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「ところで、名前は?」
彼らはまだ気づいていないようだ。
その場の雰囲気に私もなごんでいたが、言葉を発することを請われると、喉に何か詰め込まれたみたいに苦しくなった。
「俺は睦ね。これを機に覚えてよ」
さっきから一言も喋らない私に、睦は無邪気に笑いかける。握手を求めるように私の手を掴んで顔を近づけた。
すっと背筋が寒くなった。
手を 離して
言葉は声にならない。
「怖がらせるなよ。一緒に過ごしたいんなら」
ハンドルを握りながら、仙堂さんが心配そうに声をかけてくる。
「名前聞いてるだけだって。なあ、教えてよ」
彼が力を込めた瞬間、私は勢いよく振り払った。彼の手からあっけなく解放されて、私は自分の腕を抱え込むようにして彼と距離を取った。
「…どうしたんだ」
彼の声音も変わった。
「ごめんな。痛かったか」
さっきまでと打って変わった真摯な態度に、私も警戒を緩めた。彼も違和感に気づいたようだ。
「おまえ、声が…」
私が小さく頷くと、綺麗な顔が憂いに歪んだ。寂しそうな眼差しから思わず目をそらした。
こんな時、私は自分への嫌悪感でいっぱいになる。自分がいるだけで相手を不安にさせてしまうことに、いたたまれなくて逃げたしたくなる。
だけど
私だって 好きでこうなったわけじゃない
一人で平気なわけでもない
不意にふわっと包まれて、かぎ慣れない香水にドキッとした。彼に抱きしめられたと理解するまで、少し時間がかかった。
「ごめん。怖がらせるつもりなんてなかったのに」
誰かにこんなふうにされたのは初めてだし、相手は見知らぬ男性だ。それでも彼の温もりはとても優しくて、私を落ち着かせてくれた。
ここに いていいから
睦がそう思って受け止めてくれたのがわかった。
私が背中を掌でそっと二度叩くと、はっと我に返った彼が体を離した。
「…っ、悪い。何か、ほっとけなくて」
動揺した彼を宥めるように微笑むと、笑顔が返ってきた。
「いきなりこんなことされたら、引くよな」
私は首を振って、彼の言葉を否定した。
彼に触れられるのが嫌だったわけじゃない。
思い出しただけ。
ママがあの人にされたことを。
腕を掴まれ、罵声を浴びせられていたことを。
それを知っているはずがないのに、全てを見通したような彼の仕草に、私は久しぶりに肩の力が抜けた思いだった。
軽く息を吸った。
名前なら
短い言葉なら…
「……」
声は出ず、息が漏れる音だけが聞こえた。
私は鞄に付けたキーホルダーのプレートを彼に見せた。ローマ字で私の名前が書いてある。
「あんな、か。可愛い名前じゃん」
睦はくしゃっと笑って、私の頭を撫でた。
「取りあえず制服は目立つから、調達しに行こう」
やっと大通りに出た車は、静かにスピードを上げた。
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