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第12章 常葉
その日ゆきが重治のうちを訪ねたのはすっかり日が暮れた後だった。重治は突然のゆきの来訪に驚いたが、同時に嬉しくもあった。
「夜分に申し訳ありまでん」
「いいえ、それは構わないのですが、どうかされたのですか?」
重治は何度もうちの中へ入るように促したが、ゆきはここでいいからと暗がりの中からなかなか姿を現さなかった。
「外で立ち話もなんですし、女の方をこんなところにいさせたら、私が両親に怒られます」
「重治さん、確か蔵があるとお伺いしましたが?」
「はい。この母屋の裏にありますが」
「それでしたら、私をそこに泊めていただけないですか?」
「蔵に、ですか?」
「はい」
「しかもゆきさんをそこに泊める?」
「はい」
重治は話の内容に強い不信感を抱いたが、ゆきの真面目な顔を見てうなずいた。
「わかりました。よくわかりませんが、ゆきさんがそうおっしゃるのでしたら、そういたしましょう」
「ありがとうございます」
それから重治は、不審な思いを抱きながらもゆきに言われるままにゆきを敷地内の蔵に案内した。
「うわ!」
しかし、蔵の中の電球をつけた途端、重治はゆきの姿を見て驚いた。
「ゆきさん、その着物についているのはまさか……」
「はい。これは血です」
「血って、いったい誰の?」
「惣吉さんのです」
「惣吉さん?」
「私の許婚です」
「どういうことですか、ゆきさん」
「私、彼を殺してしまいました」
「え!」
ゆきは殺したという言葉を発した途端、いままでの冷静な物腰が嘘のように取り乱し始めた。
「だって、彼が私を襲って来たんです。私、怖くって、それで抵抗してもどうにもならなくて、それで気が付いたら彼の頭を何度も石で叩きつけていたんです」
重治はゆきの告白に茫然とした。頭が真っ白になった。それで暫く言葉を発することが出来なかった。
それから暫く時が流れた。するといつしかゆきがすすり泣いていた。重治はそれに気が付くと、今までゆきを遠くから見ていた自分に驚いた。今、この哀れな女を守ってやれるのは自分しかいなかったからだ。しかもこの女は自分を頼ってこんな夜更けに遠い道のりをやって来たのだった。そう思うと重治はゆきを優しく抱きしめた。
「ゆきさん、安心してください。ゆきさんのことは私がきっと守りますから」
都合よくその蔵は重治が管理する役目を任せられていた。他の家族は一切そこに近寄ることはなかった。それでゆきをそこに暫くかくまって、機会を見て、どこか遠くへゆきを逃がそうと思った。そしてその時は重治も一緒にこの地を出ようと思ったのだった。
「すみません。今晩は夜具を準備できませんが、明日からは私が使っている布団などをここに運び込みますので今夜は勘弁してください」
「いいえ、ここに泊めてもらうだけでもありがたいですから」
「落ち着いたら、ここを出て遠くへ逃げましょう」
「遠くって?」
「東京でも九州でもどこへでもです。きっとなんとかなりますから」
「でも、私は人殺しです。いずれ捕まってしまいます」
「そんなことは私がさせません。必ず無事に逃げ果たしてみせます」
「でも、重治さんにご迷惑がかかります」
「何を言ってるんですか。私とゆきさんは元は夫婦だった関係ですよ」
「え?」
「だって、私はその時のツバを持っていて、ゆきさんはかんざしを持っているんですよ。その離れ離れになった夫婦がいまこうしてやっと巡り合えたのです。ですから金輪際離れてはいけないんです。これからはずっと一緒にいなくてはいけないんです」
「ありがとうございます」
ゆきはその時、自分はいまこの人に支えられていることを強く感じていた。そしてもし自分が幸せになることが出来るとしたら、この人と以外にはありえないと思った。
「ゆきさん、思い出させることを聞くようで申し訳ありませんが、その惣吉という人の死体はどうなりましたか?」
「道端の茂みの中に転がっています」
「すぐに見つかってしまう場所ですか?」
「そこは人通りがほとんどありませんし、普通に歩いていたら、なかなか見つかりにくい場所に倒れているので大丈夫だと思います」
「でしたら、明日にでも発ちましょうか」
「ここをですか?」
「はい。でもゆきさん、出来ますか? ここを発つということは三春を捨てて行くということになりますが」
「でも三春にはもういられません」
「ええ、そうですね。もう三春にはいられませんね」
「でしたら仕方がないことです」
「では私と一緒に逃げるということでいいのですね?」
「え、重治さんも逃げるって?」
「私もゆきさんとここを出ます。そしてゆきさんとずっと一緒にいて、あなたを守ります」
「だって重治さんは何も悪いことなどしていないのに」
「何をおっしゃるんですか。それは先ほどお話ししたじゃないですか。もう二人は夫婦同然なのですよ。やっと一つになれた魂は二度と別々になってはいけないのです」
「ですが」
「ゆきさん、私が嫌いですか?」
「いいえ、そんなことは」
「では、あなたと一緒に居てはご迷惑ですか?」
「いいえ」
「では、私と夫婦になることはお嫌ですか?」
「それは……」
「それは?」
「それは重治さんがご迷惑ではないですか?」
「どうして?」
「だって、私は罪人ですよ?」
「罪人はその惣吉という男でしょう。ゆきさんは襲われてそれで仕方なくその男を殺めてしまったのですよ。ですからゆきさんには何も罪はないんです」
「でもその理屈は通らないでしょう。あの人の親は三春の名士なんです」
「そういうことだろうと思いました。親が決めた許婚なんて、みんなそんな輩ですから。ゆきさんは決して悪くはない。だから逃げる必要なんかないのです。ですが悔しいのですが、相手がそのような人物だと理不尽に耐えて逃げるしかないのです」
「わかりました。そこまでおっしゃっていただけるのなら、私は重治さんについて行きます。どこまでも絶えることなく、あなたとご一緒いたします」
折しもその前日、朝鮮半島付近で発生した低気圧は、日本海を発達しながら東北東へ進み、強い南風を発生させた。そしてそれは気温を上昇させ、空気を乾燥させるに至ったのだった。するとその日の夜には寒冷前線が日本列島を通過し、東北地方では秒速20メートルほどの強風となった。この乾燥した空気と強風とで常葉の数件から火が起こり、それは瞬く間に大火となって町の中心部に燃え広がった。
重治はいつしかゆきの隣で寝入っていた。それが半鐘のけたたましい音で飛び起きると、辺りに炎が激しく燃え広がっている光景を目の当たりにした。
「ゆきさん、ゆきさん、起きてください。ゆきさん、たいへんだ」
「え?」
「ゆきさん、火事です。しかも周りが全て燃えている。急いでここから避難しないと」
重治がゆきを激しく揺すって起こしたものの、ゆきはまだ朦朧としていた。しかし重治の尋常ではない様子がわかると、その場で立ち上がり、そこから飛び出す準備をした。
「いいですか、決して私の手を離さないようにしてくださいね」
「はい」
2人は固く手を握り合うとその蔵から表に飛び出した。
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