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(誰かしら?)
先ほど別れた重治がまさかまた後をついて来たのではないかと思った。すると心が騒いだ。それで期待を込めて振り返った。
「あ、惣吉さん」
「ゆきさん、私でがっかりしましたか?」
それはゆきの許婚の大内惣吉だった。
「いいえ、そんなことは」
「さっきまで一緒にいた人かと思いましたか?」
「え?」
「さっきまで男の人と一緒だったでしょう?」
「あ、はい」
「あの人は誰ですか?」
「影山さんです」
「親戚の方?」
「いえ」
「三春では見掛けない方でしたが」
「常葉の方です」
「常葉?」
「はい」
「どうして常葉の方が?」
「色々とありまして」
「色々ですか」
すると惣吉はそこで初めて笑った。
「実はね、ゆきさん。この前もゆきさんの後ろから声を掛けたことがあったでしょう?」
「あ、はい」
「あの時も、その影山さんがゆきさんと一緒にいるところを見たんですよ」
「あ」
「それでどのような人なのかと気になったのですが、そんなことを問いただすなんて野暮な気がしてしまいましてね」
「聞いていただければ良かったのに」
「そうですか?」
「はい」
「あの時、私がお声を掛けて、ゆきさんが振り返ったでしょ。ゆきさんはそれが私ではなく、あの影山という方だと思ったのではないですか?」
「え?」
「だって、普段私に見せる顔とはまるで違っていましたよ。何て言ったらいいのかわかりませんが、まるでお花畑で蝶でも追い掛けているような、そんな表情でしたよ」
「そんなことはありません」
「それに今もそうです。きっとさっき別れた人が追い掛けて来たのだと思ったのでしょう?」
「違います」
「そうですか。私には違わないように思えるのですが」
「惣吉さんがそうお思いになるのなら、それは仕方がありませんが」
「ではやっぱりそうなのですね」
「知りません」
「それで私もさすがに心配になったのです。まさかゆきさんがそのような裏切りをするとは思いませんが、あの影山という方がどうゆきさんを思っているのかはわかりませんからね」
「影山さんはそんな方ではありません」
「いいえ、ゆきさん。あなたは女だからわからないのです。これは男の私だからわかることなのです」
「何が私にわからなくて、惣吉さんにはおわかりになるのですか?」
「あなたが美しいということです」
「……」
「あの影山という方はゆきさんを美しいと言いましたか?」
「何をおっしゃってるのですか?」
「あなたを美しいと言ったか、言わないか、それを伺ってるのです」
「ですから、そんなことを言うような方ではありません」
「それからこんなこともありましたね」
「どんなことですか?」
「滝桜に2人で行ったでしょう?」
「え?」
「何もないという2人が、真っ暗な滝桜の前であんなに仲良く寄り添うようなことがありますか?」
その時、ゆきは心に強い衝撃を受けた。それはこの惣吉が滝桜の前にいた時からずっと私たちの様子を窺っていたことを知ったからだった。
「私は胸が裂けるような思いで見ていたのです。もしやあの男がゆきさんに接吻でもするのではないかと思って」
「惣吉さん、呆れて何も言えません」
「ゆきさん、何も私は私が主観的に思ったことだけを言ってるわけではないのですよ。あなたたちを目撃したのは私だけではないのです。その時、三浦神父も一緒だったんです」
「え!」
「実はあの時、三浦神父を連れて、ゆきさんのお父さんに祝言のお話をしに行った帰りだったのです。ところが自分の許婚がどこかの男とあんな場所で二人きりで逢引をしていたのですよ。しかもそれを私だけではなく、祝言の司式をしていただく神父さんにも見られてしまったのですよ。ゆきさん、私がどれだけ屈辱的な思いをしたのかわかりますか?」
「そんなこと言われても影山さんとはそんな関係ではありませんから」
「私はその時、いっそのこと、この縁談を破談にしようと思ったのです。しかし、それだとあなたのお父さんがお困りになると思いましてね。あなただってそんなことになったら今後嫁に行くことなんか出来なくなるでしょう。それでそこは忍従しました。見なかったことにしたのです。ですから今夜、ゆきさんのお父さんから祝言の日取りについてお話があると思います」
「司式を三浦神父さんにお願いしたということは、やはり教会で祝言をあげるのですね?」
「勿論打掛を着て、うちの菩提寺でも挙げますが」
「2度も?」
「うちの格式ならそのようかと」
その時だった。惣吉がいきなりゆきに飛び掛かり道の端の草むらに彼女を押し倒した。
「なにをなさいます!」
しかし惣吉は何も答えなかった。そしてゆきの着物の裾を捲し上げるとそこに自分の右手を荒々しく差し入れて来た。
「やめて!」
ゆきは突然の事態に激しく抵抗したが、惣吉はその行為を一向にやめる気配はなかった。それから2人は無言でせめぎ合った。惣吉は男の誇りを取り戻そうと必死だった。それでその行為を決してやめることは出来なかった。もしゆきに気兼ねして、ゆきがかわいそうになって、そのことを途中でやめてしまったら、彼は一生己の自尊心を回復出来ないと思った。
一方ゆきにはその時突然重治の顔が浮かんだ。そして、その重治のために自分の貞操はどんなことがあっても守らなければいけないと思った。でも、それがどうしてなのか、それがゆきにはわからなかった。するとその時、ゆきの右手の指先に何か固いものがあたった。それはこぶしくらいの大きさの石だった。ゆきはそれを強く握りしめると、自分の腰辺りにあった惣吉の頭めがけて大きく叩きつけた。すると惣吉は声にならない声を上げた。それでゆきはもう1度それを強くそこに叩きつけた。すると惣吉の体重がゆきに重くのし掛かって来て、惣吉が動かなくなった。それでゆきは更にもう1度それを惣吉の頭に叩きつけた。すると血しぶきがゆきの顔まで飛んで来た。
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