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あなたなんて知らない
◇◇◇
煩わしいテストが終わった。
もうすぐ夏休みだ。
これと言って予定はないけど、つまらない日常から解放されるのは少し嬉しい。
「杏菜。どうだった」
晴太が情けない顔で私に尋ねる。
私は親指を立てて彼の鼻先に突き出した。
「いいなあ…。俺は再試かも」
晴太は近所の幼なじみだ。
小さい頃から学校も同じだし、私と家族に何が起きたかも全部知っている。そしてそのせいで、彼がいつも私に親切にしてくれるのも、私が密かに彼に甘えているのも、自覚しているつもりだった。
「カフェ行こうよ。新作出たんだって」
ふるふると私は首を振って、帰り支度を始める。
でも 本当はそれすらも許されないんだ
「たまにはいいだろ」
私は笑顔でバイバイするように手を振った。
「何だよー。つれないな。俺と杏菜の仲じゃん」
子どもみたいに拗ねる晴太の後頭部を鞄で小突いた。ばこっと軽快な音がして、晴太が大声を上げた。
「いってぇ」
思ったよりも大きな音に、私も焦って晴太の顔を覗き込んだ。肩を掴んで揺すると、彼がぱっと顔を挙げた。
「うっそー」
私はほっとして彼の肩を軽く叩く。
おどけた晴太の仕草に、少しだけ心がなごんだ。
「あんな乱暴しなくてもねー」
「かわいそう。晴太くん」
女子の声が聞こえてくる。
ああ もうほら
ちょっと気を抜くと すぐこれだ
晴太にはファンが多い。優しいし適度にお茶目で、顔だってまあまあ。そんな彼が私を構うのを、彼女たちは面白くないようだ。
私は今度こそ鞄を抱えて帰ろうとする。
晴太は無理強いせず、笑顔で私を見送ってくれる。
女子からは疎まれ、他の男子も私を腫れ物扱いする。何かを変えたいと思っても、やっぱり私には何も出来なかった。
味方は晴太だけだ。
「また来週な」
私もこの時ばかりは笑顔を返す。
そして、居心地の悪い教室を後にした。
私が喋れなくなって一年になる。
もともと口数は多くなかったが、本当にある日、人前で声が出せなくなってしまった。
母は父から暴力を受けていた。言葉と手と足で。
それを目の当たりにしていた私も、知らないうちに心が傷ついていたようだとお医者さんは判断した。
『あの男のせいだよ。何もかも』
祖母はよくそう言っていた。
『私がもっと若くて元気だったら、あの子にも杏菜ちゃんにも、ここまで酷いことにさせなかったのに』
私の頭を撫でて、祖母は涙を滲ませた。
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