2.ユリシーズ

4/6

4人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「水です。勝手に冷蔵庫を開けてしまい申し訳ありません」 ソファで横になっていたギルダに水を差し出す。ギルダはそれを奪い取ると一気に喉に流し込み、空になった容器をキリエに叩きつけた。 キリエは無表情のままだが、眉を顰める信号はきちんと発信されていた。 「……セカンドライフプロジェクト。現実世界を再現したデジタル空間にアンドロイドを住まわせるバカみたいな計画」 「私は革新的だと思いますが……」 「そう言うってことはあの噂は本当なのね。今の今まで疑っていたわ」 「申し訳ありません。水面下での行動は制限が多いんです」 キリエが従事しているプロジェクトは政府非公認の活動である。加えて、エラー品の撲滅を目指す政府とは正反対の、エラー品の救済を目標としている。もし警察にでもバレてしまえば罰金だけでは済まされないことは自明の理である。 「……あなたは……そこに行ったことがあるの? その、アンドロイドだけの世界ってやつ」 「いえ、まだ開発途中なので。完成するにはあと10年の月日がかかります。それに移住(コンバート)させたアンドロイドは再度この世界へ戻すことはできません。行ったら、行ったきりです」 「そう……やっぱり、バカみたいな計画ね」 検索サイトで『バカ』の意味を再検索するが、やはり計画の形容詞には似合わない。なにを質問すれば解決するだろうかとプログラム上で試行錯誤している間に、目を閉ざしていたギルダが口を開いた。 「死んだ息子の代わりが欲しくて、最初は養子を引き取ろうとしたの。だけどガンが再発して、私に残されてる時間が少ないことを知って、子供を育てる時間なんてないことが分かった」 医療技術は未だ躍進を続けている。50年前には不治の病とされていた病気も、有効な薬や手術法が発見されたことで完治した例が増えている。 だがそれでも治せない病気が0になった訳では無い。時間とお金の問題は、時代が進んだだけでは解決しない。 「弱っていく私を見かねて、主人が街でアンドロイドを買ってきてくれたの。よく笑う子なのよ、あなたと違って」 それ取ってくれる、とギルダが写真立てに指を指す。写っているのは、10歳ほどの少年を模したアンドロイドだった。頬にはそれを証明する英字と番号が刻まれている。 「最初はよくできたプログラムに驚いたわ。すぐにあの子がアンドロイドであることを忘れてしまった。『どうしてごはん食べないの?』って聞いたら、『さっき隠れてお菓子食べちゃったんだ』って言うんだもの。あれを生きてると言わずになんて言うのかしら」 キリエはその答えを口にしようとしたが、すぐに生成された文章を削除した。愛おしそうに写真立てを撫でるその手を止めてしまうと予測したからだ。 「政府がアンドロイドを回収するようになってから毎晩、ユリシーズはこのソファで毛布を被って震えていたの。私も怖かったけどきっと、あの子の方が明日が来ることを恐れていたと思う」 「アンドロイドは苦痛も恐れも感じません。もしやユリシーズはエラー品だったのですか?」 「エラー品? ユリシーズのあの行動はエラーなんかじゃないわ。私たちを幸せにするために、たくさんの感情を学習したから悲しんでいたの。私たちの家族になるために、あの子は涙を流すことを覚えてくれたの」 オプションを付ければアンドロイドは涙を流すことができる。しかし実際にそれを希望する利用者は少なく、対応している店舗も少ない。 涙を流されたら、人として見てしまいそうになるから。 それがオプションを断る大半の理由である。 「可哀想だった、気の毒で仕方なかった。国のため、人のため、未来のため。だけどこの世界の中心にいるのは、他ならない自分自身よ。自分のために生きられないなら人生に意味はないわ。自分の愛した息子が不幸になるなら、私の余生に意味は無いわ」 ギルダの言葉をメモリに保存していると、彼女の言った最後の言葉にAIが疑問を浮かべる。 息子が不幸になれば余生に意味は無いと言うのに、なぜ彼女はまだ生きているのだろうと。ユリシーズが壊れている今、なぜ彼女は死んでいないのだろうと。 これが人間の使う『言葉のあや』というものなのか。それとも、ユリシーズはまだ壊れていないのか。それを確かめるべく、疑問符の付いた文章を作成する。 「あなたの言葉は、ユリシーズはまだ不幸になっていないと、まだ壊れていないと言っているように聞こえます。ギルダさん、本当のことをお教え下さい。あなたのユリシーズはここに居るのですか?」 そう問うと、ぴたりと、ギルダと目が合う。なんの感情を抱いているのか推測できないその目は、アンドロイドには再現できそうもないほど不可解でランダムな揺らぎを持っていた。 「ええ、いるわよ。頭部だけしか残っていないけど」 一般に流通されているアンドロイドのメモリは一般的に頭部に内蔵される。しかし、改造や改ざんの防止、また頭部の不自然な凹凸を減らすという観点から頭部は全体くまなく溶接されている。 これは無線接続機器を持たない一般人がメモリにアクセスすることを規制するためでもあり、下手に頭部をこじ開けようとしてメモリを破損する事例は過去にいくつもある。 「頭部に損傷はありますか? メモリには手を加えましたか?」 「いいえ、メモリ自体は平気のはずよ。でもアクセスする手段はないわ。アンドロイド革命の影響で無線接続機器は高騰してしまったし、下手に手に入れようとすれば政府に目をつけられてしまう。それに私たちに、ユリシーズの頭を開ける勇気なんて……」 ギルダが言葉を言い終える寸前、チカチカと照明が点滅する。しかし外は快晴で、雷もハリケーンも予報には無い。 ギルダが顔をあげると、頬に青白い光を宿すアンドロイドが左口角をあげていた。 「私はメモリ収集用アンドロイドです。メモリにアクセスするための手段は豊富にあります」 笑えたのね、とギルダが言うと、笑えますとキリエが返す。 「ぜひ、ユリシーズと話し合ってください。我々はなによりもアンドロイドの意思を尊重したいのです」
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加