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西暦一八〇四年、四月一日。
「本日は、このような機会をお与えいただき、誠に光栄でございます」
多くの衛兵と王様が見守る中、ニーナは鉛のように重たい頬の筋肉をやっとのことで吊り上げ、ぎこちなく笑った。
その痛々しげな表情に、彼女を慕っていた衛兵たちは一様に目を伏せた。皆アレンと同じ気持ちなのだ。これ以上、彼女の傷付くところなど見たくない……
応接間に特設で用意された障がい者用(当時そんな言葉は一般的ではなかったが、ニーナが少しでも使いやすいよう工夫を凝らされていた)キッチンに入り、杖を使って身体を支えながら、ニーナはよろよろと調理を開始した。
「お兄ちゃん、お塩、取って」
目がほとんど見えないニーナは、アレンを頼りに食材を手にする。
だけどそこから先はニーナの仕事だ。指示だけもらい、代わりに調理しようかというアレンからの提案もあったが、ニーナはそれをきっぱりと断った。
ニーナには誇りがあった。自分の出すべき品は、最後まで自分の手で。彼女の心はすでに紛うことなき料理人だったのだ。
あぁ。一体誰に、ニーナのこの強い意志をへし折ることができただろうか。きっと、神様にだって折れやしなかったに違いない。
ゆっくり、ゆっくりと調理は進んでいった。ニーナは途中何度も転びかけ、床に座り込みながらも、そのたび必死の形相で震える足にムチを打ち、立ち上がった。何度でも。何度でも。
たっぷり時間をかけつつ下ごしらえを終え、調理は山場である火入れの段階を迎えた。しかしフライパンを揺すろうにもニーナの腕の力が弱すぎて、ほとんど動かせていない。大人数分作るための大きなものなのだから、尚更だ。
それでもニーナの表情は真剣そのもので、食材の焼ける音から、匂いから、フライパンの上の情報を得ようと試みた。次の工程に移るタイミングを決して逃すまいと。
その音や匂いだって、視力ほどではないにしても、もうはっきりとは感じられていないというのに。
あまりの気の毒さに衛兵たちはほとんど皆涙を流していた。そうすることで惨めなニーナを見なくて済むからと、安堵するものさえいた。
ただ一人、王様だけが何かを考え込むようにじっとニーナの調理姿を見つめていた。
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「……大変長らく、お待たせしました。『豚肉のソテー〜マスタードソース添え〜』で、ございます」
調理開始から約四時間。ニーナが出した皿の上に乗っていたものは、とても食べ物とは思えない見た目をしていた。
おそらく、火の温度を間違えたのだろう。どんな火力で焼いたらここまでのことになるのかというほど、見るも無惨に形を失っていた。黒焦げでボロボロな、儚い夢の残骸。
あの料理上手なニーナが、こんな……アレンの頬には冷たい雫が幾筋も流れ伝っていた。
「うむ……アレンよ! お前の妹の料理だ! お前が一番に食べるがよい」
突然、王様が強い口調で言い放った。滅多にないことに、その場にいる全員に緊張が走った。
もしや、王様は怒っているのではないか。こんな無様なものを食べさせるつもりかと、怒り心頭なのではないか。誰もがそう思い、恐怖した。
しんと張り詰めた空気の中、アレンはおそるおそる黒い塊の端をナイフとフォークで切り分け、口へ運んだ。
「お兄ちゃん……お味は、いかが?」
強烈な苦味とじゃりじゃりした食感が口を満たし、瞬間、アレンの頭には、ニーナに対する愛だけでは到底打ち消せない率直な感想が浮かんでしまった。
……不味い。不味すぎる! もしこんなものを美味しいと言う奴がいたら、それはよっぽどの味音痴か、大嘘吐きだ!
「どうしたアレン。妹が味の感想を求めているぞ?」
この時アレンには、無機質な王様の声が遠くに聞こえていた。取り囲むように見守る同僚たちの表情も遠い。
まるで、断頭台に引き立てられる死刑囚の気分だった。
「さぁ早く。感想を言うんだアレン」
長い長い沈黙の後、アレンは意を決し、口を開いた。
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