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花見の少し前。お鶴の所に見慣れない新しい客が来た。いつもは子どもをあやすように客を上手くあしらうお鶴が、浮き足立って小娘のようにはしゃいでいる。花代が稼げるなら良いことだと加賀屋の主は呑気に構えていたが、遣り手の婆さんだけはお鶴の変化に神経を尖らせていた。
「ありゃあ、マブかもしれません。お鶴やお雪みたいな名の知られた花魁なら、男なぞ信じるだけ虚しいと心得ているはずなのに」
遣り手の婆さんはキセルを吹かしながら主に忠告する。主は下卑た笑いで返す。
「マブが出来て勤めに励むなら万々歳さ」
主の呑気さに遣り手は痺れを切らす。
「旦那さん、そんなに簡単に行くなら誰も郭で首なぞ括りませんよ。心中でもされたらうちの看板が一枚減っちまう」
遣り手の苦言に主は冷や汗が出る。
「物騒なことを言うな。底抜けに明るいお鶴に限ってそんなことはないはずだ」
「お鶴は底抜けに明るいように振る舞ってるんですよ。マブに入れあげなきゃいいがあの娘は単純な所があってねぇ…。お雪ならそこまで心配しないんですけど。あの娘は手練手管と駆け引きが巧いから…」
遣り手の溜め息に主の溜め息が重なる。そのやり取りをお雪付きの新造のお竹が襖をほんの少し開けて盗み見ていた。
お竹はお雪にお鶴のマブの話を早速報告する。新造のお竹の報告にお雪はざまあみろとばかりにケタケタと笑う。
「お鶴の奴、マブに入れ上げて、捨てられればいいのに。そうすりゃ一度も花代で勝てたことがない花見の月も私の勝ちさ」
お竹もうなずく。
「お鶴さんは単純だと遣り手の婆さんまで言ってて笑いを堪えるのが大変でしたよ」
「よく、盗み見したね。お竹、これは好きに使いな」
お雪は銀子(ぎんす)を数枚お竹に小遣いとして渡した。お竹は有り難く銀子を受け取りながら、内心ではお鶴さんの方が小遣いの払いがいいと自慢してきたお鶴付きの新造の嫌味を思い出していた。お雪さんはケチなんだよなぁと。お鶴さんはキップが良くて、下の面倒見もいい。自分の所に付いた新造や禿は分け隔てなく我が子のように可愛がる。いつかお鶴さんが言っていた。
「あの世に金子は持っていけないからね。パーっと使って楽しむのさ、どうせこの銭はあぶく銭。身売りで稼いだ人様に言えない銭なら、使ってなんぼだよ」
お鶴さんは、明るくて頼もしい。でも、どこか刹那的で気がついたらいつかいなくなっていそうだとお竹は前々から思っていた。対するお雪さんは狡猾で抜け目がない。どうやったらこの吉原の地獄を抜け出せるかいつも必死で考えている。新造や禿への小遣いの払いが渋いのも、誰も郭の中の人間を信用していない証拠だとお竹は思っている。
「金子をうんと貯めて出ていくのさ。前借した銭を返せば出ていける」
「身請けして貰えば出ていけませんか」
お竹が聞いたときにお雪さんは憎しみを込めた目で答えた。
「もう男は懲り懲り。ここを出て一人でのんびり暮らすのが夢」
お雪さんは誰も何も寄せ付けない冷たさがある。その代わりにお金を信じている。
お竹はこの苦界で孤独に耐えられるお雪の方が強いと勘づいていた。人を信じれば裏切られたときに酷く傷つく。傷つきたくないから、お雪さんはお金しか信じない。
(私も銭を貯めて出ていきたいな…)
お竹はお雪から貰った銀子を大切に引出しに閉まった。
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