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殺して埋めれば、それで終わると思っていたのに。
頭の中でかちりと、パズルのピースが嵌った音が鳴る。
藤堂千春。単身赴任先で知り合ったアルバイトの女の子。手足が虫のようにか細くて、いつも黒い服を着ていた彼女は、淡々と仕事をこなして、周囲の誰とも打ち解けることなく日々を過ごしていた。
孤立しているわけではないが、周囲の関心を引くまでもない。
千春が万が一危機に陥ろうとも、誰も気づかないし、助けることもない。相談できる相手もいない。
天涯孤独だったことも含めて、どんな時でも俺の優位に立てることから、彼女は浮気相手として理想の存在だった。
「単身赴任中のあなたの社宅に来た時、時々、誰かの気配を感じたの。甘くて、ちょうどこんな、桜のような香りがしたわ」
あぁ、だから入館した時に、妻の顔色が冴えなかったのだ。
夫の浮気を疑い続けて、記憶の香りが、現実と仮想の境界があいまいなこの場所が、妻の不安に拍車をかけたのだ。
「その落ち着いてくれ。俺の話を聞いてくれないか? 彼女とは別れた。本当に愛しているのは、君一人だから」
虚しい言葉が口から連なる。
意識が仮想の桜に閉じ込められて、妻の顔が千春に、千春の顔が妻の顔に何度も何度も書き換わる。
果たして俺は、どっちに話しかけている?
「ごめん、しばらく別居しましょう」
先ほどと打って変わって覚悟を決めた妻は、軽蔑と拒絶の眼差しで俺を見た。
もうダメだ。彼女という人間を知っているからこそ、もう自分たちの関係が修復不可能であることに気づく。
光の桜が舞い散って、手の甲に張り付いている黒い虫が、妻に捨てられた惨めな俺をせせら笑っている。
『イヤよ。別れたくない!』
去年、別れの気配を察して千春は抵抗した。
せっかくのお花見デートで弁当に虫が入り、むしゃくしゃしていたことも尾を引き、感情のままに彼女の首に手をかけた。
細い手足を虫のようにバタバタさせて、そして。
◆
「さよなら」
決めたら最後、決して妻は後ろを振り返らない。
千春にはない強さを持つ彼女。
彼女のような強さがない千春。
俺は千春を手に掛けたあと、自分の認知上の妻を土台に、千春の存在を接ぎ木のように挿し続けて、自分に都合の良い美しい桜をずっと眺めていた。
だが、その幻想が崩れて目の前にそびえたつのは、俺が育ててしまった――醜悪で歪な黒い虫。
何度も接ぎ木を挿し続けた枝を、無数の脚のように蠢かせながら、そのおぞましい巨体で、今にも俺を押しつぶそうとしている。
そんな幻影に囚われている、そもそもの原因は。
バカな。
俺が千春なんかを好きになるなんて!
現実に帰ろうとする妻の後姿を視界にとらえつつ、俺はもう二度と現実に帰れないことを悟った。
【了】
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