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去年のお花見デートは散々だった。
せっかく千春に作ってもらった弁当に、黒くて大きい虫が桜の木から落ちてきたからだ。
その虫は背中についたご飯のせいで、身動きが取れなくなり、背泳ぎみたいに脚をバタバタ動かしていた。
腹が立って、俺は黒い虫を殺した。
◆
「ね、今年のお花見デートは、美術館でしよ?」
妻の千春はそう言って、新聞に載せられた広告を俺に見せる。
内容は【美術館で最新鋭のVRお花見祭り】と銘がうたれた、桜の絵画を集めた企画展の案内だった。
確かにここなら、弁当に虫が入る可能性はない。
脳裡に浮かんでしまった、手足をばたつかせる黒い虫の幻影を追い払って、俺は笑顔で賛成した。
◆
目的の美術館は、駅からすこし離れた場所にあった。
道に迷うことも楽しみながら、美術館に辿り着いたころには正午をまわっていた。お腹が空いたこともあって館内のレストランで昼食をとり、その後で桜の絵を鑑賞しようと、千春と話し合いながら美術館に入館する。
入った途端に鼻腔をくすぐるのは、ほのかに甘い桜の香りだ。
突然のことに驚く俺たち夫婦に、館内アナウンスが告げる。
『本日は、ご入館、まことにありがとうございます。当館は作品への没入感を高めるために、桜の香りがするミストを散布しております。どうぞ、最新鋭のVRアミューズメントをお楽しみください』
なるほど、と。俺は納得した。
最近の映画館でも、場面にあわせて席が振動したり、風が吹いたり、雨が降ったりと演出に凝ったサービスがある。それと同じように、この美術館は作品の世界に没入できるよう、館内全体で工夫を凝らしているのだろう。
「…………」
妻の表情がどこか冴えないが、気づかないふりをして俺たちはレストランへと足を進んだ。
◆
『当レストランは、最新鋭の現実拡張機能を備えた、3Dプロジェクションマッピングを使用して、全国の桜の名所を再現しております。ご興味がありましたら、テーブルに備え付けられているタブレットをご覧ください。現在、上映されております名所の解説と製作者のコメントが――』
「すごいな」
「えぇ」
テーブル席を行きかうスタッフ。純白のクロスが掛けられた丸いテーブル。下の床は芝生の映像が映し出されて、四方と頭上には無限に広がる桜の杜。
小鳥のさえずりとともに、桜の枝を揺らす風の音が聞こえたと思ったら、俺たちの座るテーブルをやわらかな風が通り過ぎる。
これは桜吹雪の再現なのだろう。
舞い散る桜吹雪に合わせて照明がまばらになり、疑似的な木漏れ日となって、テーブルの上に、ちいさな花びらが浮かび上がった。
「まぁ、そうだよな。さすがになにもない空間に、桜吹雪を降らせるなんて出来ないか」
俺はそう言って苦笑した。
ここにあるのは始まりと結果。
イルミネーションで間をつなぎ、光に合わせてテーブルに降り積もる桜の花びらは、多少の違和感を覚えつつもすぐに慣れた。
「見てみて、桜のジュース」
そう言いいながら無理やりはしゃぐ妻は、給仕されたお冷を指さして言う。
なんのことはない、桜の花びらが降り積もる場所にコップを置いたから、お冷の中に花びらが入って見えるのだ。
よくよく観察すれば別の席でも妻と同様に、花びらが積もる場所へ飲み物や食べ物を置いて、悦に入ったり、はしゃいだりする客の姿が目に入る。
屋外ではできない、バーチャルだからこそできる楽しみ方だ。
現実では花びら一枚か二枚ぐらいがせいぜいで、具材のトッピングのようにがっつりと盛り付けることなんて出来ない。
「おぉ、おいしそうだな」
「でしょう! でしょう!」
千春はころころ笑う。俺もつられて笑い、テーブルに降り積もった桜の映像に合わせて、コップを動かそうとした瞬間。
「――っ」
お冷の中で積る花びらの残骸と、残骸の上で腹を見せて足を蠢かせる黒い虫。
「ぃ――」
びっくりして俺が席を立つと、お冷の中で蠢いていた虫の幻影は姿を消し。
「ど、どうしたの?」
「あっ、その」
あとに残ったのは妻の不審げな瞳と、周囲からの数秒の関心だった。
なんかしら言い訳をして席に着くと、全身から汗が噴き出し、言いようのない薄気味悪さが背筋を撫でる。
俺はなにを見せられた?
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