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「結局社の中にはツバとかんざしに関するものは見つかりませんでしたね」
「はい」
傳重は社の中からようやく出て来た2人の会話に耳をそばだてた。しかしどうも会話が抽象的でよく内容がつかめなかった。
「傳重さん、あなたはあの社の中に入ったことがあるのですか?」
「とんでもない。あの中に入れるのは戸主である父だけです」
「そうなんだ」
「ですからこのことが父にばれたら大変なことになります」
「大変なことって?」
「それはとんでもなく恐ろしいことです」
「つまり、あなたのお父様にきつくお叱りを受けるということですか?」
「そのようなことでは収まらないと思います」
「じゃあどんなことが起きるんだろう」
「それはとても口では説明できないほど恐ろしいことです」
重治は傳重の話がいまひとつわからなかったが、とにかく社の中に入ったことが、彼の父親の知ることになればただでは済まないということは理解出来た。
「では傳重さん、このことはくれぐれも内密に願います」
「言われるまでもありません」
それからゆきと重治は静かに傳重の元を去るとゆきの家の方に歩き出した。
「結局何もわかりませんでしたね」
「ツバとかんざしが組み合わさってあの社の引き戸の鍵になることはわかりました」
「ええ、それとツバとかんざしにあった鳩と木瓜の図があの社にもあったことくらいです」
「あの書物はいったい何だったのでしょうか?」
「あそこには元号と男女の名が書かれていました」
「その男女はどのような関係の人だったのでしょうか?」
「僕にはどなたも知ってる人がいなくて、その判断がつきませんでした」
「でしたら私がよく見ればその中に知っている方がいらしたかもしれませんね」
「ええ、でももうあの中には入れてくれそうもありませんね」
「はい」
「ゆきさん、これからどうされますか?」
「私、いきなり家を飛び出して来てしまったから、これから家に戻ります」
「そうですか。高橋さんのところに報告にでも行こうかと思ったのですが」
「この前も帰宅が遅くて父から叱られました。嫁入り前の娘があんな時間までどこに行っていたのだと言われました」
「そうだったんですね。申し訳ありません。私のせいですね」
「いいえ、私が好きでお付き合いしたのですから。それでそれは上手くごまかしました。許婚と一緒だったのだと」
「そんなことを言って大丈夫ですか?」
「はい。そうしたら父はまだ何か言いたそうでしたが、それ以上何もありませんでした」
「そうですか。でも許婚の人からそれが嘘だとばれませんか?」
「そうですね。でもそうなったらそうなったまでです」
「ゆきさんも無茶をしますね」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
「でも今日はこれで帰らせていただきます。高橋さんのところへご一緒したいのはやまやまですが、さすがに家を空けてばかりも出来ないので、ごめんなさい」
「いいえ、とんでもない。こんなによくお付き合いくださいまして、ありがとうございます」
重治はそうは言ったものの、実はゆきに昭進堂までお供をして欲しかった。ゆきと一緒にいると心が穏やかになれたからだった。そして楽しくもあった。そんな経験は未だかつてなかったことだった。
一方ゆきも後ろ髪を引かれる思いで重治の後ろ姿を見送った。出来たら一緒に高橋のお店に行きたかった。重治と一緒にいるとゆきは自分がとても身軽になった気になれた。
重治がゆきの視界からとうとう消えてしまうと、ゆきは仕方なく自宅への道を進んだ。
実は今朝、ゆきは父親から惣吉との祝言について、今晩話があると言われていた。その時ゆきは来るべき時がついに来たと思ったのだった。
許婚との祝言、それは確かにおめでたいことではあった。しかしゆきには何も心ときめくことはなかった。ゆきの幼馴染には、許婚との祝言が一生で1番の喜びだと言った人がいた。ゆきはそれを聞いた時、その感覚は果たしてどんなものなのだろうと思った。しかしいくら考えてもわからなかった。
ゆきの幼馴染は、これから先ずっとその人のそばにいられることが嬉しくて、そしてその人がいるだけで心が穏やかになるという話をしていた。きっと今夜、ゆきの父は惣吉との祝言の日取りを決めるのだとゆきは思った。しかしゆきはゆきの幼馴染が語ったその感覚をどうしても抱くことが出来なかったのだ。寧ろ息苦しく、そして不安で仕方なかった。
その時、後ろから誰かがついて来る気配をゆきは感じた。
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