第一章 定式に対する認知ギャップと逸脱した証左へ共振する知的感情の高揚指向について

1/1
42人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

第一章 定式に対する認知ギャップと逸脱した証左へ共振する知的感情の高揚指向について

 大学構内の三階、その廊下の突き当りへと辿り着いた私は、失礼します、の言葉と共に扉を開けて、伊東荒瀬准教授の部屋へと入る。  室内を最短距離で横断して、デスクの前に到着。  先生は電話中だった。片手の人差し指をこちらへ立てて見せてくる。  これは、因果一律の普遍性は座標軸に対して解が一である、という意味ではない。手が離せないから少し待って、という意味だ。  日本では相手を待たせる際、片手か両手を押し出すような形で示して見せることが多いけれど、海外では片手の人差し指を立てることで、少し待って、少し静かにしてくれ、という意図を伝達するのが一般的な動作である。先生がこのジェスチャーを採用しているのは、おそらく海外への出張の影響だろうと推察できる。日本国内でこれをやってみせ、身振り手振りが伝わりにくい、という状況になっても、その相手が困惑して首を傾げるか、不可解に思って制止するかのどちからであるため、ジェスチャーの本来の意図と、ほぼ同じ効果が得られる。ようするに、不都合が生じない。しかし、海外で日本のジェスチャーを行い、そして誤解されてしまった場合、最悪、警告も無しに銃で撃たれるリスクがある。日本国内よりも開放的で自由主義な国外では、不審な者、自分に害を成す可能性があると判断した対象には、先制して攻撃を加えないと自身の安全が脅かされる、という認識が一般的である。この理屈は、海外出張を多く経験している先生自身が私に語り聞かせてくれたもので、つまりは、この情報が先生の特異なジェスチャー選択の根拠であると解釈できる。 「すまない、待たせたね」  固定電話に受話器を置きつつ、先生は言った。 「いいえ、考え事をしていたので、退屈はしませんでした」 「へえ、何を考えていたの?」 「端的に言いますと、挨拶の意味です」 「納得のいく結論は出た?」椅子に深く腰掛けながら、先生は聞く。 「はい。挨拶をするのは、相手から撃たれないようにする為です」  私の言葉を聞いた先生は、片方だけ口角を上げた。 「君は記憶力が良いね。僕が以前話した体験談が、思考の基盤に用いられているから、そのような結論に達したんだろう?」 「そうです。どうでしょう? この結論は、評価していただけますか?」 「切れ味がある、とだけ言っておこうかな」  話しながら、先生は椅子から立ち上がって部屋の隅へと向かう。そこにはコーヒーメーカがある。 「発想がやや飛躍気味であることは否めない。僕以外の者相手では、前提条件が不明であるため、説得不足でもある」 「では、あまり上手くまとまっていない、ということでしょうか」 「そうは言ってない」  先生はこちらへ背を向けたまま応える。 既にコーヒーポットに溜まっていた黒い液体を二つのマグカップへ注ぎ、片方を私に受け渡してから、先生はデスクの椅子へと戻る。最適化された動きである。  私はお礼を述べてから、マグカップに口をつけ、コーヒーを飲んだ。  あぁ、生きている、と感じられる。  ブラックコーヒーには、現実知覚を鈍麻させて、無自覚でいることの心地良さを思い出させてくれる効能がある。これは他の飲み物では得られない、代替不可能な価値だと常々思う。 「物事の成り立ちには、必ず理由がある」  コーヒーを二口飲んだ後、先生はマグカップをデスクに置きながら口を開いた。 「何かを知りたいと考えた時、大抵は、何故、という疑問から始まる。これで良いのだろうか? 誰にとって良いことなのか? もしかして間違っているのだろうか? では、どう間違っているのか? と考えが巡るだろう。それは実に正しいプロセスだ。思考というものは、続けなければ、次第に曖昧となってしまう。もし、面倒だからと打ち切り、消してしまったなら、そこには何もなくなる。ということは、何も残らない。当然の帰結だね?」  先生は目線だけを上げて私を見る。相手が自分の話を聞いているか、ここまでの説明を理解できているかどうかの確認である。学生の子達相手にもよくやっている。癖と表現してもいいだろう。  私はそれを熟知しているので、柔らかい表情を作って、小さく頷いてみせる。理解の提示と、先を促す動作を兼任した応対だ。 「なれば尚更に、何を問うのかが重要となってくる。何故、の先にあるそれが、本当に知りたいことなら特にね。さて、しかしながら、あらゆる行動原理は、すなわち己の欲求を満たす為のもので、それが他人に理解できるかどうか、という点は基本的に考慮されない。重要かどうかは、観察する個人の内情によって変化する項目だからだ。となれば、導き出される結論は何か? それは、自由な思考をするためには、常識を滅却する必要がある、ということ。既に確立された定義に惑わされてはならない。定義そのものを、都度自らが成してこそ、発想した内容に価値が生まれる」 「では、先程の私の突飛な発想と、めちゃくちゃな理論にも、一定の価値はある、ということですか?」 「そういうこと」先生は頷き、肯定してくれた。 「既に几帳面なほどカテゴライズしているのに、更に細かく分析するために、科学は今日も進歩を続けている。でもね、その先にあるのは、機械やソフトウェアによる、最適化された単純作業だけだ。分析と分類、そしてデジタル化が並行して進む現代において、僕達人間の頭脳や技術が必要になる項目は、減少の一途を辿っている。