メメント・杜(メメント・もり)

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「だいじょうぶ?」 「あぁ、だいじょうぶだ。だいじょうぶ」  妻の心配する声を遠くに、俺は黒い虫が見えてしまった原因を、自分の中で冷静に分析しようとした。  せっかくの妻とのデートを、こんなところで台無しにしたくなかった。  先月、三年の単身赴任が終わって、やっと東京に帰ってこれたのだ。  このまま順当(じゅんとう)に行けば役職付(やくしょくつ)きが確定し、子作りをする余裕もでき、妻も共働きから解放される。  それに単身赴任中の寂しさから、何度も妻を現地に呼び出して負担をかけた。  彼女の苦労と、献身(けんしん)に釣り合う埋め合わせもしたい。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ、だから」 「…………」  あと一歩、あともう少しで、理想の家庭が完成するのだ。  たかが虫一匹に、怯えているヒマなんてない。 ◆  一時間後。  料理が食べ終わっても、イスから立ち上がる気力がわかなかった。  千春は俺の顔色をうかがって「ゆっくり休んでから、絵を見てまわりましょう」と、コーヒーを注文する。  そんな千春の心遣いがありがたいと同時に、(わず)わしいと感じてしまったのは、俺の心に余裕がないからだろう。  コーヒーに仮想の花びらを浮かべて飲む妻は、タブレットを眺めながら感心した様子で話しかけてきた。 「すごいよ。私たちが知っている桜――ソメイヨシノって、もともとは突然変異で生まれた、一本の桜の木だったんだって」 「へぇ」 「だから、普通の交配で子孫を生み出せないのよ。挿し木(さしき)接ぎ木(つぎき)で、江戸時代から現在まで伝わってきたの。これって、クローンみたいね」  俺が沈黙を嫌うから、妻は俺が話を聞いていないことを前提に話しかける。  俺と目を合わせず、どこか怯えるように。 「若い枝を切って地面に差すのが挿し木(さしき)で、ソメイヨシノと近い品種の木に切り込みを入れて、そこにソメイヨシノの枝を挿して合体させるのが、接ぎ木(つぎき)。接ぎ木のスゴいところって、ソメイヨシノを挿した場所が起点(きてん)になって、そこから上は元の桜じゃなくて、ソメイヨシノになっちゃうの。存在を書き換えながら個数を増やすって、なんだかホラーみたいじゃない? それを分かりながら、園芸ってカテゴリーで普通にできちゃう人間も怖いよね」 「あぁ、そうだな」 「それでね、でね。クローンだから、普通の桜より寿命が短いのよ。今私たちが普通に見ている桜も、来年には見ることが出来なくなるかもしれないわ」 「そうなのか?」 「そうなのよ。職人さんの後継者不足、管理する自治体は高齢化。温暖化に外来種の食害……」 「あぁ」  人の手でしか存在が維持できない――ソメイヨシノ。  人の都合で数を増やされて、人の都合で絶滅の危機に(ひん)している。  その危機を知りながらも、もはやこの国自体が疲れ切っているのだ。  花びらというゴミをまき散らして、負担がかかる桜の存在自体も、いずれすべて切り捨てられてる。  黒い虫が入り込まないのなら、俺はどちらでもかまわないのだが。 「お花見、数年後には出来なくなっちゃうのかな」 「そうはならないさ。おそらく数年後のお花見は、今、俺たちが体験しているプロジクションマッピング方式か、別の何かに取って代わる。花を()でる気持ちは、世代を超えて不変(ふへん)だと俺は思うんだ」  言いながら俺の頭の中に、元の桜を乗っ取って、ソメイヨシノに上書きされた桜の木が浮かび上がった。  なにかに取って代わる。ソメイヨシノの存在を上書きして、未来の俺達はなにを観ようとするのだろうか。  幻の花見の席で妻の笑顔が消えていく。  思考が内へと(こも)り、彼女の瞳はどこか遠くを映している。 「そう、よね。そうだよね」  千春は一瞬だけ笑顔になるが、すぐに(かげ)りのある表情に戻った。 「どうした?」 「ううん。なんでもないの。しゃべりすぎて、のどが(かわ)いちゃったかも」  ごまかすように笑いながら、千春はすでに(から)になったコーヒーカップに口をつけて「おいしい」と笑うのだ。  俺は黒い虫を見つけてしまったような、胸のざわつきと不安を覚えた。
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