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第10章 滝桜
ゆきと重治は高橋と別れるといつしか滝桜の前に来ていた。夜の滝桜は太陽の下での景色とは違って、何か物の怪が住んでるような神々しさがあった。それで2人はそれに近寄りがたい感覚を抱いていた。しかし同時に、何かわからない力によってその大きな桜の大木に引き寄せられる自分たちを感じていた。
重治は、もしこれが開花している時期だったら、もっとこの木に強く引き寄せられただろうと思った。そしてこの畏敬の念こそ本当の愛情ではないかと思った。つまり愛情とは、ただ愛すればいいというものではないと思ったのだ。時には近寄りがたい神聖な思いがなければ、それは相手への冒涜のような気がした。そしてそれは言わばいま自分の隣にいるゆきの存在のようなものだと思った。
重治はゆきを初めて見た時、彼は彼女をずっと古から知っていて、そして恋に落ちる運命だと思った。そしてそれが証拠に2人は同じ図が刻まれたツバとかんざしを持っていた。それらは元は1組の夫婦が余儀なく別れ別れになった時に所持したものだった。だから自分とゆきが元は一つだったことを証する大切な代物だった。
「私には許婚がいるんです」
しかしその時滝桜を前にしたゆきの口から出た言葉は意外だった。
「え」
「でもそれは親が決めた許婚なんです」
「あ、そうなんですね」
「誰もが美しいと認める人なんていないんです。それで自分を美しいと言ってくれる人にこそ嫁ぐのだと言われました」
「誰にですか?」
「他界した母です」
「そうですか」
「はい」
「それで、その許婚はゆきさんのことを美しいと言ったのですか?」
「はい」
重治は自分だってゆきに対してなら同じ言葉を何度でも繰り返すことが出来ると思った。
「滝桜の伝説ってご存知ですか?」
そう聞かれて重治が声を発しようと思った時だった。ゆきは突然滝桜の話を始めた。
「滝桜は恋人同士が姿を変えたものだという伝説です」
「いいえ、知りません」
「結ばれてはいけない男女が恋に落ちて、それで最後は自ら命を絶ったのだそうです。そして、そんな男女が同じお墓に入ることを許されるわけはなくて、別々に埋葬されたそうです。それも罰として相手に手が届きそうで届かない距離にわざと埋められたそうです」
「蛇の生殺し状態と同じような意味でしょうか」
「そうですね。遠く離れてしまえば、まだ諦めがつくかもしれませんし、また良い思い出だけを抱いて、そして時をやり過ごすことも出来るでしょう。でも、相手がすぐ近くにいて、その存在を強く感じることが出来るのに、決して触れることが出来ないなんて、まさに生き地獄ではありませんか?」
「そうですね」
「そのような状態で永遠の時を刻まなくてはならないのですから」
「それは確かに辛いかもしれませんね」
「それでその2人の遺体から根が生え、幹が育ち、やがて枝までもが絡み合って、そしてこの滝桜になったというのがその伝説なんです」
「そういう話だったんですね」
「桜って1つの花におしべとめしべがついた花をつけるでしょう。雌雄同体というのかしら。それでそんな話が出来上がったのだと思いますが」
「なるほど」
この季節でも夜になるとまだ寒さが込み上げて来た。しかも風が吹いてくれば尚更である。滝桜の周りにはその風を遮蔽するものが一切なかった。
「ゆきさん、寒くなって来ましたね。そろそろ帰りますか」
「はい」
重治は日もすっかり落ちたのでゆきを家まで送って行くと言った。それにゆきは笑顔ではいと答えた。
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