自動計算のマクロを組んで、PCに送られてくる新たなデータを振り分け専用のAIに一任しても、なんら差し支えない分野が増えている。ようするに、大抵の研究は、僕達が生まれる前の世代と比較して、関わってもつまらないものばかりになってきている」 「まあ、思い切った表現をされますね」  私は大袈裟に驚いてみせる。勿論、本心ではない。先生の言わんとすることは既に理解できている。 「僕が言いたいこと、君ならもう察しがついているだろう?」  デスクからマグカップを手に取りながら先生は言った。お見通しだったらしい。 「だからこそ突飛な発想や、何故か、と疑問に思うことそれ自体に価値がある、ということですね? 機械的な処理は、既成のソフトやAIの方が圧倒的に高速で処理することが可能ですが、そもそもの取っ掛かり、研究対象としての選定段階においては、人間の発想力の方が、未だ上回っているからと」 「聡明な理解者が身近にいてくれて嬉しいよ」 先生の称賛に対して、私は作り笑いではない、本当の笑みで応じてみせる。  発想の価値か、と考える。  思いつくことに価値を見出すなんて、こんな時代が来るとは思わなかった、というのが率直な感想だった。  漠然と思考を泳がせている最中に突如として生じる、脳内の微小な電子の衝撃、もしくは脳内の処理回路に生じる雑音程度としか捉えていなかった【閃き】を、先生は何よりも有意義なものだと評価していることが意外で、けれど、その理屈を伺ってみると、なるほど納得できるものだったりする。この認知ギャップが、フォーカスする事項の差異が、基礎研究分野などにおいても重宝されるのだろう。半端で未熟者の私には、まだまだ知らないこと、分からないことの方が多いけれど、大袈裟に言えば、科学者同士の成長や、世界規模の技術的飛躍にも一役買い、未来に向けての発展に貢献していく、そういう予感からの期待、専門分野を超えた共通の目標、未知未解明の開拓を成す起点として作用することを願っているに違いない。  人は、人以外の物や事象の解明に、しかし人の知恵に縋り頼る。他者を排し、己の力だけで生きていけるよう自己の能力を開花させ、育てることに時間、労力、資金を投資するけれど、根本的には、他者がいなければ生き延びることは叶わない。それどころか、呼応する者同士が近くに居れば居るほどに、相互の能力を、限界を超えて高め合う結果に繋がる。言ってしまえば、おかしな現象だ。これではもう、人間そのものが、群れて生きるようにデザインされて生まれてきたとすら思えてしまう。そう考える方が辻褄が合う。  このように新出する謎、生じた疑問を、自らの手で解こうとするなら、大学という環境は理想的だ。人の起源について考えるにしても、それ以外の疑問を題材に据えるとしても、舞台としてはもってこい。  私の場合は特に、この大学へ来て良かった、と心から思っている。  それは、知りたい、学びたい、試したい、と思いついたことを解消できる環境が整っているからで。  何よりも、先生に出会えたことが幸運だった。  あの出会いの日から一年。  もうそんなに経つのか、という驚きと、まだ一年なのか、という感想で半々。  そういえば、と生じる疑問。  この発想の飛躍が、先生が先程言っていた、人間のおかした特徴で、優位性なのだろう。 「さて、だいぶ話が逸れてしまったね。何か、伝達を頼まれて来たんだろう?」  マグカップをデスクに置きながら、先生が聞いてきた。 「先生、以前に私がお聞きした質問の解答に、恋が朝のコーヒーみたいって、おっしゃいましたよね。あれは、どういう意味だったのですか?」  失礼を承知で、私は先生の問いを横へ流して、自分の疑問を優先した。 「なにそれ?」先生が首を傾げる。 「えっ? まさか、お忘れになってしまったのですか?」私は思わず声が大きくなる。 「いつの話?」 「私がこちらの大学へ配属される二日前に、先生の部屋へご挨拶に伺った時のお話です。あの素早い対応と、意味深な内容に、私、とても感動したんですよ?」 「あぁ、そういえば、あったね、そんなこと。もう一年も前のやり取りじゃないか」 「そんなこと……?」  静かに憤慨する私をよそに、先生はスムーズな口調で続ける。 「あれはね、コーヒーは毎朝必要不可欠な存在で、それでも毎朝飲むたびに、新鮮な気持ちで受け入れられる、側にいてくれることに感謝したくなる、という意味だよ」 「……なるほど。納得しました」私は渋々頷いてみせる。  真意について聞けたこと、その解釈に納得できたのは事実。でも、忘れていたような素振りはいただけないし、本当に不可欠なのか、代替可能な概念なのか、やや判然としない辺りが不満だった。 「あまり、納得できているようには見えないね」  先生は可笑しそうな口調で指摘してくる。 「お邪魔した用件は、外部の教授方二名が急遽来られなくなったため、本日予定していた会議は明日に延期する、というものが一件、それと、院生の子の論文を一点、先生に添削して欲しいと預かっています。そのお渡しに参りました次第です」 「急に丁寧な口調になると、恐ろしいなぁ」  先生は笑いながら、私に向けて片手を差し出す。  私はスキニーのポケットからUSBを取り出して、差し出された先生の手にそれをのせる。  少しだけ大袈裟に、不必要なほど長く触れて。  どうして、こんな不合理なことをしたがるのだろう、と疑問に思う自分と。  どんな形であれ、好きな相手に触れることができて、少女のように喜ぶ自分がいて。  原理が全く不明なのに、滑らかに連動する心身の脈動に、先程まで不機嫌の兆候が見られていただろうに、まったく単純ではないかと、自らに呆れた方が良いのか、焦りでもした方が良いのか、そろそろ自制すべきかと悩む次第。 