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熱を帯びたアイロンが動くたびに、美容室独特のあの匂いがして、私の髪はくるんと綺麗に巻かれていった。
こんなワンピースに巻き髪なんて、パーティーにでも連れ出されたらどうしよう。そんなことを考えていたら、彼女が手ぐしで髪を崩し、前髪もラフな感じに整えてくれたのでほっと胸を撫で下ろした。
「メイクなんてしたことある?」
私は首を横に振った。
スキンケアだって、お風呂上がりのニキビ予防と毎朝の日焼け止め、それにリップクリームぐらいだ。
「じゃあ、これはプレゼントね」
そう言って彼女は口紅を私に手渡した。
淡いピンクだが若干オレンジがかっても見えて、真っ赤なものより綺麗だなと思った。
「このくらい淡かったら、直接引いてもベッタリにはならないと思う。ほら、こうして優しくなぞるの」
彼女に手を取られ、言われた通り鏡とにらめっこしながら、初めての口紅を引いた。最後に唇を閉じてティッシュで軽く拭いた。
「あら。そういえばバッグはそれだけ?」
たたんだ制服と靴は、ショップのペーパーバッグに入っている。それと私が持っていた、学校指定の鞄だけだ。
「やだ。気が利くようでやっぱり男ね」
苦笑いして彼女はポシェットとサマーカーディガンを持ってきてくれた。どちらも今の私の服装にぴったりなテイストだった。
「口紅は食べたり飲んだりしたら落ちるから、お手洗いに行ったときに塗り直すのよ」
私は神妙に頷いた。
一人前のレディになるためのレッスンみたい。
母も会社勤めで毎日お化粧はしていたけど、私が興味を持つ前に体調を崩してしまった。あんなことがなかったら、今ごろ私は母に同じことを教えてもらっていたかもしれない。
そんな感傷が沸き起こったのは、きっと彼女の優しさのせいだ。
「バッグとカーディガンはいつか返してくれたらいいわ。急がないから」
私はぺこっと頭を下げて彼女の店を後にした。
エレベーターで5階へ向かった。
ガラスの嵌まった古めかしい金属製のドアが見えて、そっと開けると風が吹いてきた。
事務所は教室の半分ぐらいの広さだった。用途としては広くはないけど、そんなに窮屈でもない。
入ってすぐ目の前にあるソファに荷物を置かせてもらうと、また風を感じた。
窓が開いていた。
それで部屋の中から風が吹いてきたのだ。
それにしても誰もいない。
部屋をぐるっと見渡すと、片隅にもうひとつドアがあった。開けてみると外の景色が見えて、金属の螺旋階段が上下に伸びている。ミュールのかかとで一歩踏み出すと、カンッと響く音が返ってきた。私はゆっくり階段を上った。
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