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──あめあめ、ふれふれ。くるくる、とんとん。少女は桜の下で軽快に踊る。花びらをつま先で踏んで、両手を広げて。淡い色合いのスカートの裾を翻して楽しげに踊る、おどる。長い黒髪を揺らして踊る。
少年は歌う少女に尋ねてみた。雨が降れば咲き誇る桜たちはすべて散ってしまうだろう、花を楽しみにこの場を訪れるひとびとは嘆き悲しむだろう。花の命は短い、それが桜ともなれば尚のこと。お花見は限られた時しか楽しめないイベントだ。それなのにきみはどうして雨が降ることを待ちわびているのかと。
「──」
踊る少女はくるりと振り返った。笑んで奏でたように聞こえたのは声色ばかりでまなこには温かみのある感情は滲んでいない──まるでそれは硝子玉のよう。冷たく無機質で、覗き込めばこころの奥すら見透かせそうな淀んだ透明を帯びる。見開かれた瞳に、桜色がうつり、澄んだ黒に沈んでいく。とぷりと。
音もなく春が、くらい眼に沈んで溶けていく。
「──」
少女は少年の問いかけに答えない。
まんまるな瞳は無邪気と言えば聞こえはいいが、その実、『ただそこにある』春をうつすばかりでそこに何か感情の揺れ動きを得ているわけではない。ただそこにある事実をあるがままに映し出している。ひとの喜びを、悲しみを、憎悪を、嫌悪を、戸惑いを。あるがままに本人に向けて映し出している。
丸いまなこに映し出された少年は義憤に震えるでもなく、ただ、不思議そうに少女を見つめていた。
「──あ」
少年はそのときに気付く。少女の歌に対しての自らの言葉は怒りからくるものではなく『桜が散れば悲しむひとびとがいる』という事実を伝えているだけだということに。少年本人も散りゆく桜に感慨を覚えていたわけではないということに。
──少年はさっと青ざめ自分の頬を擦る。
感性の不一致は人との軋轢を生むのが常だ、それならば口を噤むことを癖にしていれば誰かと衝突することもない。そう思っていた。思っていた、のに。少女のまるい眼は無邪気さとはほど遠い無機質さで、自分の異質さを音もなく剥ぎ取った。
「その」
少年は意味も意義もない言葉を紡ぐ。音の羅列とも呼べないそれはそよぐ風にもかき消されそうで頼りない。そんな少年を見つめていた少女は低い背の丈に似合わない大人びた声で、ひとことだけ呟いた。
「──季節はかならず巡りゆく。『そこにあるだけのもの』に一喜一憂する人間も居れば、そうでない人間が居るのは当たり前だ。
だが忘れるな。
こちらに害成す存在でない限り、私たちは毎年おまえを見守り続ける。その背の丈がいずれ曲がるときが来ようとも私たちはおまえを見つめている」
「──……?」
──少女にその意味を尋ねようとした瞬間、
ざぁ、と。ひときわ強い風が吹いた。
風に、花びらが巻き上げられていく。
空に還っていく。
そうして風と花びらの目隠しを取り払われた時には、
少女の姿はどこかに消えていた。
どこに行ったのか。
なぜここに居たのか。
なぜ歌っていたのか。
少女は誰なのか。
なぜ少年の考えていることを見透かしたのか。
指折り数えても疑問は尽きない。だが、しかし。
少年はその様子を見上げながら小さく独り言ちる。
「──今年は、写真でも撮ってみるか」
まずは『当たり前だ』と思っていた日常に、色をつけるために。
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