「論文の添削は、僕自身の学ぶ機会にもなるから、まだいいけれど、会議に関しては、勘弁してくれ、という感想しかないね。先程の電話もそうだった」  デスクの中央に置かれていたデスクトップPCとは別の、端で閉じられていたノートPCを立ち上げてUSBを差し込みながら、先生は零した。 「お電話は、どのような内容だったのですか?」  私は少し冷めて飲み頃になったコーヒーに口をつけながら聞く。 「委員会連中からゴルフの誘い。親睦を深めるための集まりをしたいそうだ」 「時代錯誤ですね」 「まったくだ」  ノートPCの画面に目を向けたまま、先生は頷き、言葉を続ける。 「交友目的の連絡こそ、メールなどのメッセージ形式で行った方が効率的だ。電話しながらメモをする手間も省けるし、見直しや他予定との確認も素早くできる。電子スケジュールへの組み込みもコピー&ペーストで済むし、不要と判断したらデリートアイコン一つでゴミ箱へ放り込めるのも優秀だ。電話のように、断りの台詞を並べながらどうにか切るという労力も必要としない」 「有意義な時間の使い方を、まさか知らないのでしょうか?」 「そう、そこだ」先生が頷く。 「優れた頭脳が揃っているはずの大学で、こうして時間を無駄にする動きがある、という事実が、まったく信じ難い。嘆かわしい、と言ってもいい」 「対面や電話で話をしたがる人は、キーボードで文字を打つことが、そんなに面倒なのでしょうか?」 「少なくとも、ペンで文字を書くよりは楽だし、早いはずなんだけどね」 「十本の指を余すことなく使えるからですね?」 「素晴らしい理解力だ」 「ありがとうございます」 「君と先程話したように、疑問に思った事柄を真面目に議論したり、結論や成果を追求することだけに労力を投資したいものだ。研究者というのは本来、そうした生き方を理想に据えた人種のはずで、形式的な付き合いや接待、拘束された文言をメディア向けに装飾して提出するなんてのは、的外れもいいところだと僕は思う」 「ええ、その通りだと思います」 「反対意見や、修正項目はない?」 「ありませんね」私は首を横に振る。 「私自身、助教という立場で、まだ新人ということもあって、あまり責任ある仕事を任されていないぶん、研究に時間を割けていますが、受け持つ授業のサポートや、勤続年数がかさんで環境が変化していくと、無駄としか思えない雑事に忙殺されていくことでしょう。そうなってしまうことが、現状から既に予測できます。ですから、先程の先生の意見には共感しかありません」 「君には未来が視えているね。それも、かなり具体的な未来だ」  私の説明に先生は笑い、眼鏡に触れながら、こちらを向く。 「それは高い知能を有している証であり、責務を果たすことを常と認識している覚悟の現れだ。誇りに思っていい」  私は爽やかな笑顔だけ応じて、区切りのついた会話を終える。  先生の部屋から静かに退室して、歩いて来た廊下を戻る。  自分の口元が緩んでいるのを自覚。  今日は朝から有意義なお話ができたことが嬉しかった。  自分の能力や考え方を褒めてもらえたことが嬉しかった。  どうして先生に褒められると、こんなにも嬉しいのだろう。  伝えられた言葉を素直に受け止めて、自分の中へと取り込もうとする姿勢が顕著。先生以外の誰かを相手にする時には、こんな反応は観察されない。  きっと、これが恋の作用なのだろう。  好きになった相手のことを何でも知りたくなる。  好きな相手から貰った言葉は、その全てが宝物。  まるで、乙女みたい。  思いついたその表現に、今度は耐え切れず、独りふき出してしまった。  自分には、似合わないかもしれない。けれど、悪い気分ではなかった。  一日の仕事が始まった。  大教室で行われる講義、そこで用いられる経年劣化著しいプロジェクタの不明な不具合と格闘したり、材料準備室で実験用の試料を仕分け、記録したり、その作業で汚れた白衣を着たままで生徒からの質問に応えたり、卒業後の進路についてアドバイスしたり、形ばかりで何の役にも立たない書類を手際良く片付けて、他大学へ電話をかけ、実験用鋼材鉄板の納入業者へ連絡をして伝票を用意し、明日の講義や小規模実験の準備をしているうちに、夕方となる。雑務が終わり、講義やサークル活動を終えた学生達が各々帰路に着き、構内が閑散とし始める頃合いからが、個人研究の時間だ。  助教の個室として割り当てられている部屋で、私はデスクトップPCを立ち上げて、これまでに組み立てた仮説モデルのデータを再検討しつつ、今後実証実験に用いる予定の建材を再度チェック。新たな試料の候補も、いくつかピックアップしておく。自動で整合してくれるマクロを組んでもいいけど、項目はそう多くないので、手作業と目視で進めた。強引な手段だけど、これが手早いのだから正解だろう。地味な作業だけれど、この段階で手を抜くと、後々の結果に明確な悪影響が出る。というか、理論や実験結果の全てが矛盾だらけの無価値なものと化すので、華やかさはなくとも、一番重要な部分だ。  先生から借りた、近年発表されたばかりの海外の新規建築資材を対象とした報告書、特定条件下における材料変質の可能性と危険度別告知が載った学術雑誌を片手に、次に行う小規模検証実験について、テキストにまとめていると、部屋の扉が少しだけ開いてからノックされた。  この独特の開け方をするのは、私が知る限り、一人しかいない。 「先生、いつも注意しておりますように、順序が逆です。開けてからノックしても遅いです」  椅子を回転させて、彼の方へと身体を向けながら、私は指摘する。 「ああ、そうか。ごめん」  自分で開けた扉をぼんやりと見つめながら、伊藤荒瀬准教授は言った。 