さよなら、夫 あいうえおSS「お」

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「さよなら、夫」  夫という生き物に化すのはいつからなんだろう。  日曜日の昼下がり。テレビをつけたままだらしなくソファーで居眠りしている夫を眺めながら日置紗枝は思った。  朝起きてから寝るまでに交わす言葉は「おはよう」「行ってくる」「風呂は?」「寝る」場合によって「風呂は?」が「飯はいらない」に変わる。  休みはほぼ寝ている。仕事で疲れているのは理解できる。紗枝も一週間、フルスロットルで働いて土日はぐったりだ。一緒に出かけたのはいつだったか思い出せないくらい昔のことと化している。 「……ずっと君を退屈させないしって言ってたのになー……」  小さないびきをかき始めた夫に向かってつぶやく。  家事はといえば……家事分担って言葉は忘れてしまったのかという感じ。ゴミは出すだけ。出したあ後のゴミ袋の存在は思いもよらないらしい。ゴミ箱に自動設置されると思っているらしい。いや、それすら考えたこともないのだろう。ガレージの掃除だけは言わなくてもやる。自分のバイクがあるから。洗車は自分のバイクだけ。夫婦でシェアしている私の車はもちろんやらない。確かに8割は紗枝が使うのだが、ゴルフで泥だらけにしてきてもお構いなし。  同棲していた時は普通にやっていただけに不満は募る。同棲前……学生時代は一人暮らしだったのだからできないわけはないのだ。  男というものは結婚という儀式を経ると何か変容して「夫」という新しい生物になるとしか思えない。  私も何らかの変化を起こし「妻」という生物になっているのだろうか。 「あー……嫌だ嫌だ」  紗枝は「妻」という生物に変わった自分を想像して身震いした。  「夫」の帰りを待っている「妻」  「夫」の好みに合わせた髪型、メイク、ファッションの「妻」  「夫」が世界の中心という「妻」  自分はそうでないからこの人は……日置貴雄は「夫」に変容したのだろうか。 結婚して12年。干支がひとまわりした。この夏が来れば紗枝は38歳、貴雄は39歳になる。  子供は諦めた。不妊治療が紗枝の心身を追い詰めたからだ。不妊治療は女だけの問題ではない。男にも負担を強いる。計画的に行わなくてはいけない行為にだんだん心が疲れていった。 「もうやめよう」  そう提案したのは紗枝の方だった。 「……わかった」  貴雄はそういっただけで、紗枝の方を向くことなく経済誌を読んでいた。  貴雄は子供が欲しかったのかもしれない。貴雄に家族を与えてあげることができなかったのは申し訳ないと思う。お互い健康なのになぜ授からないのか。何度神様にお願いしたかわからない。  でも……。と紗枝は思う。  でも、本当に子供だけが理由だろうか。  不妊治療のことを考えたくなくて仕事に打ち込み始めたのが悪かったのかもしれない。貴雄は残業が増えたけれども。もっとくつろげる場所にするべく気を配ればよかったのかもしれない。帰ってきても風呂、寝るくらいだけれど。もっと話し合えばよかったのだろうか。話しかけるのは紗枝からで、「いいんじゃない」「好きにすれば」しか返してくれなかったにしても。  本当にそうかな? 「貴雄くん」  紗枝はソファーで寝ている夫に声をかけた。 「んが……なに? 飯?」 「貴雄くん、これからは自分で頑張ってね。学生時代は一人暮らししてきたからできるよね」  寝ぼけ眼の夫に向かって紗枝はにっこり微笑んだ。 「は?」  寝起きではっきり認識できてないないだろう夫の掌に紗枝は薄い封筒を渡した。貴雄が紗枝の背後を見てハッと顔をこわばらせる。紗枝の後ろにある大きなキャリーバックに気づいたようだ。 「紗枝っ」 「貴雄くんといて楽しかったのは結婚して1年くらいだったな。貴雄くんは私といて楽しかった?」 「紗枝!」 「私の分は書いてあります。1週間以内に書いて私に送ってね。送り先は私の実家。宛名は書いてあります」  紗枝はサッと立ち上がると、キャリーバックを持って玄関に向かった。ソファーで呆然としている貴雄を振り返って言った。 「共有財産については後で話し合おうね。財布も別々だったしあまりないと思うけど。あ、住宅ローン、終わりが見えててよかったね。ちなみに、私、この家はいらない」 「誰か……新しい男でもいるのか?」  貴雄の一言に、紗枝の優雅なカーブを描いている眉が歪んだ。 「この結果が自分にあるとは1ミリも思わないんだね。そういうとこ」  紗枝は踵を返すと家を出た。 「あら、日置さん。旅行?」  チワワを連れたお隣のマダムに声をかけられた。紗枝は笑みを浮かべ、会釈をするとスキップしたい気持ちを抑えて駅へと向かった。 了
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