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エピローグ
事務所の屋上には、あの日と同じ爽やかな風が吹いていた。
騒動は思っていたよりも早く終息して、睦は母親たちと一定の距離を置くことが出来た。悪い思い出ばかりじゃなかったから、情が捨てきれなかったと苦笑いしていた。
あの夜、お互いより大切なものは他になかった。
身近で支えてくれる家族や友だちはありがたいし、大切にしたい。だけど、何も言葉を交わせなくても、ただそばにいるだけで安心できたから、その存在が心地よかったのかもしれない。
映像はほぼ完成したらしいけど「内緒」と言ってまだ見せてもらってない。うまく撮れたのか不安もあるけど、どこがどう使われるのか想像するのは楽しかった。
「ボーナストラック作ったけど、聴く?」
そんなの決まってる
私はこくこく頷いて、イヤホンをもらうために手を差し出した。睦はそんな私をいたずらっ子みたいな笑顔で見つめている。
…?
「返事はキスでしてよ」
驚く私をからかうように、睦は笑っている。
「あのキスがいちばんヤバかったからさ」
試されてる…
意地になった私が、鼓動が逸るのを必死で隠して小鳥みたいなキスをすると、睦は物足りなそうな顔で苦笑いになった。
「やっぱりまだ子どもだな」
睦は私を抱きしめて、唇に優しいキスを落とした。
私の声が戻るのが先か、キスが上手くなるのが先か。
睦は後者を選んだみたいだ。
想いは届いていた。
私が睦のそばにいたいと思ったことも、彼を助けたいと思ったことも。自分一人で抱え込んで私を拒んだことに、私がいちばん腹を立てたのも。
「ありがとな。おまえのおかげで俺もちょっと元気になったから」
まだ少し緊張しながら私は深く息を吸った。
そばに いる
微かに自分の喉が震えた気がした。
でも、その声は音にはならず、夏の終わりの風に拐われていった。
「何か言った?」
私は黙って微笑む。
たぶん、これも届いているはずだ。
睦は私の髪をそっと撫でて、イヤホンの片方を嵌めてくれた。聴こえてきた歌声を隣にいる彼と分け合った。優しい声は、穏やかな波のように私を揺らす。
彼の歌をなぞれば、いつかは自分の声も取り戻せる気がする。澄んだ空を見上げ、頬に風を受けながら、その日は案外近いのかもしれないと私は思った。
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