「どうされました?」 「立藤君、今日、お弁当、どうする?」 「えっ? もうそんな時間?」  私は驚き、デスクトップPCの画面端に表示されている時刻を確認。夜の九時だった。雑事から解放され、清々しい気持ちで美しい夕日を眺めたのは、つい先程だったはずなのに。 「素晴らしい集中力だね。いいなぁ。僕も若い頃は、時間を忘れて研究に打ち込めたけれど、ここ最近は、どうもね。途中で休憩を挟んでしまうんだ」 「複雑な気持ちになるようなことを、さらっとおっしゃらないでください」  私は笑いながら言葉を返しつつ、マウスを操作して進捗データを保存。椅子から立ち上がり、財布をパンツスーツのお尻のポケットへ捻じ込んでから、お待たせしました。行きましょう、と告げた。  なんのことはない、晩御飯の買い出しの誘いだった。  私も先生も大学に遅くまで残っていることが多く、配属されてまだ日が浅かった頃、私が気を利かせて二人分のお弁当を買ってきて、先生の部屋へ持って行き、そこで食べながら、研究についてのお話をした。以降、二人で買い出しへ行く、もしくはどちらかが二人分のお弁当を買ってくる、買ってきてもらった方は、それがどんなお弁当であれ、文句を言わずに食べる、という習慣ができあがっていた。  先生と二人で食事をする、というシチュエーションは、やはり素敵で魅力的。  加えて、会話の中で、先生から新しい知識を教えてもらえることもある。専門分野がほとんど同じであるため、自分の研究内容についての相談もさせてもらえる。新たな知見を得られる、貴重な機会である。  また、大学外部の者達から研究や仕事について問われた際のような、専門用語を余すことなく用いることで、理屈っぽいと引かれることも、意味が分からない、と会話を諦められることも、何度も何度も同じような質問を繰り返されたりしないしないことも、私にとっては新鮮だった。異なる環境にいる者同士、専門分野が異なる者同士では会話が成立しづらいというのは常識ではあるけれど、基本的に、女性同士での会話においては、文系理系を問わず、研究者の職務に関する内容、そもそも専門的な内容が語られることは、ほとんどない。  美容や医学系であれば、多少は聞いてもらえるかもしれないけれど、そちらの方面では、眉唾な似非科学が入り込んでいたり、守秘義務が生じるような職務上の制約があったりで、私以上に窮屈な思いをしているとの話を、医療系の道へ進んだ友人からよく聞くところだ。  世の中、ままならないものだなと思うこと然りで、だからこそ、この時間は、まさに憩いであり、癒しであり、学びの場でもある、本当に貴重なものだった。  些か緊張を伴い、しかし全く不愉快ではなく、むしろ人生における魅惑の色彩、褒美の役目を担っていると表して過言ではない。そんなひととき。  頻繁に利用する、大学から最も近い場所にあるお弁当販売店は午後八時で閉まるので、今日はコンビニでお弁当を買った。  歩いて大学へ戻り、先生の部屋へお邪魔する。  コーヒーを淹れて、応接用のローテーブルに向かい合って座り、お弁当を食べ始める。 「君が最初にお弁当を持って現れた時は、驚いたなぁ」  食べながら、先生が懐かしむように言った。 「あ、やっぱり、驚かれました?」私は苦笑いで応じる。  あの時は、勢いだけで行動したから、その感想は至極妥当だと思った。  自分でも、厚かましいかな、非常識かな、とも分析したはずで、それなのに実行に至ったのは、やはり先生と、どんな形でもいいから接点を持ちたい、と考えた結果だった。 「夜まで残って研究している、熱心な人だな、と人格を評価していたら、お弁当を渡されて、コーヒーを淹れて、僕の目の前で、自分のお弁当を食べ始めたからね。目から鱗だったよ」 「先生、それ、誤用ではありませんか?」 「そこで聞いた、地震環境下における新規建材へのねじれ波の影響、という君の研究アイデアにも興味を惹かれた。つまり、驚いた、という部分に偽りはない」 「私のアイデア、魅力的ですか? 学会で通用するでしょうか?」  箸を止めて、私は聞いた。 「それは分からない。近似する研究は既に存在しているし、今この時にも、国内外で全く同じテーマで、全く同じような実験が未発表の状態かつ水面下で行われているかもしれない。そうした場合に求められるのは、データの正確性と、発表までのスピードだ。所謂、早い者勝ちというやつだね」 「やっぱり、そうですよね」私は頷く。 「でも、必要以上に結果を急いでまとめる必要はないと、個人的には思うよ。どんな仕事でもそうだけれど、焦って提出した成果が素晴らしい結果に繋がることは、そうそうない。むしろ、ずさんで悲劇的な末路を辿る場合の方が多い。論文としてまとめて学会で発表するつもりなら、多少内容が重複していようと、注目度が下がってしまおうと、とにかく正確にデータを集めて、反論や反証に備えておいた方が、最終的には、自分の理論を補強することに繋がる」 「これがもし、先生個人の発表だったとしても、そうされますか?」 「現に、これまでも、そうしてきた」  先生は眼鏡に軽く触れながら答える。 「研究というものは、先へ進むにつれて、先鋭的に、専門的に、そして孤独になる。それでも立ち止まらずに歩き続けられる者だけが、形ある何かを残せる。似た道を歩いていたはずの研究室のメンバも、助力してくれていた指導教官とも、いずれは距離ができてしまう。どこかでばったり再会したり、何かしらの形で協力関係が再形成されることは、まあある。だけどね、そこまでで、それだけなんだ。知識が増えて、共有できる話題も増えて、頭を占める疑問も同じようなもののはずで、用いる言葉だって同じのはずなのに、どこか噛み合わなくなっていく。