでも、さすがに非常識だろう、という制止。  変わり者が多い大学関係者であっても、さすがに、どんな非常識でも許されるというわけではない。常識という概念に縛られないだけで、ルールの全てを軽視するのは道理が異なる。それは、理屈という筋道を敷いて、その上を行くことを人間性と表現する、人間らしからぬ行いであるためだ。つまるところ、心象が悪い。  辿り着いた目的の部屋、その扉の端に掛けられているプレートに目を通した後、私はコートを脱いで片手に抱えてから、ノックを二回した。  すぐに、はぁい、どうぞ、という男性の声が返ってくる。  扉を開けて、失礼します、という文句と同時に入室。  顔を上げて、相手の顔に目を向けて。  頭の中に用意していた自己紹介の文章を読み込み。  口を開けつつ、目が合った、その瞬間。  私の全ては静止した。  動作も、思考も、何もかもが動くことを止めた。  落雷にでも打たれたかのようだった、というのが、後になっての感想。ありきたりだ。  でも、その時の私はただ、彼を見つめていた。  少し長めで、やや癖っ毛の黒髪。  ノンフレームの眼鏡と、その奥にある、理知的な両眼。  キーボードの上で滑らかに動いていた、ピアニストのように白く長い指。 「ゼミの子かな? 朝早いね」という的外れな問い。胸の奥まで響くハスキィな声。  あの時、私は先生に対して、まず何と応えたっけ?  そう、確か。 「先生、恋とは一体、何なのでしょうか?」  前提もなく、脈絡もない、勢いだけの、まったく非常識な質問が口から飛び出したのだ。  対して彼の答えは、今も克明に覚えている。  少しだけ目を見開いて、右手だけキーボードから離して、私の方へ半身を向けてから口を開いた。 「朝に飲むコーヒーみたいなものじゃないかな」  私は、その意味が理解できなくて、自分の質問の意図も分からなくて、そもそもの状況が理解不能で、それでもスムーズに答えを返してくれた先生が可笑しくて、その優しさに耐えかねて、ふき出してしまった。 「面白い子だね。所属はどこ?」  先生は怒るでもなく、不審な目を向けてくるでもなく、シンプルに、そう聞いてくれた。  私は姿勢を正して、せめて、と取り繕うように名乗った。 「大変な失礼をいたしました。私、二日後にこちらへ助教として配属となります、立藤藍(たちふじあい)と申します。これから、よろしくお願いいたします」  先生は、また少しだけ驚いた表情になって、けれどすぐに微笑み、応えてくれた。 「そうでしたか。こちらこそ、失礼しました。伊東荒瀬(いとうあらせ)です。よろしくお願いします」  この唐突で不可解なやり取りが、私と伊東荒瀬准教授の出会いだった。
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