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伝えたい想い
『完成したら連絡するから、それまでは秘密厳守だ。大人しくしてろ』
私を家まで送り届けて睦はそう言った。もう一度だけ優しく抱きしめ、私の髪に淡い香りを残して彼は夜明けの道を帰っていった。
夏休みはぼんやり過ぎていく。
あの夏の一日は夢だったんじゃないかと思えるくらい、もう遠い記憶になっていた。
少し寝坊して起きたある朝、テレビから聞こえてきたニュースに私は釘付けになった。
睦…?
『人気絶頂のあの歌手に薬物使用疑惑!』
『生みの母との確執が!?』
殴り書きみたいな文字が、センセーショナルな醜聞を際立たせている。画面に映っているのは警察署だった。レポーターとテロップは、睦が任意の事情聴取のために署内にいると説明していた。
薬物なんて使うわけない
新しいアルバムが出来たことを、子どもみたいに目を輝かせて睦は話してくれた。彼がクスリに手を染めてるとは思えない。だけど、いったい何が起きてるんだろう。情報が無さすぎて不安になる。
どうしよう…
仙堂さんの名刺を取り出した。事務所の番号にかけてみる。自分が話せないことも忘れて、祈るように番号をタップしたが誰も出ない。今度は携帯電話にかけ直してみたが、電源が入ってないという音声案内が空しく返ってきた。
私は居ても立ってもいられず、家を飛び出した。
事務所のあるビルの前にも、記者らしき人たちが何人か見えた。今は何も動きがないのか、缶コーヒーを片手に談笑している。少しためらったが、堂々とすればいいと腹を括って私はビルの入口に向かった。
ドキドキしながら進むと、エレベーターの前にいた中年の男性が私に声をかけた。
「どこへ行くんだい。ひょっとして5階の事務所の人かな?」
私はかぶりを振って一枚のカードを彼に見せた。聡美さんにもらったものだ。
「ああ、美容室ね」
何だ、というように気のない返事をして、彼はエレベーターのボタンを押してくれた。私は小さく会釈をして箱に乗り込んだ。
4階に着くと急いで美容室のドアを押し開けた。鍵は開いていたが、開店前のせいか薄暗い。店の中を覗きながらそろそろと入っていくと、聡美さんが奥から顔を出した。
「杏菜ちゃん」
元気そうな彼女の様子にまずはほっとする。彼女はすぐに私がここに来た理由を察してくれた。
「睦のこと、心配だよね」
私はこくんと頷いた。
「座って。今日は予約は午後からなの。紅茶を淹れてくるわね」
真夏なのに、エアコンが適度に効いた店内は、少しひんやりと感じるくらいだった。
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