どうしても、どこまで成長しても、完全に相容れることはない。当然だ。自分とは異なる環境に置かれ、各々異なる成長を遂げて、異なる行先を見ているのだからね」  ここまで語ると、先生はコーヒーを一口飲んだ。  続きを期待しながら、私もコーヒーに口をつける。 「他人に依っても、いずれは袂を分かつことになる。であるならば、研究にのみ注力すべきなんだけど、その肝心の研究分野も、程度問題の差はあれど、ひと昔前に比べれば、原理が分からない、手つかずで未解明、というものは減少傾向にある。勿論、現代においても不明な事象は存在するし、実験と詳細な検証が求められるような不可思議は、それなりに残存している。でもね、それらは解明に膨大な時間と資金と人員を必要とする割に、解明したところで、実社会へすぐに応用できる新技術となるわけではない。期待値も即効性も薄い、そんなものが圧倒的に多い。不景気な今の世の中で、そんなことの解明に、国から予算が下りるわけがない。スポンサとなってくれる企業を見つけることも困難だ。これから先を生きる研究者達は、正直言って、苦しくなる一方だと思う」 「だから尚更に、焦って結果を出すべきではない、焦ったところで、注目を浴びようと躍起になったところで、大きなメリットはない、自分にとって良いことがない、というお話ですね?」 「その通り」  先生は頷いてから、お弁当の続きに箸をつける。  私は、なるほど、と呟きながら、お弁当を食べ終えて箸を置いた。 「それにしても、先生、今日は昔の話題が多いですね」 「今日の朝、一年前に話した内容について語っただろう? あの余波だね。いくつか懐かしいと思える記憶が頭の中をかすめて行ったから、そうしたものについて話したくなった」 「理由は分かりました。とりあえず、かすめさせるのではなく、捕まえておいてください」 「相変わらず、君は面白い」  私に向けてそう告げた後、先生はお弁当に入っていた、だし巻き卵を箸で掴んで、そのまま静止した。  その様子を、私はコーヒーのマグカップに口をつけながら眺める。  ……長い。  どうして、だし巻き卵を見つめているのだろう。作りに不備でも見つけたのだろうか。  でも、それなら、目の前の私に言ってくれてもいいはず。それくらいのことを気軽に話し合える関係は、既に構築していると思っていたのだけれど。 「立藤君」  唐突に、先生は真面目な声で私を呼んだ。 「はい、先生」私は慌てて返事をする。 「今、君が取り組んでいる研究テーマと、僕が興味を抱いているテーマを統合して、連名で論文を出さない?」 「……えっ?」  先生の言ったことが、発言の意図が、すぐには理解できなかった。  研究テーマを統合? 連名で論文を出す? 先生と私の連名で?  願ってもない申し出だった。私個人の感情としては、とても嬉しい。飛び上がって、女子高生のようにはしゃぎ回ってしまいたい、それくらい喜ばしい提案だった。  けれど、そんなことが可能なのか、という計算が、すぐに走り、そして納得した。  ああ、そうか。  確かに、できないことはない。  私も先生も、専攻は材料系、特に建材に関する成分分析や、外部からの影響変質その解析が主だ。そして、どちらもモデルデータ上での計算で仮説を組み立てたのち、検証としての実験が必要となる。互いに協力すれば、実験自体をスムーズに行えるし、モデルデータをシェアすることで、一から計算することを省ける場面も出てくるだろう。大幅な時間の短縮が見込める。互いに新たな気づきを促す結果にも繋がるかもしれない。一見、良いことづくめのような提案だ……そう、だけど。 「でも、先生。その、私はまだ経験も知識も浅い新人です。立場も新任助教です。そんな人間が興味本位で始めた研究テーマと、准教授である先生のテーマを統合するというのは、あまりに失礼というか、恐れ多いというか、言ってしまうと、不純ではないでしょうか?」  私がそう言い切ると同時に、先生は何故かふき出してしまった。  むせてしまったのか、少しばかり咳をして、コーヒーを飲んでから、先生はようやく口を開く。 「君は本当に、用いる表現が独特だね」 「間違っていましたか?」 「いいや、単純に面白かった。むせてしまうくらいには」 「もう、そんな、真面目なお話なのでは?」 「そう、真面目な提案だ。冗談で言っているわけではないし、僕は、君の肩書きなんて気にもしていない。失礼だとか、遠慮してしまうとか、まして不純だとか、そんな常識的で馬鹿らしい条件は、頭から除外していい」 「馬鹿らしい、は思い切った言い方ですね」私は笑いながら指摘する。 「しかし実際、そうじゃないかな。大学は会社ではないし、僕達の関係は、接待が求められる取引先同士でもない。同じ研究者で、同じ科学者だ。科学に魅せられて大学に残り、大学院を出て博士まで取って、終わりの見えない、それこそ趣味でしか関わろうと思えないようなマイナな分野に首を突っ込んだ。今も突っ込んでいる。飽きもせず、そればかりをしている。それが楽しいから、それだけをしていたいから、そうしている。世間の常識や、こうあるべきだ、などという、どこかの誰かの何かしら、既存の規範や概念なんて、僕らはとっくに振り切っているように思う。そうでなきゃ、こんな時間まで居残って、遅過ぎる晩御飯を食べて、まだ仕事をしようだなんて思わないだろう?」 「それは、ええ、そうですね」  私は頷いて肯定。自分の顔には笑み。  先生が、私の好きな人が、私と同じような考え方をしていたことが、私に自由を差し出してくれていることが、たまらなく嬉しい。これでは、笑みも零れてしまうというもの。 