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「ヒバナさん」  視界が遮られて、聞き慣れた声が上から降ってきた。 「…………カガチ、さん」  見慣れたシャツの袖を辿っていくとカガチさんが柔らかく微笑んでいた。目の前を通っていった腕は睦月さんと繋がったままの手首を掴んでいて、その手の感触に気づいた瞬間にすっと熱が下がっていくのを感じる。逆上せたようだった頭も落ち着いてきて、飛び出しそうな心臓も嘘だったかのようだ。 「実際にお会いするのは初めてですね。睦月二葉さん。うちのヒバナがお世話になっています」 「……いえ。はじめまして。神無さん」  睦月さんの指が離れると、それを待っていたかのようにカガチさんの手も離れた。――もしかして、この場面は見られては駄目だったのではないだろうか――まるで浮気現場みたいだ。カガチさんとは恋人ではないけれど、どう思っただろう。恋人だった男を見限った女だと思われてしまっただろうか。それは困る。 「ヒバナちゃんを迎えに来たんですか? 連絡は入れたって聞きましたけど」  睦月さんの問いで改めてカガチさんを見上げる。確かにお茶に誘われたから帰りが遅れると連絡はしたはずだ。すぐに画面を伏せてしまったから反応は確認できなかったが、帰りが遅いとなれば真っ先に確認するだろうから読んでないということではないと思う。  ちゃり、と金属音を立てて彼は私の前に何かを置いた。開いた手の下から現れたのは私たちの家の鍵。数年前にキキョウにねだって買ってもらったシマエナガのマスコット付きだ。 「彼女が鍵を忘れていったので、万が一だけれど入れなかったら困るだろうと思って。知っての通り、俺は急に眠ってしまうものだから」 「えっ、もしかして昨日……」 「なんだか寝つけなくて」  またか。  そもそもが不規則な生活を送っていたキキョウの体だ。何年も蓄積した体の記憶というものは消えてはくれなかったようで、カガチさんもまたそれを引き継いでいた。日によって睡眠時間や就寝時間や起床時間が全てランダムな、健康的とはとても言えない生活リズム。丸一日起きている日もあれば、夜に寝ていなかったせいで夕方あたりにストンと眠りに落ちてしまう日もある。  いくら時間が決まっていない職業とはいえ、体には良くないから気をつけてって以前から何度も言っているのに。 「……今日は、ちゃんと寝るから」 「…………絶対ですからね」  私の顔から無言の抗議を受け取ったらしい彼はいたずらがバレたときの子犬のような表情を浮かべた。キキョウの頃から何度も食らっている手なのだが、これも染み付いているのだろうか。毎回絆されている私のせいかもしれない。 「仲良くしてるんですね。少しだけ安心しました」  私たちのやり取りを見ていた睦月さんが困ったように笑っていた。完全に身内の話をしてしまったことに申し訳なくなり、謝罪を口にしながら鍵をバッグのポケットにしまう。 「……心配してました? 俺たちのこと」  穏やかな口調ではあるものの、カガチさんの言葉には妙な空気が纏われていた。まさかとは思うが、睦月さんを煽っているような。バッグの口を閉めて慎重にふたりの様子を伺うと、なんとも言い難い緊張感と気まずさが漂っている。  先程睦月さんは――正直信じ難いが――私が好きだと言った。思い返すとそのときからカガチさんへ敵意や懐疑心を抱いていたようだし、彼からそれらを見せることは納得できる。でも、カガチさんが敵視することはない、と思う。 「ええ、心配しました。ヒバナちゃんは抵抗しても敵わないでしょうし、傷つけられてからじゃ遅いので」 「睦月さん、そんな言い方……!」  私が口を挟もうとしたところをカガチさんが手で制し、話し合いの姿勢をとるかのように私の隣へ腰かけた。私の正面にいる睦月さんと斜めに向かい合う形になり、テーブルの上で悠々と手を組んでは、なだらかに上がった口角をそのままに口を開く。 「彼がどれだけヒバナさんを大事にしていたかは俺が誰より知っています。無理に迫ったりしませんよ。彼女が出て行けと言えば俺は出て行きます。恋人のことを忘れた薄情な男、追い出されても仕方がないですし」  目を伏せて笑う彼はそんなことを考えていたらしい。私が薄情だと責められることはあれど、彼が責められるわけないのに。 「じゃあ、ヒバナちゃんが俺を選んでも文句はありませんね?」  音が聞こえそうなほどに真っ直ぐ絡むふたりの視線。まるで宣戦布告のような睦月さんの言葉にどんな答えを返すのか気が気じゃなく、不安に満ちた胸でカガチさんの唇が動くのを待っていた。  彼が私に対して独占欲を抱くことはないだろうが、それでも否定を即答しないというだけで期待してしまっている自分に気がつく。あわよくば、嫉妬してくれないかと。恋人であったということに少しでも執着してくれやしないかと。
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