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第8章 許婚
ゆきが高橋、重治の2人と別れて少しした頃だった。ゆきは誰かが自分の後を追い掛けて来るのを感じた。
(誰かしら)
ゆきは先ほど別れた2人がまさかまた後をついて来たのではないだろうと思いながらも半分その期待を持って振り返った。
「やっぱり気が付いたね」
「あ、惣吉さん」
「ゆきさん、なんかがっかりしたみたいだね」
それはゆきの許婚の大内惣吉だった。
「惣吉さんもいじわるですね」
「ゆきさん、惣吉さんもって、他の誰かがゆきさんの後をつけてたのですか?」
「いえ、そういう意味じゃ」
「だってゆきさん、惣吉さんもって言いましたよ」
「そうでしたか?」
「ええ、はっきりと」
「惣吉さんはいつから私に気が付いたのですか?」
「ついさっきです。その脇道から出てきたら目の前にゆきさんがいたからびっくりしました」
「その脇道って、惣吉さんはどこへ行ってらしたんですか?」
「どこって、よく脇道を通るんですよ。近道ですからね。だからどこへ行くにも脇道はよく使うんです」
「そうなんですね」
しかしゆきはそれが惣吉の嘘だと知っていた。その脇道はどこにも抜けることが出来ない袋小路だったからだ。それでゆきは惣吉がずっと前から自分をつけていたのだと思った。
(まさかあの2人と一緒のところを見られたかしら)
しかし惣吉の様子からするとそれはなさそうであった。もし惣吉があの二人を見ていたなら、高橋のことは別としても、重治のことはきっと誰かと尋ねただろうと思った。
「ゆきさんはどこへ行っていたの?」
「え、ちょっと昭進堂さんに」
「高橋さんのところへ?」
「ええ。父の用事で」
「そうだったんですか」
「それでその後、滝桜を見て来ました」
「滝桜を?」
「ええ」
「もう開花してるんですか?」
「いいえ、まだでした」
「去年は一緒に行きましたね。開花の時に」
「はい」
「今年も行きましょうか」
「ええ」
ゆきは父の用事と滝桜のことは惣吉に話した。しかし大叔母のことは黙っていた。そのことを話したら結果として、重治のことを惣吉に話さなくてはならないと思ったからだ。
「送っていきましょうか」
「いいえ、大丈夫です」
「ゆきさん、遠慮しなくていいですよ。ゆきさんは私の大事な許婚なのですし」
「それはそうですが」
「そろそろ日が暮れますから、女1人は危険です」
「でも、惣吉さんもお忙しいでしょうし」
「ゆきさんのお世話以上に大事なことはありませんから」
ゆきは許嫁にそこまで言われて無下に断るわけにもいかないと思い、渋々惣吉に家まで送ってもらうことにした。
「それにお父様にもたまには挨拶をしないといけないですしね」
惣吉は親同士が決めた許嫁だった。ゆきの父が惣吉の父親と幼馴染で、ゆきと惣吉が幼い頃に将来夫婦にすることを約束したのだった。惣吉はゆきを好いていた。ゆきには惣吉に対して特別な思いはなかったが、ある時母に言われたことを今でも強く覚えていた。
「誰もが美しいと認める女なんていないのよ。だから美しいと言ってくれる人のところに女は嫁ぐべきなのよ」
惣吉はゆきのことを美しいと言ってくれた。しかし、そう言われた時にゆきは特段嬉しいと思ったことはなかった。嬉しくなくても、そう言ってくれる人に黙ってついて行くべきだということを母は私に伝えたかったのだろうと思った。
「さっきね、ゆきさんを見つけた時に、やっぱりゆきさんは美しい人だと思ったんです」
隣に並んで歩いていた惣吉が突然そう言った。惣吉はゆきと会うたびにそうやって美しいと言ってくれた。それは決して惣吉のお世辞ではなかった。しかしゆきにはそれは許嫁の義務のように聞こえて仕方なかった。と言うのもその言葉にゆきの心が全く動かなかったからだ。
「実は私たち、ゆきさんの後ろ姿に見とれていたんです」
その時だった。突然高橋が言った言葉がゆきの脳裏に浮かんだ。
(私たちということは重治さんも見とれていたの?)
そのことをゆきが思い出すとゆきは顔が熱くなる思いがした。そしてそのことを惣吉に気取られないように惣吉から顔を背けた。しかし、惣吉はそんなことには全く気が付いていなかった。
「そろそろゆきさんのお宅ですね。ここまで来たらもう大丈夫ですね」
惣吉はそう言うとここで今日は帰ると言い出した。
「うちには寄って行かれないのですか?」
「はい。また次の機会にします」
「父に会って行かれたらいいのに」
惣吉とゆきの父は話がよくあった。
「いいえ、今日はそういう目的ではなかったので」
ゆきは無理に引き留めてもいけないと思って、それ以上惣吉を誘うことはしなかった。しかし惣吉の目的がどういうことだったのか、それが少し気になった。
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