メメント・杜(メメント・もり)

4/4
7人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
 殺して埋めれば、それで終わると思っていたのに。  頭の中でかちりと、パズルのピースが(はま)った音が鳴る。  藤堂千春(とうどうちはる)。単身赴任先で知り合ったアルバイトの女の子。手足が虫のようにか細くて、いつも黒い服を着ていた彼女は、淡々と仕事をこなして、周囲の誰とも打ち解けることなく日々を過ごしていた。  孤立しているわけではないが、周囲の関心を引くまでもない。  千春が万が一(まんがいち)危機に(おちい)ろうとも、誰も気づかないし、助けることもない。相談できる相手もいない。  天涯孤独だったことも含めて、どんな時でも俺の優位に立てることから、彼女は浮気相手として理想の存在だった。 「単身赴任中のあなたの社宅に来た時、時々、誰かの気配を感じたの。甘くて、ちょうどこんな、桜のような香りがしたわ」  あぁ、だから入館した時に、妻の顔色が冴えなかったのだ。  夫の浮気を疑い続けて、記憶の香りが、現実と仮想の境界があいまいなこの場所が、妻の不安に拍車をかけたのだ。 「その落ち着いてくれ。俺の話を聞いてくれないか? 彼女とは別れた。本当に愛しているのは、君一人だから」  虚しい言葉が口から(つら)なる。  意識が仮想の桜に閉じ込められて、妻の顔が千春に、千春の顔が妻の顔に何度も何度も書き換わる。  果たして俺は、どっちに話しかけている? 「ごめん、しばらく別居しましょう」  先ほどと打って変わって覚悟を決めた妻は、軽蔑と拒絶の眼差しで俺を見た。  もうダメだ。彼女という人間を知っているからこそ、もう自分たちの関係が修復不可能であることに気づく。  光の桜が舞い散って、手の甲に張り付いている黒い虫が、妻に捨てられた惨めな俺をせせら笑っている。 『イヤよ。別れたくない!』  去年、別れの気配を察して千春は抵抗した。  せっかくのお花見デートで弁当に虫が入り、むしゃくしゃしていたことも()を引き、感情のままに彼女の首に手をかけた。  細い手足を虫のようにバタバタさせて、そして。 ◆ 「さよなら」  決めたら最後、決して妻は後ろを振り返らない。  千春にはない強さを持つ彼女。  彼女のような強さがない千春。  俺は千春を手に掛けたあと、自分の認知上(にんちじょう)の妻を土台に、千春の存在を接ぎ木(つぎき)のように挿し続けて、自分に都合の良い美しい桜をずっと眺めていた。  だが、その幻想が崩れて目の前にそびえたつのは、俺が育ててしまった――醜悪で(いびつ)な黒い虫。  何度も接ぎ木(つぎき)を挿し続けた枝を、無数の脚のように蠢かせながら、そのおぞましい巨体で、今にも俺を押しつぶそうとしている。  そんな幻影に囚われている、そもそもの原因は。  バカな。  俺が千春(おまえ)なんかを好きになるなんて!  現実に帰ろうとする妻の後姿を視界にとらえつつ、俺はもう二度と現実に帰れないことを悟った。 【了】 318efe17-fa84-43e4-a6d5-b777256a04d4 
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!