燃える家

　ある晩、街はずれの片隅に人々から忘れさられて埃をかぶったようにひっそりと佇む物寂しい小さな家で、母親とその十歳くらいになる息子が、灯油ランプの仄かな灯りに照らされた寝室にふたりきりでいました。
　顔をほてらせた息子は両手で羽毛のなめらかな布団を持ちながらかぶり、母親の方へ顔を向け、彼女の口から奏でられる豊かで美しい、心の奪われる物語に聞き惚れながら、夢と現実の間をうつらうつらと彷徨っています。
　母親は椅子に座り、本を膝の上に開いてのせて、一ページづつ、静かにめくりながら、息子よりもいっそうその物語に酔いしれて、それから、耐え難い苦しみにあっている人々と、しばらく帰らなくなった彼女の夫に想いを馳せ、いくらかの涙を零しました。

　物語の終わるころに彼女の息子は、微睡みの奥底へとふかくふかく沈んでいき、天使のように静謐な寝息を立てながら、この世のすべてのしがらみから解き放たれたような面持ちで、眠ってしまいました。
　それから彼女は息子の頬をそっと撫ぜて、身体をかがめて彼に口づけをし、パタリと本を閉じて言いました。
「かわいいこ。このお話は、二人だけのひみつよ。安らかにおやすみなさい。またあした……」

　翌朝、彼女の息子は母親に連れられて、近くの海辺までやってきました。
　そこかしこに貝殻が浮かび、太陽に照らされてきらきらと光る宝箱のような砂浜では、周期的にゆったりと波が打ち付けて、耳心地の良いリズムが生み出されています。人はおらず、自然が最も自然的に存在しているこの場所は、彼にとって、愉快な遊び場の一つでした。
　この日は彼の母親に外出の用事があったため、彼は自由時間を与えられ、陽が落ちるまでの時間を砂浜で遊んですごすことになりました。
　すぐさま彼は夢中になって、砂で出来たお城をつくりはじめました。

　彼がせかせかと、海水で砂を四角く押し固めて、城壁の外堀を積み上げていっているところに、ひとりの少女がそっと近づいてきて、彼の後ろから、その様子をのぞき込むようにして言いました。
「ふーん、なかなかじょうずじゃない」
　彼はいきなり後ろから声がしたので、思わずびっくりして、その場で尻餅を付きました。
　振り返ると、彼と同い年くらいの、よく櫛入れされてなだらかな、肩までかかる鳶色の髪に、透き通る湖のように綺麗な水色の瞳をした少女が立っていました。
　彼女の唇には、ルビーのように赤く発色の良い、艶やかな口紅が塗られていて、その身体つきは彼と同じように幼く発育途上にあるのに、顔からは大人びた奇妙な色気が漂い出ていました。それで彼はどきまぎしてしまい、なにも言えずに、しばらく二人は見つめ合う形となりました。

　やがて彼は、
「きみ、こんなところでなにしてるの」
　と彼女に聞きました。
「なにって、ただの散歩よ。今日はママが一日出かけていて暇があったから。でも、こんなにはずれの方まで来たのは今日がはじめてよ。あなた、この辺に住んでるの？　こんななにもない場所に良く住めるわね」
　彼女はつんとして返しました。それで彼は少しむっとしましたが、すっかり彼女の美しさに魅入られてしまい、言い返すことができずに、俯きながら黙っていました。
「それよりお城、つづきはつくらないの？」
　しびれを切らしたように彼女が言うと、彼は慌てて続きを作り始めました

「はーあ、なんだかお城づくりを見るのにも飽きてきちゃったわ。あなた、なにか面白い話でもして頂戴よ。見て、太陽はまだあんなに高いところにある。あの太陽が沈むまでお城づくりを続けるって言うんならわたし、あなたに幻滅するわ。でもね、夕焼けが浜を赤く染め上げるまでわたしを退屈させずにいられたら、そうね、キスしてあげてもいいわよ。あなたしたことある？　女の子とのキス……」
　そう言うと彼女は、いきなり彼に近づいて、彼の耳元にふうっとあたたかな息を吹きかけました。彼は耳が熱くなり、全身から、これまで感じたことのない何か激しい欲求がふつふつと湧き上がってくるのを感じました。それで彼は、何としてでも彼女を満足させたいと願いました。それから彼は思いついたように、
「とっておきのお話があるんだ。とても美しいお話だよ。毎晩、ぼくのお母さんが寝る前に読み聞かせてくれるんだ。でも、何故かお母さんはこのお話は他の人には言っちゃいけないって言ってる。だけど特別に、君にだけ話すよ」
　そう言って、語り始めました。万人の幸福と、平和についてのお話を――。

　語り途中で、彼女はいきなり彼を両手で突き飛ばしました。そして彼女は怒りと軽蔑の入り混じった歪んだ顔で彼を一瞥し、
「あんた、信じられないわ。よくそんな話を私に聞かせられたわね、この、化け物！」
　と吐き捨てました。
　それから彼女は怒りで肩を震わせて、一度彼に殴りかかろうとする勢いで近づきましたが、急に萎れた花びらのようになって、何かを思い出したように、自身の記憶の深い場所まで潜っていくと、その澄んだ瞳にはじんわりと涙が浮かびあがりました。　
　しかしその涙を彼女は無理やり抑え込んで、もう一度彼のことを睨みつけると、踵を返して去ってしまいました。

　彼はわけもわからずに、しばらくその場で呆然と立ち尽くしていましたが、それから段々と彼女に対する怒りがこみ上げてきて、自分はなんて失礼なことをされたんだろうかと、憤りました。
　しかし、夕陽が沈むころには気持ちも少し落ち着きを取り戻し、彼は努めてこのことは忘れようと考えながら、家へと帰っていきました。

　その晩、その小さな家は、凄まじい唸りを上げながら轟々と燃える火炎の中に包まれていました。黒煙が立ち昇り、火の粉が飛び、辺りの木々や草花は黒く焼け焦げて煤となり消えていきました。
　ふたりは煙の立ち込める寝室で目覚めて、辺りを見回すと、恐怖と絶望に支配されました。いまはもう既に、扉にも窓にも火の手が伸びていて、じりじりと灼け付くような爪や牙で、かれらを威嚇しています。逃げ遅れたのです。

　もはやどうすることもできないことを悟った母親は、せめて自分の愛する息子が天上の楽園へ導かれるようにと祈りを込めながら、彼をかたく抱きしめて、額にキスをしました。
　それからまず、彼の母親の背に火が移りました。彼女の着ていた麻の衣服がぼうっと燃え、耐え難い苦痛に悶えながら呻き、泣き叫ぶ声があがると共に、背中の皮膚が焼かれて、ぱちぱちと乾いた音が鳴りました。
　やがて彼が滲んだ視界から最後に見たものは、醜く爛れて誰とも判別のつかなくなった母親の顔でした。

　翌朝になって火が収まると、街の中心から人々が大挙してやってきて(そこにあの少女の姿もありました)、ぼろぼろになった家の中から、灰をかぶって黒ずんで汚れたふたりの頭蓋骨を見つけだしました。
　そしてある男がそれを乱暴に取り出してきて、群衆の前に放り捨てると、手に持っていたハンマーを思い切り振り下ろし、ふたりの頭蓋骨に叩きつけました。骨の砕ける音が、辺りに響き渡ります。それから男は叫びました。
「この戦時中に平和を唱えるふしだらな化け物どもめ、地獄へ落ちろ！」
　歓声があがり、人々が行進すると、ふたりの骨は粉々になるまで踏みつけられて、あとにはもう何も残りませんでした。