11人が本棚に入れています
本棚に追加
「きっと大丈夫ですよ。きっと安全な場所でゆきさんを待ってますよ」
それでも重治は、ゆきを安心させる言葉を放った。するとゆきは口元だけ笑みを浮かべてそして一言だけ言った。
「でも私は帰れない」
重治がそう言ったゆきを覗き込むと、それは固い決意に満ちた表情だった。それでそれ以上ゆきに帰宅の話を促すことは出来なかった。
その頃高橋は重治とゆきが話していたように、町の消防組に協力して逃げ惑う町民の誘導に当たっていた。その燃え盛る炎はまるで弱まる気配を見せなかった。それで鎮火どころか火を弱めることさえ目途が立たない状況だった。
高橋が昭進堂から火の進む方へ追い掛ける形で新町橋を通り、山中から大町へ抜けようとした時だった。右手の田村大元神社の前を2人の男女が三春清水から亀井に至る道に左折しようとする姿を目撃した。
その時高橋は、その2人が重治とゆきではないかと思った。しかし、それがあまりに一瞬のことだったので確信が持てず、それで彼らを追い掛けることをしなかった。
(重治さんとゆきさんは無事だろうか)
それで高橋はそう思ったが、2人が一緒にいるはずがないと思い、やはりあの2人は重治とゆきの見間違えだろうと思うことにした。
火事は翌日の朝には勢いをなくし、午前中には鎮火した。ただ、再出火の危険性があるということで警戒態勢は解除されなかった。家が無事だった者はそれでも自宅に戻った。また、家が倒壊したり、燃えてしまった者は仕方なく学校にそのまま留まった。
高橋は三春小学校に避難した町民の世話を任せられていた。新町にある自分の店は無事だったので、店から炊き出しの道具などを運び込んでいた。するとその時、2人の男に声を掛けられた。
「あ、大内さん」
それは惣吉の父親だった。
「昭進堂さん、ご家族は無事でしたか?」
「はい。おかげさまで、ありがとうございます」
「ではお店の方はなんともなかったのですね?」
「はい」
「それは良かった。うちは惣吉がまだ帰宅していなくてね」
「え、そうなんですか?」
「うん。それでこちらの影山さんを訪ねると、ゆきさんも帰宅していないというんだよ」
「ゆきさんもですか?」
そう言われて高橋がゆきの父親を見ると、ゆきの父はこくりとうなずいた。
「私のうちも影山さんのうちも火が回らずに無事だったんでね。それは良かったのだが、2人が昨夜から帰宅していなくて、そっちの方が心配になってしまってね」
「どこかに避難されているのでしょうか?」
「あの大火は何でも常葉から延焼したらしいね。それで常葉との境が一番酷くやられているらしい。まさか2人がその辺りに迷い込んでそれで今もどうにもならない状態になっていたらと思うと居ても立ってもいられなくなってしまってね」
「はい。それは心配です」
「昭進堂さんは、まさか2人を見掛けませんでしたか?」
「お二人はご一緒だったのですか?」
「2人が会うと言ってそれぞれ出掛けたわけではないが、2人とも戻らないことからすると、やっぱり会っていたのか、どこかで偶然出くわせて、それで一緒に行動したのだろうと思うんです」
「そうですね」
その時に、高橋はゆうべ三春清水辺りで見掛けた男女のことを言おうか言うまいか迷った。すると今度は大内に替わってゆきの父がしゃべりだした。
「うちに来ている手伝いの話だと、男がゆきを訪ねて来たという話も聞いています。どうやらゆきとは顔見知りだったようなのだが、私はその男には心当たりがないんですよ」
「男ですか?」
「うん。まさか今もその男と一緒とは思えないのですが、もしかしたら惣吉君の友達の誰かだろうと、大内さんとは話していたんです」
「どういうことですか?」
「昨日、祝言の日取りを惣吉君からされていましてね」
「それはおめでとうございます。いよいよ惣吉さんとゆきさんが夫婦になられるのですね」
「ええ。それで昨晩、ゆきにその話をしようと思っていたところなんですよ。それで恐らく惣吉君が事前にゆきを呼び出して、その下話をしたのではないかと思ったんですが」
「なるほど」
「ゆきはあまり派手な祝言は望んでいなかったのですが、惣吉君は祝言を2度挙げたいと決めていましてね」
「それはどうしてですか?」
すると高橋のその質問には大内が替わって答えた。
「三春に1つだけある教会の神父をご存じでしょう?」
「はい。確か三浦さんの教会でしたね?」
「ええ。その三浦神父は私の遠縁でしてね。それで以前、惣吉の祝言には彼に司式をしてもらう話をしていたんですよ。ところがうちの菩提寺にも義理はある。その板挟みに仕方なく2度祝言を挙げるということになってしまったんですよ」
「そうなんですね」
「それでやはりそのことを事前にゆきさんの耳に入れておかなくてはいかんだろうということになりましてね。勿論、影山さんの了承は惣吉から事前にもらっておくようには言い聞かせておいたのですが、肝心のゆきさんには惣吉はなかなか言い出せないようでして。それで本人の承諾の方がお父さんよりも後になってしまったわけなんですよ」
「その話を昨晩、惣吉君がうちに来て、私からゆきにそのことを伝えてくれないかと頼まれたんですよ」
「そうだったんですね」
「でも、惣吉はお父さんばかりに頼ってはいかんと思ったのでしょう。それで友達を使ってゆきさんを呼び出したのではないかと思ったんですよ」
「それでその友達がゆきさんを訪ねて来たという話になったのですね?」
「ええ。自分ではその話をゆきさんにすることが、やっぱり気乗りしなかったのでしょうね。それでそのことを友達に相談して、それなら俺がゆきさんを呼んで来てやるから、後はお前がゆきさんにちゃんと説明しろよとか言われたんじゃないかって、影山さんと話していたんです」
「そうですか」
「でも、こんなに町が混乱している状態では、惣吉たちを捜すどころか、その惣吉の友達でさえ見つけるのが難しくてね」
「そうですね。避難場所はここだけではありませんし、定まった避難場所ではないところに避難している人もいるようです。また、半焼程度だと自宅に帰ってしまった方もいるようです」
「この状態が落ち着くまで暫く人捜しは難しいでしょうね」
「はい。残念ながらこの大火で亡くなった方の身元確認もありますし」
「そうですね」
「勿論、その中にお二人がいるという話ではありませんが」
「それはわかってます。2人が無事だということはわかっているのですが」
その時、高橋は消防組の仲間に声を掛けられて、これからそこに避難している住民に雑炊を配るからその手伝いをして欲しいと言われた。大内と影山はそのやり取りを聞くと、それではごめんくださいと言って高橋に別れを告げた。
最初のコメントを投稿しよう!