「やりたいか、やりたくないか、興味があるか、無いか、それだけでいい。共同研究の件、検討してみてくれないかな」 「分かりました。お受けいたします。よろしくお願いします」 「いや、急がなくていいよ。もう少し時間を置いて、しっかり考えてからでも……」 「もう決めました」  私は先生の言葉に被せて言う。 「時間が惜しいので、間を開けるなんていう勿体ないことはしたくありません。私は先生と一緒に研究がしたいです。先生のテーマにも興味がありますし、私のテーマに沿って検証、実験を行った場合、何が観察されるのかも、この目で確かめてみたい。是非やらせてください。私と連名で、論文を完成させてください。お願いします」 「……分かった。ありがとう。こちらこそ、よろしくお願いするよ」  私と先生は、ローテーブルを挟んで、お大袈裟に握手をした。  おそらく、互いに形式的な概念を意識してのことで、つまりは、おふざけの意図が含まれた合意だった。  これが、先生特有の能力だと、私は分析している。 いきなり変革をもたらしてくれる。生態学における、サイクロトロンのよう。閉鎖環境的な空間で日々を過ごし、成長や生存に関する成分を高速で循環させると、全体の変化が早く、また大きい、という概念である。  先生といると、少なくとも私という対象は高速で成長してしまう。その自覚がある。人格も変化している。部分的に軟化して、かと思えば、新たに精神を引き締めたり、進み硬化して強くなろうとしている自我も認められる。それは、この仕事を続けていく上で必要なことなのだろうという予感とともに、自分が想像する、先生に相応しい存在に成ろうとしているようにも思える。もっと自分自身を高めたい、という欲求に起因する変質なのだろう、と自己分析できた。 「立藤君、そろそろ、握手解かない?」  聞こえてはいる。けれど、それよりも優先して考えている自分が一人。 先生は、変化しているのだろうか?  私と同じように、微細にでも異なる人格を内包したり、形成したりしているだろうか?  それは、はたして良い変化なのだろうか?  誰にとって? 何にとって? それは、どうして? 何のために?  そんなの、決まっている。 「あの、立藤君?」 「先生は、研究がお好きですか?」  問いかけを無視して、私は質問を投げかける。  先生はこれまでに、深く愛された経験があったろうか?  もしくは、誰かを深く愛したことがあったのだろうか?  優しい言葉だけをかけてもらえるような、そんな存在が近くにいたことはある?  生涯その経験を宝物にして、誇りとして、証として、大切に持ち続けたいと願う?  聞きたい。  正直に教えて欲しい。  私は、それを望んでいる。 「研究は、うん、好きだよ」 「今回、論文の連名やテーマの統合、共同研究としての提案をしてくださったのは、私とテーマ自体が近しいものであったためですか?」 「そうだね」 「先生の興味関心は、研究に対してだけなのでしょうか? 他には、何がありますか?」 「特にないね。趣味が分散することが少ない。勉強と研究ばかりしてきたから」  笑いながら、先生は答えてくれる。 「立藤君、何かもっと、聞きたいことがあるんだろう? だから、少し回りくどいやり方になってしまっている。違うかな?」 「その通りです。では、単調直入にお聞きしても良いですか?」 「うん、いいよ。それとさ、この手、まだ繋いでいないとダメかな?」 「これまで、誰かとお付き合いしたこと、ありますか?」 「いいや、ないね」 「失礼しました」 「いいよ、失礼は受けていない」 「その、女性がお嫌い、というわけではないですよね? 全く意識しない、とか」 「不特定多数の女性に対して、そういった感情を抱くことはないね。僕は人間で、知性を有する生き物で、理性的に考えて、自らの行動を決めているから」  先生は柔らかい表情で、冷静に答えをくれる。  対して私は、段々と冷静になっていく自分を内側から視ていた。  間違いなく、舞い上がってしまっていた。  論文のこと、研究テーマのこと、こうして先生と踏み込んだお話ができたことで、いつにも増して気分が高揚していた。  だから、普段なら絶対にしないようなアプローチを勢いだけで仕掛けてしまった。投げかけた質問の数々を思い返してみると、なんて失礼なことを聞いているのだろう、とんでもない口の利き方をしているではないか、と後悔が募る。  そうですよね、と溢しながら、声が萎んでいく。  もう、さすがに止めないといけない。これ以上、失礼を重ねてはいけない。 「でも、君だけは、例外かな」  突然発せられた、その肯定の言葉に、私は目を上げて先生を見つめる。 「優秀な同僚で、将来を期待できる、有望な人材だと思っている」 「ありがとうございます。そう言って頂けると、自信に繋がります」  私は、笑みを作って応えた。  やっぱり、そうだよね。  先生は、こういう人だから。  だから、惹かれたんだ。  始まりは、ひと目惚れだったけど。  でも、こういう内面や考え方に、冷静な姿に、強い芯に、魅了された。  それでも、どうしても、がっかりする自分が出てくる。  悲しいのかな、これは。  悲しいんだろうな、きっと。  期待してしまう。  今以上の関係を。  より親密な未来を。  満足は、努力しなければ手に入らないもの。  そう考えたからこそ、結果を求めて行動した。  でも、足りなかったのかな。  それとも、やり方がまずかったのかな。  反省しないといけないな。  また、目線が下がる。  強引に繋ぎ留めていた手も、離しかける。  気持ちが沈み始めていた。  さっきまでとは、大違い。 「……ただね」  先生が続けた言葉に、私は再び視線を上げた。 