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「稲綱山の」  松井左馬丞が言った。 「子喰い猿を知っているか?」 「子喰い猿」  永吾は眉を上げた。 「よく大人が子供を怖がらせるあれか? 悪さをすると、稲綱山の子喰い猿が(さら)いにくるぞ、とかなんとか」 「そう、そいつだ。稲綱山の奥に昔から棲むと言われている」 「知っているぞ、俺も」  同輩の嶋東三郎(しまとうざぶろう)が口をはさんだ。いつも笑っているような細い目をした丸顔の男だ。 「こんな話がある」  宿直のつれづれ、皆で詰め所の火鉢を囲んでのよもやま話だった。深まった秋の夜は、しんしんと冷えてきている。 「ある男が遠眼鏡を手に入れて、喜び勇んで稲綱山に登った。峰の高い所に立って、あちらこちらを眺め回していたそうだ。向こうの峰を見ると、一匹の猿がいる。そいつは両手で木の枝につかまって、楽しそうにぐるぐる回っていたというよ。やがて逆立ちしたり、宙返りしたり、曲芸じみたことをやりだした。男もおもしろくなって、ずっと猿を見ていたら、突然、遠眼鏡から猿が消えた」 「消えた?」 「ああ。男は遠眼鏡から目を離した。すると目の前に、たったいま遠眼鏡で眺めていた猿がにやりと牙をむきだして立っている。男と同じくらいの大きさで、金色の毛だ。男は悲鳴を上げて逃げ出した。あれは子喰い猿だったに違いないと、後になって人に話したそうだ。自分が子供だったら、取って喰われたところだったと」 「一瞬で峰を渡ったわけか」  永吾は半信半疑だった。 「子喰い猿はおそろしく俊足らしい」  うかない顔で左馬丞が言った。 「この頃は城下にまで下りて、子供を浚って行く」 「本当か? それは」 「嘘などつくものか。はじめは近在の村の子供が二人ばかりやられた。次は九軒町で、一昨日は田原町(たわらまち)だ。田原町のは姉におぶわれた赤ん坊で、姉がはっきり大猿の姿を見ている」  左馬丞はさらに顔をしかめた。 「昔は二三年に一度、山里の子供が浚われたくらいだというが──困ったことだ」  左馬丞は小さな子供たちの父親だ。人ごとではないのだろう。永吾も頷いてやった。 「だが、なんでまたこんなしょっちゅう現れるようになったんだ?」 「わからん。町の子に味をしめたのか、人里近くに巣を変えたのか」 「昔とは違うやつかもしれんぞ」  東三郎が言った。 「昔はこう、なんというか愛嬌があったが、今のはただの人喰いだ」  永吾は腕組みしながら考えた。  矢兵衛は、この話を聞いているだろうか。  犬の矢兵衛は、今でもちょくちょく城下の夜に現れていた。永吾も矢兵衛の姿を求めてつい出歩いてしまう。  見かけても黙って遠目に眺めるだけにしていた。矢兵衛に卑屈な思いをさせたくなかったし、なにより悠然と夜気を裂いて駈ける白い獣は、一匹でいる時こそが美しい。    しかしまた、ともに戦えるかもしれない機会が訪れた。  矢兵衛と肩を並べて化けものに相対することは、とてつもない悦びだった。その時、永吾の命は矢兵衛と繋がっている。自分たちが、唯一ひとつになれる時なのだ。  くりかえす平凡な毎日に、矢兵衛の存在が耀きを与えてくれていた。たとえ死ぬことになろうとも、犬の矢兵衛が側にいてくれるなら満足だと思う。  評定橋の上で、永吾は矢兵衛と出会った。  永吾の姿を見ると矢兵衛は速歩をやめ、ゆっくりと近づいて来て永吾を見上げた。 「では、子喰い猿のことをご存じなのですね」 「矢兵衛もか?」 「店を開いていると様々な話が入ってきます」 「なるほど」    たしかに、町場の方が騒ぎが大きいにちがいない。 「隅倉さまがいらっしゃるころだとは思っていました」  永吾は笑みをこらえることができなかった。矢兵衛も同じく戦いを求め、自分を待っていてくれたのだ。 「で、どうする?」 「わたしなりに探ってみました。気になる場所がひとつ」 「どこだ?」 「稲綱山の入り口に、梅雲寺(ばいうんじ)という廃寺があります。住職が死んだのはだいぶ前で、継ぐ者も無く荒れ果てたままになっているのですが、そこから新しい血の臭いがするのです」 「人間の?」 「はい」 「子喰い猿の(ねぐら)なのだろうか」 「いかに子喰いが俊足でも、稲綱の山奥と城下では離れすぎていますから。そこを足場に、町に出入りしているのかもしれません」 「覗いてははみなかったのか」 「一人では危険かと」 「そうか」  永吾はゆっくりと頷いた。 「ならば、二人で行ってみるか」 「はい」  永吾と矢兵衛は顔を見合わせた。  互いのまなざしに、同じ渇望を見だした。  永吾は思わず矢兵衛の頭に手を伸ばしかけ、とどまって矢兵衛の脇にしゃがみ込んだ。目を同じ高さにして、 「よろしく頼む」  矢兵衛は頷き、軽く尾を動かした。
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