第一章 蝶を連れた魔術師

1/31
前へ
/340ページ
次へ

第一章 蝶を連れた魔術師

 また一つの家が焼け落ちた。痛いほどに眩しい炎が舞い、煙は夜空をより黒々と染める。だが村の男達には、誰一人として、そちらを気にする余裕はなかった。 「ああ……この、怪物めぇ……っ!」  炎で昼間以上に明るい広場。槍や剣、そして農具を構えた男達のうちの一人が、泣きながら声を漏らす。それでも震える手で得物を握り、身構える。  ぎいぎい、と壊れた楽器のような音がする。  ――眩しすぎる広場の中央。巨大な影が、不気味な声を上げていた。  巨大な蠅のような生き物だった。その口は、人間の男一人を頭から貪っている。と、鋭い牙で噛み千切られ、男の腹から下が、ぼとん、と地面に落ちた。 「――うああああ!」  蠅を取り囲む男達の一人が、怒声を上げた。泣きながら、剣を構えて蠅へ向かっていく。 「よくも、よくも、よくも―――!」  止めろ、という仲間の声も耳に届かない。男は自身よりも何倍も大きな凶悪に向かっていく。ところが。  ばっ、と、蠅は唐突に飛び立った。それはまさに跳ねるかのようで、宙で複眼が炎の色に輝く。そして急降下する。口を大きく開いて。  立ち向かっていった男は、悲鳴も上げなかった。掬われるようにして、頭から、その口の中へ。手から剣が離れた。だがまだ外に出ていた足が、ばたばたと動いている。しかしすぐに蠅の口から涎のように血が溢れ出てきて、足の動きは緩慢になる――。 「そいつを放せぇっ!」  と、また一人の男が、鍬を手に蠅に立ち向かう。 「放せ……っ! もうこれ以上……っ!」  振り下ろされた鍬は炎の輝きに鋭く光り、蠅の巨体に突き刺さった。すると、咀嚼するのに夢中だった蠅が、びくりと身体を震わせた。 「――いまだ! 村を守るんだ!」  決して勇ましくはない。わずかに上擦っているものの、確かな号令が響く。  瞬間、男達はまるで蟻のように蠅へと群がった。手にした剣を、槍を、鍬を、その巨大な身体に突き刺す。たちまち蠅の身体は赤黒い血にまみれる。  けれども、蠅は今し方噛みついた男を飲み込むと、近くにいた男に素早くに噛みついた。その巨体からは想像もできない機敏さで、肩を噛まれた男はあっという間に食べられてしまう。 「ひぃっ……!」  それを見て、一人の男が悲鳴を上げる。手にした槍を、蠅の巨体に突き刺すが、刺さりは浅かった。  どん、と巨大な蠅は群がる人々に体当たりをした。槍を突き刺した男も、体当たりをもろに受けて地面に転がった。  慌てて彼は、身体を起こそうとしたが。  ――様々な武器が突き刺さった、巨大な蠅。羽を震わせると、その巨躯から、ぽろぽろと武器が抜け落ちた。そして血塗れだった身体を見れば、全ての傷は塞がっていた。  蠅は、無傷だった。あたかも、時が戻ったかのように。  確かに武器は、蠅の巨体を傷つけ切り裂き、突き刺さったのだ。蠅の身体と武器についた血が、それを物語っている。  しかし。  ぎいぎいと、蠅は怒りの声を上げて、噛みついていた男にさらに牙を食い込ませた。腕がもげて、蠅はまるで吸うようにその腕を食らう。そして複眼を、周りの男達に向け、口を大きく開けて。  悲鳴が上がる。血の匂いがより濃く漂う。また一人が、食われていく。それを見て走り出そうとした一人も、噛みつかれてしまう。  一人、地面に転がったままの男が我に返って辺りを見れば、もう誰もいなかった。あるのは意味をなさなかった武器と、血だまりと、死体だけ。そして転がる死体を食し始めた、巨大な蠅だけが、そこにいた。炎が燃え盛る音がうるさい。 「あ……あ……!」  立ち上がろうにも、腰が抜けて立ち上がれない。それでも男は、なんとか後ずさりをする。  と、ぎぎぎと鳴いて、蠅が男を見る。その口からは血が滴り、わずかに開けば肉がこぼれた。  瞬間、男は跳ねるようにして立ち上がれば、森の中へと消えていった。暗闇に染まった、森へと。
/340ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加