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「杏菜、最後にもう一回乗ろうよ」
頼まれたものを全て撮り終えて、睦が私を観覧車に誘った。もうすぐ日付が変わろうとしている。
「『彼女』へのご褒美だ。ちょっとだけ付き合ってよ」
私の機嫌を伺うように覗き込む。さっき乗った時は撮影に気を取られていたから、私も夜景を見たいと思っていた。
「ギリギリだな。片づけてすぐ出られるようにしておくから、楽しんでおいで」
仙堂さんも快く送り出してくれた。
睦は私の手を引いて先に歩いていく。園のスタッフも笑顔で応じてくれてほっとする。向かい合って座ると、外側からストッパーを掛けられて、ゆっくりとゴンドラが地面から離れていく。
曲がりなりにも役目を終えたことで肩の荷が降りたが、まだ現実味がなくてふわふわしている。
今日初めて会った人を、こんなにも近く感じているのがとても不思議だった。
「こっちの方がよく見える」
だいぶ高く上ってから睦が私を隣に座らせた。見下ろすと色とりどりの街の灯りが見えて、夜空と地上が逆さまになったみたいだ。
もうすぐ観覧車がてっぺんに届くという時だった。
「…杏菜。ひとつだけ約束破っていい?」
睦の真顔に、私もまっすぐ視線を返した。
「キスしたい。彼女でいるうちに」
たぶん私は取り繕えなくて、真っ赤になっていたと思う。睦のはにかんだ笑顔が、それを物語っていた。
「…ダメか」
私はうつ向いたままかぶりを振った。睦がほっと息をついたのがわかった。
ダメじゃないなんて
してって言ってるようなものじゃ…
自分の行動にますます鼓動が速くなった。
睦は私を一人の女性として扱ってくれてる。色気はなくても、ちゃんと私を見てくれているんだと思った。
「いいか。これは絶対に秘密だからな」
心臓じゃないところがドキドキしているようで、呼吸すら上手く出来てるのかわからなくなる。
悔しいけど、私はやっぱりまだ未成年だ。
「後で訴えられたりして」
睦が優しい眼差しで見つめる。
私はゆっくり首を横に振った。私が嫌だと言えば、彼は約束を守るはずだ。
じゃあ これは恋…?
わからない
でも今はただ 彼を受け止めたい
彼が私を 受け止めてくれたみたいに
言葉はなくてもお互いに通じる相手がいた。声を持たない私を睦は受け入れてくれて、その彼に抱いた感情は恋よりも愛おしかった。
気持ちだけは負けない。これは、ちゃんと自分の意思だって言い切れる。
骨張った細い指で私の頬を撫でて、睦は私の前髪をかきあげた。彼の瞳に射すくめられて、私は思わず目を伏せた。
睦の鼻先が触れた。
彼の唇が私を捉えて、優しくなぞった。
目を閉じて受け止めるだけの私を包み込む。
私は彼に誘われて恐る恐る返す。
睦は何度か唇を重ねて、初めと同じくらい優しく私を解放した。
「…何だよ。震えてんじゃん」
そう言って私を抱きしめた睦の声が震えていたのを、はっきりと覚えている。
「ありがとな。最高の彼女だった」
睦の肩越しに煌めく夜景が見えた。今夜の光の海を、この先もずっと覚えておこうと思った。
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