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身体に気を遣うようになった五十代後半。
最近、私は夕飯前のウォーキングを始めた。時間だけ四十分と決め、道はその日の気分次第。今朝のニュースで桜が見頃だと知り、近所にある桜並木が有名な場所を歩く事にした。
「行ってきます」
五分程歩いて、瀬戸電沿いの道に出た。
国道19号線と41号線を真っすぐ横に結ぶ瀬戸電は、住宅街の中にある高架線上を走っている。そしてその高架線の両脇には、何百本もの桜が植えられており桜並木になっていた。
行きは国道19号線から41号線に向かうように走る上り線側の道を、帰りは下り線側の道を歩こう。私はそう思い歩き出す。
時刻は18時過ぎ。
陽は傾きかけているが、4月上旬ともなればまだ明るい。日中は21℃まで上がった気温も次第に下がり、風が吹くと少し肌寒く感じる。
―ダダンダダン、ダダンダダン
電車が通る度枝が微かに揺れ、満開の桜は惜しげもなく花びらの雨を降らせた。時折スマホを取り出し写真を撮りながら、ゆっくりと歩いていく。
住宅街の中にありながら、その見事な桜並木から花見客も多い。しかし遅がけの時間だった為、歩いている人は少なかった。
国道41号線手前の桜並木の終点で高架線の下をくぐり、下り線側の道に出る。雲が薄っすらかかった空は薄い水色から薄いオレンジ色に変わり、辺りも少し暗くなっていた。
ブワッ
一瞬の強い風。思わず立ち止まる。
木や土の匂いに混ざり、微かに白檀の香りがした。近くにある寺から香ってきたのだろうか。
風は直ぐに止み、私は来た道を引き返すように国道41号線から19号線に向かって歩き始める。薄暗い中ぼんやり浮かぶ花は、まるで千切られた綿のようだ。暫くして街灯が点き部分的にライトアップされる。白っぽい光をあてられた花はその輪郭をくっきり浮かび上がらせていた。私はまた、写真を撮る。
―ダダンダダン、ダダンダダン
花の合間からチラリと見えた電車の屋根。
そこで私は小さな違和感を抱いた。
(はて……電車の色は赤だっただろうか?)
あまり電車を使わない私。たまたま一ヶ月程前に乗った車両の色はシルバーで、赤いラインが入っていた筈だ。しかし、もう少し前には赤い車両を見た記憶もある。私はそれ以上気にせず歩を進めた。
半分程歩いた時、私は再び小さな違和感を抱く。
(誰ともすれ違わない……)
完全に陽が落ち、周りはすっかり暗くなった。
花見客はいないかも知れない。しかしここは国道に挟まれた住宅街の中で、枝道に入ればスーパーもある。それなのに誰一人見当たらない。
気味が悪くなった私は早足で桜並木の終点を目指す。しかし今度はなかなか終点が見えてこない。
焦った。
(おかしい、もう行き道の倍の時間は歩いている筈だ…)
ブワッ
再び一瞬の強い風。
落ちていた花びらが舞い上がり、思わず目を閉じる。再び目を開くと、私は桜並木の終点にいた。
随分遅くなってしまったとスマホで時間を確認する。18時50分。行き道の倍の時間歩いていた感覚でいた私は狐につままれたような顔になった。
とにかく元の道に戻ることができた私は安心し、帰路を急ぐ。
「ただいま」
帰宅して妻の顔を見た瞬間、心底ホッとした。
「お帰り。どう、桜綺麗だった?」
「うん」
今しがた撮った写真を見せようとスマホを取り出し妻に渡す。暫くして、画面を見ていた妻が驚き声を上げた。
「赤い電車見たの?!」
「うん」
私はこの目で確かに見た。不思議そうに頷くと、妻の顔はみるみる青冷めていった。
「そんなわけ無い!瀬戸電はもう二十年以上前に全部シルバーの車両に入れ替わってる筈よ!」
「えっ!」
十年以上瀬戸電を通勤電車として使う妻が言うのだ。間違い無いだろう。赤い車両が記憶にあったのは、嘗て私もそれに乗った事があるからだった。
私は微かに震える手でスマホを受け取り、まさかと思いながら電車が写り込んだ写真のプロパティを開く。
―1999年4月6日
日付けは、二十五年前の今日だった。
「どういう事だ……」
「二十五年前…?」
妻が何やら考え込んでいる。
「……何かあったか?」
二十五年前と言えば私達は結婚三年目で、一歳になる息子の子育てと仕事に忙殺されていた頃だ。のんびり花見などした記憶はない。
「確か……貴方のおばあちゃんが亡くなった年よ。おばあちゃん、お花が好きでたまに家に遊びに行くと必ず花が飾ってあったじゃない。特に桜が好きで……二月末に亡くなったでしょ?」
「ばあちゃんが……」
どんな顔だったか、もう記憶も朧げだ。
特に仲が良かった訳でもなく、これと言った思い出がある訳でも無い。
何故、自分が。
何故、今。
そう思っていると、妻がポツリと呟いた。
「おばあちゃん、花見がしたくて……彼岸に帰れなかったのかもね」
「そうか……」
春の彼岸が終わり一週間以上経つ。
今日、花見が出来てばあちゃんは満足しただろうか。彼岸に帰れただろうか。
「来週……墓参りに行こうか」
「うん。お花、たくさん買って行きましょう」
妻の言葉に、私は深く頷いた。
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