メメント・杜(メメント・もり)

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「うっ……っ。ううぅ」  突然、千春が泣き出して俺はびっくりした。 「どうした? なんか、イヤなことでもあったのかっ!?」  思えばこの美術館に入館してから、妻の様子がおかしかった。 「ううん。単身赴任から帰って来てから、あなたの様子がおかしくて、ここにいるのが信じられなくて、今観ている桜の景色みたいに、あなたも実は幻なんじゃないかって、急に不安になったのよ」 「なにをバカな」 「そうね。ちょっとトイレ行ってくるわ」  そう言って、俺が返事をする前に、千春は慌ただしく席を立った。  独り取り残された俺は、少し憮然(ぶぜん)としながらも、彼女に対して申し訳ない気持ちに(さいな)まれる。  やはり三年前、無理やりにでも仕事を辞めさせて、千春を赴任先へ連れて行けばよかった。  自分の甘さが招いた後悔が、胸の奥で淀みを作る。  そうだ。最初からそうすればよかった。  だから、あんなことを――。 「お客様、お(ひや)のお代わりはいかがですか?」  放置された空のコーヒーカップを見つけて、スタッフが俺に話しかけてきた。  完全に上の空(うわのそら)だった俺は、笑顔を浮かべて取り(つくろ)いながら、良い客の見本のような態度をとる。 「あ、それじゃあ願いします」  今気づいたような、スタッフの心遣いに感謝するような、そんな態度。  目が笑っていないスタッフの滑稽(こっけい)さを、自然な笑みにすり替えて、自分の方がうまく笑えると口角(こうかく)を持ち上げる。  嘘の桜。上辺(うわべ)の接客。演技をする自分。虚像だらけの現実の中で、唯一の本当は、自分をよく()せたいという薄汚い本心(エゴ)。 「かしこまりました」  優越感で口元を緩ませるスタッフを、内心で小馬鹿にしながら、俺は忠犬よろしく妻を待つ。  スタッフに話しかけられた。まさに俺が、幻ではないことを証明する絶好(ぜっこう)の場面だったというのに、なんでこの場に、千春がいないのだろう。  ため息をついて視線を下に向けると、黒い虫が俺の手の(こう)に張り付いていた。どうせ幻だと言いきかせていても、不快感(ふかいかん)で全身が毛羽立(けばだ)ち、胃の辺りをかきまわす。  なんで、こんなことになってしまったんだろう。  ただ、寂しかっただけなのに。 「お待たせ、あなた」 「あぁ、お帰り。千春」  戻ってきた妻に、俺は何事もなかったかのように笑い返した。 「え」  一瞬の()()く。  偽りの桜吹雪の中で妻が立ち尽くして、青ざめた、けれども確信を持った目で、冷たい月のように俺を見下ろしてくる。 「あなた、?」 「――っ!!!」    
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