「相手が君だと、少しばかり、勝手が異なる」 「……え?」  先生は、私を見ている。  眼鏡越しに、私の目を見ている。 「それ、どういう意味ですか?」 「あ、いや、不快に感じたなら、すまない。取り消させて欲しい」 「取り消さないでください。不快だなんて、とんでもないです」  私は首を左右に振りながら食い下がる。 「先生にとって、私は恋愛対象なのですか?」 「そうなってきた、というのが鮮明かな」 「本当に? 本当ですか? まさか、冗談ではないですよね?」 「流石に僕も、このタイミングでジョークは言わないよ」 「その、以前は、どう思われていました?」 「素晴らしい仕事仲間、だね」 「あぁ、ええ、そうですよね」私は数度頷く。  自分が何を確かめたいのかが行方不明になりそう。落ち着け。はしゃぐのも、喜び過ぎておかしくなるのも、全部確認してからでもできることだ。 「では、その、今は違うのですね? 私を意識してくださっている、ということで」 「端的に言うと、そうなるかな。ああ、でも、本当に、不快に思ったら言って欲しい」 「ですから、不快だなんて、とんでもないです。先生、私は……」  言いながら、反射的に立ち上がっていた。  先生の手を握り締めて。  一歩、近寄って。  息を吸う。  言え。  正直に。  思い切って。  言ってしまえ。  ここで言わなくて、今後、いつ伝えるつもりだ?  怖がって逃げ出したら、気持ちに蓋をしてしまったら、自分の中の嫌いな部分を増やすだけ。それだけの結果で終わってしまう。  そんなの嫌だ。それだけは嫌だ。  蕾のまま朽ちるつもりはない。咲かせてこそ花。  私らしく、そして美しく、咲いてみたい。  その姿を、先生にだけ見て欲しい。 「私は、先生が好きです。初めてお会いしたその時から、一目惚れでした。その後も、仕事を通して、意見を交わして、先生の知性に触れるたび、先生のアイデアをお聞きするたび、先生の意外な一面を見せていただくたびに、好きになっていきました。だから……」  深呼吸。  伝えよう。  伝えたい。  最後まで。  胸に仕舞い育ててきた、この気持ち全てを。 「私と、結……」 「……えっ? 結婚?」 「間違えました。私と付き合ってください」  私が言い切ると同時に、先生はふき出した。  遅れて、私もふき出した。  なんてこと。  やだ、もう。  本音が漏れた。  いくら全てを伝えたいといっても、赤裸々に暴露するつもりはなかったのに。  笑うしかない。先生も笑ってしまっているし。 「君の気持ちは、よく分かった。伝えてくれたことに、まず感謝を述べたい」 「こちらこそ、聞いていただいて、ありがとうございました」  私はかしこまって頭を下げる。違いなく照れ隠し。全く可笑しい。何してるんだろう。 「それで、返事だけど」 「はい」 「こちらこそ、よろしく、でいいのかな」 「……はい?」  自分でも驚くほど、低い声が出た。 「あれ、不適切かな」 「不適切とか、そういうことではなくてですね、いえ、不適切ですし、不適当ですし、全然不足ですけど、あぁ、もう、先生、しっかりしてください」 「失敗してしまったかな」先生は苦笑い。 「まだ、失敗ではありません。そんなに難しいことでもありません。とっても簡単なことです」  私は先生の正面に屈み込み、先生の両手を握ってから問う。 「女性の方から、好きだ、と言われたんですよ? では、男性は、何と返すべきですか?」 「……あぁ、そうか。そうだね」先生は合点がいった表情。 「お分かりになりましたか?」私はおどけた調子で促す。 「僕も、君のことが好きだ」  衝撃。  沈黙。  鼓動の静止。  止まっちゃダメ。死んじゃうから。  息を吸って、再起動。  驚いた。  自分からねだったくせに、いざ言葉にして伝えてもらったら、とてつもない 破壊力を有していた。  知覚する。  私、こんなに先生のことが好きだったんだな。  遅延を経て、嬉しさが広がる。  心に、身体に、充填される。  時間をかけて、ゆっくりと。  恋して良かった、と思えた。  好きになったのが、この人で良かった、と思えた。  両想いって素敵だな、と素直に感じた。  私は、その想いのまま。  背筋を伸ばして。  先生の片手が離れて、私の頭に触れて。  そこから少し下って、首筋を流れて。  支えてもらって、近づいてもらって。  キスをした。  ずっと、こうしたかった。  多分、初めて会った、あの時から。  この一年間、ずっと。  唇を離す。  眼鏡に当たらないよう気をつけた。  コーヒーの味がした。  私のも、同じ味だったかもしれない。 「僕からも、お願いしていいかな?」先生が聞く。  私は首を傾げてみせる。  ねえ、何を? 先と促す。  堪えきれなかった、幸せの笑顔そのままで。 「僕と、付き合ってもらえる?」  初めて見る、先生の照れた顔。 「ええ、喜んで」  福音は、教会で鳴るのではないと知った。  幸福の音は、至上を感じる者達の上にこそ、現れるのだと。  予定通り、残っていた仕事を片付けつつ、明日以降の実験と、自主選択した研究テーマのデータをまとめて保存してから、先生と時間を合わせて大学を出た。 「それにしても、本当に、予想外だったなぁ」  歩道を歩きながら唐突に、先生が溢した。 「この現状がですか?」 「うん、そう」先生は頷く。 「学びたい、という意欲は、対象とする知識が不足している状態から生じるものだ。分からないことが不満で、自分の頭で理解できるよう、機能を拡張しようとする。アップデートと表現してもいい。その手法は様々で、自主的に手探りで知識の幅を増やしてもいいし、既に知っている者から教わるという方法もある。誰かや何かを模倣して、自分の中に取り込むのも有効だし、また効率的だ。そしてようやく、自身の成長を実感できる」 「ええ、そうですね」 「僕はね、これまでの人生において、誰かに恋をしたことがなかった。だから、恋愛に関しては完全に門外漢だ。勝手は分からないし、セオリーも理解していない。俗に言う、愛というものの正体も知らない」 「小説や映画の台詞みたい」  私は笑いながら感想を述べる。 「やっぱり変かな? もしくは、大袈裟だろうか」 「あ、いえ、悪い意味ではないんです。ロマンチックで新鮮、という意味です」  私の返答に、先生は口角を上げた。 「だからこそ、君に聞きたい。恋とは、この現状だとして、では愛とは、何だろう?」 「愛は、解放です」  私は、自分なりの全力を一言の解に込めた。  独自の思考。  主観的な知覚。  外界から隔絶された唯一無二。  精査の基準はともかくとして、囚われることのない自由の本質が生み出す発想の広大さ、鋭利さは、常が捉えることのできない境地へ辿り着くための力を有している。  それこそが、今こそが、発揮されるべきその瞬間だった。  ここで披露せずして、どうするだろう。  素晴らしい概念は、相応しい舞台でこそ発揮されるべきだと思うから。  先生は、目を見開いて立ち止まった。  口元に片手を当てて静止。目まぐるしく思考が走っている様子が透けている。  こんなに真摯に受け止めてくれるだなんて、と私は、うっとりしてしまう。  この真面目さが、頭の造りの違いが、彼に途方もない魅力を感じた理由の一つ。 「……すまない。時間がかかってしまって」 「処理してくださっていたのですね?」 「そう、そうだね。自分では、精査していたつもりだったんだけど、どちらかといえば、君の言う通り、処理だったかもしれない。それくらいには、衝撃的だった」 「そんなにですか?」私は笑いながら聞く。 「うん」先生は頷く。 「君の言葉には、幾つもの意味が掛かっていた。辻褄が合うことも多くて、自分の中で、合点がいく事項も多かった。発せられた単語自体は短いものだったけれど、真意や、それが意味する先を覗いた時に垣間見えるものの壮大さに、僕はたじろいでいた。あの一瞬で、あの一言に集約できた君自身にも」 「たじろがないでください。仲良くしたいです」  私はふき出しながら、先生の片手を握る。 「いや、悪い意味ではないよ」 「分かっています」 「どちらかというと、褒めたいんだ。正確に伝達されているかな」 「ええ、伝わっています」 「それなら、良かった」 「はい、嬉しいです」  とっくに夜が満ちた、人も車もいない歩道で二人きり、至高の笑みを交わす。  研究の虜となって尚、二十九という齢まで生きて遂に、触れることのできた恋。  あらゆる要素が完全に整うまで待機していては、何事も始めることはできない。  そう考えたからこそ、後悔することのないよう、私は私の想いを伝えた。  挑戦と成功がなければ、人生は、とても空虚なものになってしまうから。  どれだけの努力を、一見してリスクを、しかし注ぎ込まなければ、成し遂げることはあり得ない。それこそが、相応しいと納得できた感覚こそが、人が求めてやまぬ本質であり、それ以外の理論や理屈は所詮、感情をバックアップするための外部メディアに過ぎない。  喉から手が伸びるほどに執着してしまう、そんな目的が設定されて初めて、己の立場を賭けてでも手に入れようと行動できるもの。でなければ、現状の持続を選択する方が安心だし、安定だ。普遍を選択する者が大半であるのは、それが理由。  それでも、やってみようと、挑戦してみようと、実現するまでの環境を評価し、やり通すための力を蓄える。実行までの工程、その周到さ、雅さ、がむしゃらなさまこそが、やはり称賛に価する。小さな多数の感情か、はたまた大きくて少数派な想いか、動機の断定は難しいけれど、ほんの些細なきっかけだけで簡単に信じてしまえるだけの、確固たる強固な意志が宿っているからこそ、一見して不可解であったり、どう見ても不可能だ、と解した事柄ですら、成し遂げることが叶うのである。  きっと先生も、近似した思考をしているだろう、という予感があった。  私達は、そんな変わり者同士だから。  思考が洗練されていく。  清らかに、明確化して、研ぎ澄まされていく。  それは、ひたすらに美しく、攻撃性など皆無。  この先にある、と知れる。  曇り一つない晴れの果て。  完璧な関係性へと、指先はもう触れている。 「そうだ、もう一つ、聞きたいことがあった」  私の自室があるマンションの目の前まで歩き着いた時、先生が言った。  知的で冷静な声。魅力的なハスキィボイス。彼のことを好きになったのは、この声の魔力が作用した功績も大きい。 「なんでしょう?」 「助教用の個室で君が言っていた、僕の意外な一面って、例えば、どんなところ? 自分では自覚がないし、ここへ着くまでにも考えてみたんだけど、どうにも思い当たるものが見つからなくてね」 「あぁ、それはですね」  私は微笑み、先生に告げる。  明瞭な役割を持つ、言葉という記号。   私の口から飛び出して行くくせに、単体では私をフォローしてくれない、意地悪な記号。  でも、今日だけは許してあげる。  先生へ、答えを伝達したいから。 「こうして、私を好きになってくださったことです」  いつもと同じ大学からの帰路。  いつもと同じような時間帯に。  いつもとは違う世界を見てる。  いつもとは違う空気を感じて。  いつもとは違う気分になれた。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!